ブリュイエールとその周辺 BRUYERES/Lorraine
夜明けを待って、一人で朝の散歩に出る。市役所前の通りでコラン先生の診療所の前にいたら、
頭上のバルコニーから突然英語の朝の挨拶『良い朝だね』が降ってきた。見上げると相当なお年寄りがガウン姿で立っていた。
コラン先生ご本人のようだったが、鳩時計のようにお出ましは一瞬で、びっくりしている間に引っ込まれてしまった。
郊外の病院、D高地の中腹まで、駅などを回ってホテルに戻ったら丁度朝食時間。朝食は完全フランス式でナイフのみ、パンとジュース、カフェオレだけ。
チェックアウト後、車でベルモン
ベルモンからビフォンテーヌ(Biffontaine)に行くのに、442連隊のようなひよどり越えはできないのでブリュイエールに引き返し、
山をぐるっと回ってビフォンテーヌ。失われた大隊の森辺りを遠望。
彼の文机、最後に使ったそのまま。
一回り大きいが元気だった頃の同僚と体つきや雰囲気が似ていて
ブルーグレイの目の色がそっくりなお兄さんが、村はずれに停めた車の所まで送ってくれた。
彼の子供達も音楽を習っていて、今日はレッスンに行っているとの事だった。
一寸思い出写真。1996年2月、雪のイングランドで。( fevrier 1996 Telford Angleterre )
大喰らいで、敬虔なカトリックで、オルガン奏者だった君とは随分一緒に旅して、
音楽の話、食べ物の話などした。オルガンの奏法の話、特に楽譜上の音符を一台一台全部反響の強さ長さが違う色々な教会のオルガンの鍵盤にどう
置いていくかの話は非常に興味深かった。
パリのCDGの通路で急いでいた時、前を塞いでいる日本人の若い娘達に道を空けて貰うのに教えた日本語の『SUMIMASEN』の一言がなかなか言えなかったシャイな君。
このイングランドへの出張ではレンタカーが右ハンドルのため、空港からの出発では私にハンドルを譲ったが、その後は3日間は彼が自分で運転した。左ハンドル右側通行
慣れしているせいで左路肩に寄り過ぎ、残雪を踏むので同乗者は怖かった。日本人が大陸ヨーロッパやアメリカで左ハンドル車を運転すると逆に右の路肩に
寄り過ぎるので注意を要する。
アルザスで一番美しいというタンの教会尖塔を見て、 高速道路と並行してボージュ寄りを走る自動車専用道路を北上してコルマールに向かう。ルファックを過ぎた所の丘から見える目の前に広がるアルザスの風景は 圧巻である。
コルマールには寄らずに一気にリクヴィールまで行き、ホテルSに部屋を取る。
この村に泊まると言う機会はなかったので、夕方から日が暮れていくリクヴィールというのは記憶になく、
新鮮であった。
あちこちに電話して以後の3日間のアルザス滞在の予定を立てる。
一寸寝坊していたら、子供達と主(あるじ)は既に登校および出勤後で留守だった。
本日、当方は朝から晩めしまで各自単独行動で、夜ホテルで落ち合うだけの日。
車で、かっての職場に出て行く。日本から資料が送ってあって、仕事の打ち合わせなどを行う。
エギスハイム(Eguisheim)のお馴染レストラン
同僚が、日本式ビジネスランチではなく、フランス風の重たいビジネスランチをおごってくれると言うので、
会社のあるヴェットルスハイムの隣村エギスハイムのお馴染みレストランに行く。
私の最初の秘書さんの縁戚という事で、お客様接待に良く使った店である。料理も雰囲気もコテコテのアルザシアンでお客様には確かに喜ばれた。
前菜はフォアグラ・ショの白アスパラ添え、主菜は仔牛のピノノワソース。
ワインはゲベルツトラミネールとトーカイ・ピノ・ノワと豪華に食い、飲み倒す。
さらにお勧めに従ってミルティーユのオー・ド・ヴィも。
この村には中心の広場を囲む完全な360度回れる円形の通りがあり、一見の価値がある。
会社に戻って、工場長、同僚、今の仕事の関係者等の現地人関係者に挨拶回りをする。
特に今の日本のオフィスに直結している仕事の人たちについては、顔を日本に紹介するため写真を撮らせて貰う。
こういう時、何のためらいも照れなくモデルになってにっこり笑ってくれるところは『外人さん』である。
単身赴任の同僚の家に夕食に行く約束をして、引き上げる。
エギスハイム近くの丘の上からコルマール遠望、画面中央右の白っぽい建物群がかっての職場の施設。
今夜はホテル・マルシャル泊。仕事のお客様、個人的な友人親戚の為に随分何度も予約したホテルであるが、
自分で泊まるのは初めて、フロントの小柄な女性は顔を覚えていてくれた。
ドイツに本拠を置くロマンチック・ホテルチェーンの一軒で、コルマールの日本人はロマンチック・ホテルと呼んでいた。
木造建築で内部は極めて複雑、火事にでもなったら焼け死ぬしかない。
床にビー球を置くと転がるという噂もあった。
部屋の名前が音楽家の名前になっていて、勿論アルバート・シュバイツァーの間もある。
夕方、昔の友人と食事の家内と別れて、歩いて同僚宅へ、単身赴任者が3ベッドルームのとてつもないアパートに住んでいた。
痛風持ちの手料理による健康食の夕食をよばれる。
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昨日噂話を聞いたばかりの魚屋さん通りの運河沿いに出来た新しいレストランをチェック。
カテドラルの屋根にあるコウノトリの巣で雛をかえしたカップルがいて、ただただ驚異と感激で長い時間双眼鏡で眺めていた。
2001年春に第二次大戦後初めてコルマールセンターにコウノトリが着陸して話題になり、
その時カテドラルの屋根の巣に興味を示した鳥もいたが、雛を孵すには至らなかった。今年は見事に孵したわけで、めでたしめでたしである。
コウノトリはアフリカとヨーロッパを行き来する渡り鳥であるが、近年ヨーロッパが暖冬でアフリカに帰らないでヨーロッパで越冬してしまう鳥
もいるという。何の理由かは判らないけれど10羽くらいが群舞して飛ぶ事があり、大型で優美な鳥なのでそれは見事な光景である。
私小説的コルマール散策;もしよろしかったら memoire de Colmar
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カテドラル広場の本屋兼文房具屋"RUC"で懐かしいメモ帳、マーカーペンなどを買う、文房具の実用性は圧倒的に日本製の勝ちであるが、日常使っていた物は実用性無視で無条件に懐かしい。
公園で昼寝;Champ de Mars公園;かってのアパートのまん前にある公園なので私たちにとっては『公園』といえばここ。
突然、もうここに住んでいるのではないのだと思い、またここに来る事もないだろう事を確信する。
公園の樹木はリンデンバウムとマロニエ。マロニエは咲き終わってしまっていた。
夕方、別の同僚の奥さんの実家を訪ねる。ご両親には任期が終わってコルマールを引き上げる時大変お世話になった。
奥さんと子供が里帰り中である。両親が、庭のさくらんぼが鈴なりだが、明日から南仏にバカンスで食べる時間がないと嘆いていた。
フランスらしく薄暗くした部屋でフランス語の会話がゆったりと続くのでまたまた眠くなり、さくらんぼの木の下のベンチで寝てしまった。
コルマールに戻って、プチベニスのレストランでタルトフランベの夕食。
カローラの赤(アルザスの地物のミネラルウオーターで強いガス入り硬水)と冷やして飲む赤、トーカイ・ピノ・ノアが懐かしい。
カローラの赤は家でも会社の食堂でも愛飲していた。今でもガス入り硬水が懐かしくて、にがりを数滴落としたソーダ水を飲んだりする。
ぬるくて気の抜けたガス入り水を平気で飲めるようになったら一人前(?)である。
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6月5日(木)
日本に帰る日。
バル高ことバルトルディ高校礼拝堂のやや間の抜けた鐘の音。
アパートの部屋にも良く聞こえた。
バル高では以前、生徒による日本語劇『桃太郎』を見たっけ。
バルトルディの名前はコルマール生まれで、N.Yの自由の女神などの作品で知られる彫刻家の名前から。
朝食後、コルマール見物はしないで、すぐ出発。
高速道路を南下し、ミュールーズの手前で横走りでラインを越えてドイツに入り、再び南下してバーゼルからスイスに入るという定番ルート。
国境の売店でサンドイッチを買って外の槻庭で食べるというのもいつものパターンの朝食。
チューリッヒ空港で給油後、車を返却。
チューリッヒ空港には非常に早く着いてしまい。チェックインゲートが決まるまでかなり待った。時間が来ても日本人らしき姿が殆ど見えないので本当に
東京行きが出るのか心配になるくらい。中に入って搭乗ゲートに行ったら日本人が沢山いた。乗り換え客だった?。
公衆電話から家に電話、ここでも5スイスフランで随分話せた。交互に免税店で知り合いへのみやげ物を買う。
帰りの飛行機もガラガラで、MD-11のエコノミー四席一列独占が可能だった。
クルーとはドイツ語で話されていた60歳くらいのご兄弟と思われる二人連れが実に気持ち良くお行儀良く空の旅を楽しんでおられる様子を拝見、
年取ったらああいうふうに旅したいものだと思いつつ只酒をかっくらって大寝入りの空の旅。成田には早朝と言って良い時間に着き、
水蒸気に満ちた日本の風景の中を電車で走り、家には午前中に着いてしまった。
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