コモ湖 ミラノ

スイスからイタリアに入るメインルートのイタリア入り口 コモ湖

   スイス側から、即ちドイツやフランス、さらにはオランダやベルギー方面から、イタリアのトスカーナ地方に入る一番楽なルートは、 バーゼルからスイスに入り、スイス北部の比較的平坦な地域を東に進み、チューリッヒの手前で南下、ルガーノを経て、ゴットアルト・トンネルを 抜けるルートである。これはアルプスの十字路・アンデルマットの下をくぐるヨーロッパ中部北部からイタリアに出る王道とも言えるルートで、 休日前となると上記の国々のナンバーを付けた車で大混雑となる。
 このルートは2010年10月に貫通した新しいゴットアルト基底トンネル(全長58Km)が完成したら更に強化される事になるであろうが、 ゴットアルト基底トンネルは安全の為に車は走らせず、汽車フェリーになるようである。

ゴットアルト・トンネルの渋滞

 高速道路のゴットアルト・トンネルは、トンネル内で停車してしまうような渋滞を防ぐために、トンネル手前で流入規制が行われる。 車は本線上に停車して順番を待つ事になるが トンネルに入ってしまえばスムースに走れる。トンネルを抜けるとスイスのイタリア語圏で、陽光あふれる風景になる。
 トンネルを抜けた所にあるアイローロの大きなサービス・エリアは満車になり、身を捩りながら内股で建物に急ぐ人が続く。

 コモの手前で、大きなパスポートコントロール施設を越えるとイタリアであるが、この辺りのスイス/イタリア国境は入り組んでいて、途中の ルガーノ付近にはスイス国内にイタリアの飛び地があったりする。

コモ湖

 コモ湖はアルプスの南の裾にある氷河湖で南北に細長い湖である。岸辺は基本的に切り立った崖で道路は曲がりくねって狭い。湖を遡った先は、 スイスの古都クール即ちライン谷に抜けるスプリューゲン峠と、サンモリッツに抜けるマロヤ峠の分岐がある。スプリューゲン峠の登り始めのつづら折れは、 この峠道を我々峠道仲間に紹介してくれたDr.Minakataが「自動車でのロック・クライミングですよ」と評した位凄いが、コモ湖の水運と合わせてイタリアから ラインの谷に一発で抜けられるルートとして古代ローマ時代からある峠である。


コモの町の側の丘に登る

 湖畔からケーブルカーで、標高750m位の上の駅まで登れる。コモの町とコモ湖の絶好の展望台である。
 矢鱈と人懐こい犬が歓迎してくれた。


 真ん中の大きな建物は、コモの大聖堂。
 丘の上からだと大聖堂を後ろ側から見る事になる。

 14世紀にルネッサンス建築として作られたが、その後の改築や18世紀に作られたドームなどを備え、現在はロマネスク様式の教会とされている。
   大聖堂付近の旧市街の道路は入り組んで非常に狭く、一度車で入り込んで大変なめにあった。



 コモの大聖堂の正面ファサード。コモには石工の伝統があり、コモの石工はイタリア全土で活躍した。

 ホテルはこの近くで、トスカーナ料理のおいしい店があり、3日間通った。

 そのレストランで、ミラノからタクシーでコモ観光に来た、と言う不思議な女性三人連れの日本人観光客に会った。
 タクシー代が十数万リラしてぼられたのではないか、という深い疑惑を抱いていて、帰りのタクシーはぼられたくないと、何の関係も無い 店の女将さんにしつこく訴え、その通訳にコモ在住の日本人女性が呼ばれる騒ぎになった。リーダーは年齢不詳白いハイソックスにツインテールのちょいと凄い人だった。


 

コモ湖遊覧船


 遊覧船というのは大好きで、機会さえあれば乗る事にしている。

 湖畔には物凄く豪華そうな別荘と思われる建物があったりする。聞くところによると、現在ある邸宅の土地を分割分譲する事は、法的に許されず、景観が維持されているのだそうである。
 コモ湖は非常に大きいので、2時間程度の遊覧航海ではごく一部しか見られず、 スプリューゲン峠に続く奥の方には入って行かない。コモ湖奥地の山の或る場所には、免疫力が異様に強い遺伝資質を持つスーパーマン一族が住むと言う。

 左写真は湖から見たコモの町。

 コモ湖畔のアツァノ村は1945年4月27日、スイスへ亡命を企てたムッソリーニが、裏切りと密告により愛人クララ・ぺタッチと共に捕らえられた所である。  共産党支配下のパルチザンに寝室まで踏みこまれた二人、「何をしている、ぐずぐずせず、早くベッドから出て来い」とせかされるた クララが「パンティーを探しているの」と答えたと言う逸話がある。クララの精一杯の抵抗にも拘らず、二人はこの村で殺され、死体はミラノに 運ばれて逆さ吊にされた。超大物のムッソリーニをリンチ同然に殺してしまった事は後に連合軍全体の問題になるが、 当時のイタリア共産党は殺害指令を否定、今でも真相は闇である。


汽車でミラノへ遠足

 汽車の切符はATB仕様。このイタリア国鉄切符の印刷用インクの応札の為にオリベッティ―社の関連会社と組んで仕事をした事がある。相手の 窓口になったのは、最初に会った時真っ赤なミニスカートに網タイツで現れた若い女性工学博士技術部長であった。 最寄り空港だったトリノ空港にはいつも社長車のメルセデスS320が専任運転手によりさし回された。


 こちらも日本の技術陣を動員して結構頑張ったのであるが、オリベッティ―本社が発券システム本体の落札に失敗。このプロジェクトは流れてしまった。

 イタリアン・レーシング・レッドの長い歴史と数々の伝説のあるモンツァ・サーキットがあるモンツァ駅を過ぎる。

 ミラノ駅に着いた。例の巨大なミラノ中央駅である。


サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会 最後の晩餐

 この遠足の主目的の一つ、『最後の晩餐』見学。
 かなりの行列が出来ていてその周りを新聞紙を持った子供のスリがウロウロ。
 ダ・ビンチは制作の時間を稼ぐため(1495〜1497)、普通のフレスコ画の技法を取らず、乾いた壁に描いたため 制作の20年後には絵にひびが発生、その後も痛み続けて1726年に第一回の大規模修復が行われ、その後も何度も修理、 ナポレオン征服の時は馬屋にされ、 第二次大戦では砂袋を積み上げてかろうじて爆風から守られた、という受難の絵である。本日も大規模修理中で絵の前に 足場が組まれている。



ドゥオーモ

 何やら大規模な選挙の真っ最中で、警備も極めて厳しく、ドゥオーモ屋根に上るエレベーターは運転休止中。


ガレリア・ヴィットリオ・エマニュエル2世




スカラ座

 アーケードを抜けたところの広場に面した位置にあるイタリア・オペラの殿堂。
 本日は外観の偵察のみで、少し先のナポレオン通やサン・アンドレア通方面にあるプラダ、アルマーニ、ボルサリーノ、リチャード・ジノリなどに急ぐ。
 その辺りで何をどうしたかについては省略。


スフォルツェスコ城




老いたり、ミケランジェロ

 最晩年、視力を失ったミケランジェロ作の「ロンダーニのピエタ」。
 ミケランジェロ最後の作品で未完。
 しかし、あのサン・ピエトロのピエタを作り、システィーナ礼拝堂に壁画を描いたミケランジェロの 最後の作品がこれとは。嗚呼老いたり、ミケランジョロ。



サン・ピエトロ寺院のピエタ



 




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