少年時代
1914年(大正3年)6月16日、第一次世界大戦、榮助の言葉で云うと欧州大戦勃発の年、山梨県中巨摩郡落合村の深沢家に、一男一女に継ぐ次男として誕生、
後にも一男一女が続くので結果として5人兄弟で兄姉妹弟が全部揃った真ん中として育つ。
榮助の少年時代についてそれを知る人が全て口を揃えて言っていた事は、近隣近在に知られた稀代の悪たれぶりである。
あまりの悪たれ、いたずらに朝の通学路の門々には栄助を捕まえて懲らしめようという大人が待ち受けている危険があるため
とんでもない遠回りをしなければならない程だった。しかし、本人の弁によると、学業成績は神童の域であった由である。それが完全な法螺という訳では
無かったらしく、昭和2年まだ甲府のお城の中にあったところの、旧藩校徽典館の流れを汲む名門山梨県立甲府中学校に入学を果たす。
青年時代
中学に入った榮助は、将来は早稲田大学に進学して文学の道に進む事を夢見る。
しかし、生家の経済状態はこの夢の実現を許さず、5歳年上の兄の説得によって昭和7年、官費の山梨師範学校本科二部に進学、
教師への道を歩む事になる。
飯田蛇笏との出会い
昭和9年、20歳で師範学校を卒業し短期現役兵制度による兵役後の9月、山梨県東八代郡境川村の境川尋常小学校の教師として赴任する。
当時境川村には、第一句集の『山廬集』を出して2年、50歳という脂が乗り切った時代の飯田蛇笏がいた。
蛇笏は峨峨たる山岳にも譬えられる発句で今も日本文学史に輝く巨星であるが、文学青年の栄助がこの目も眩むような
存在がすぐ近くに居ると言う僥倖を逃すわけがなく、直ちに山廬の門を敲き、入門を許されて黙榮の俳号を授かる。
『子供等を狩りだす声や秋の山』 これは昭和9年秋、蛇笏の御前句会で初めて蛇笏本人に抜いてもらったいわば処女作なのだそうである。
この頃の蛇笏の高弟は、飯野燦雨、五味洒蝶らで、後に雲母を継ぐことになる蛇笏の四男龍太はまだ中学生であった。
榮助は後々まで酔った上での俳句談義では芸術院会員でその句境を深く尊敬する龍太を洟垂れ呼ばわりすることがあった。
結婚、戦争、『先生』
昭和15年2月1日、悪たれ小学生時代の恩師である新津先生の世話で山梨県北巨摩郡駒井村にある先生の義姉の嫁ぎ先であった
志村家の婿養子として後の私達の母ゆりと結婚(ゆりは健在であるのであと45日で結婚70周年を迎えるところであった)、志村榮助となる。
山里に突然婿入りしてきた栄助を村人はプライベートでも先生と呼ぶことにし、以来『先生』は世代を越え生涯に亘って榮助の
村人からの呼び名(いわば仇名)になった。
榮助が教員を勤めた昭和10年代は小学校も時代の激流に揉まれた時代で、呼び方も尋常小学校から国民学校に改称され、日米親善の大使であった
『青い目の人形』排斥があった。榮助も青い目の人形を焼いたと語っていたが、この種の話では兵士本人の証言を傍証無でそのままは採用できないので本当の
所は判らない。
勿論、日本男児であるから榮助も時の制度に従って兵役に就いている。全盛時は五尺六寸、十七貫(168センチ、65キロ)という当時としては巨人であった
ため11年式機関銃手も勤めたが、教員だった故に外地には赴くことなく、昭和20年6月、
山梨県北巨摩郡塩崎国民学校教師から31歳で最後の召集を受けて赴いた有明海の沿岸陣地において帝国陸軍伍長で終戦を迎える。
敵艦載機の機銃掃射を食らったのが弾の下をくぐった唯一の経験であった。しかし米軍の九州侵攻作戦発動は昭和20年11月であったので戦争が
もう少し長引いたら榮助の命も無かったであろう。内地に居た為終戦間もなく新型爆弾で焼け野原になった長崎、広島を横目に帰還。
百姓になる
戦後再び教員に戻ったが、農地解放で僅かに残った田畑を守る為に間もなく退職し、専業の百姓となる。
新し物好きでもあったので当時周囲では誰もやっていなかった果樹栽培を試み、りんご、柿、小梅、もも、さくらんぼ、などを熱心に文献研究して作り、
立派な実を収穫するに至ったが、インターネットや道の駅など無い時代、孤軍奮闘では結局販路開拓ができず果樹は断念し周辺農家と協力しての養蚕に専念、
最後は趣味としてに近かったが、80歳くらいまで蚕を飼った。
地方政治の道に嵌まり込む
俳人黙榮の活躍時期は昭和20年代から30年代初めで、40歳代半ば頃俳句に疑問と限界を感じ、師蛇笏とも自ら袂を分かってしまった。
この頃から暗闇の中に怪文書と実弾飛び交い、魑魅魍魎が跋扈し、古くは金丸信、新しくは輿石某を国政に送り出している甲州選挙の世界にのめりこみ、
自らも五十歳代半ばで足を洗って真人間になるまでの十数年間地方政治の泥沼を這い回った。
師蛇笏と別れて政治へのめり込む榮助を家族は祝福したわけではなく、家族とは何かとぎくしゃくした時代であった。
文学の夢再び
改心後は再び文学の夢を追い、養蚕と米作りの傍ら万巻の古典を紐解き、時にピアノを叩き、絵を描くという日々を持った。
俳句には戻らなかったが、高根良徹先生に就いて始めた短歌は生涯続け、宮中歌会始めに詠進歌が綾小路流で披講されることを
夢にみてゆりと共に歌作に励み90歳過ぎまで毎年応募を続けたが夢は叶わなかった。
俵万智の歌は『サラダ記念日』発表と同時に高く評価、後に地区の文化講座で古典文学鑑賞と共に万智鑑賞の講義をするほどの大ファンであった。
榮助の心の中では進学を憧れた早稲田大学文学部国文科出身の万智は、可愛い後輩のように思えたのかもしれない。
黙榮の山櫨出入り時代には中学生だった飯田龍太はこの頃日本を代表する俳人として活躍しており、榮助はこの龍太の感覚を蛇笏とは別の世界だが
蛇笏を超えると深く尊敬していた。黙榮が目指して挫折した俳句の世界の完成形は龍太にあると考えることもできる。
趣味
絵を描く事が大好きで静物画や人物画を自由奔放のタッチで殆ど一瞬で描いてなかなかの味であった。シュルツの漫画『ピーナッツ』が大好きで
膨大な量の巧みなスヌーピーやチャーリー・ブラウンの模写を残したが、これらは残念ながら当HPで公開するわけにはいかない。
師範学校仕込みのピアノは独特であり、カラオケも耳が遠いこともあってマイ・オウン・ウェイであった。また自称万年筆を持っても手が震える機械音痴で、
自動車の運転やピントと露出を自分で決める昔のマニュアルカメラ操作も連れ合いのゆりは軽々とこなしたのに榮助にはできなかった。
最晩年の榮助は、耳が絶望的に遠くなり、普段慣れた家族と、高く大きな声を出してくれる50歳以下の女性を除いて、込み入った会話は殆ど不可能であったが
天下の森羅万象について一方的に講釈を垂れ、家庭菜園というには余りに大規模に野菜を作って害虫と雑草には果敢な化学戦を挑み、
(果樹栽培をしていた頃はパラチオン系殺虫剤ホリドール(ニラン)の大ファンであった位農薬好きであった)、散歩に出ては駄菓子や飴玉を買い食いし、
最愛のお袋の味をひたすら懐かしみ、新聞連載の『ピーナッツ』を毎日模写し、
歳の割には大酒を飲み、デイサービスにはスケッチブックを抱えては通う日々であった。彼は生来の教師で教えたがりであり、何か質問されると抱えた
スケッチブックも動員して講釈を始めた。
大往生
2009年12月7日、そのデイサービスで様子がおかしいのを看護婦さんが気付かれてそのまま入院、翌日ほんの一瞬だけ意識を取り戻し、『おかかのお粥が
とても美味しかった』という最後の言葉を残したが、
その後8日間眠り続けて12月16日夜、眠ったままの大往生を遂げた。95年と正確に6ヶ月の生涯であった。
死因は脳梗塞。百姓で鍛えた大柄な体で、最後まで自力で歩いていただけに頑丈な骨格をしており、その量は骨壷からあふれんばかりであった。
2009年12月20日
追記 ゆり;2010年9月22日雲間に小望月の夜逝く。享年94歳8ケ月。合掌。