アルザス



 以下はアルザス在住時代に家族に送った手紙に添えたアルザスの解説である。アルプス造山以前から現代までをこれだけコンパクトにまとめたアルザス史は 少なくとも日本語では無いだろうと思うくらい我ながら良くまとめられていると思うのでここに掲げる事にする。

アルザスの歴史

地勢
 アルザスはフランスの東北部に位置する東西約50Km、南北約100Kmのほぼ真平らの平原のライン河以西の地方の名称です。
 平原は西をボージュ山脈(標高1200m級)、東をドイツ領のシュバルツバルト(黒い森)に挟まれ、真ん中やや東よりをライン河が流れています。 ボージュは古い山地で水の侵食が進み、非常に複雑な地形をなし、フランス本土とアルザスを分ける自然の障壁となってきました。
 ボージュの西側はロレーヌと呼ばれる地方で、アルザス同様にドイツとフランスの領有争いの的になってきた歴史がある土地ですがアルザスとの 共通点はほとんどなく、アルザス人にとってはボージュの西側は一括して『フランス』と意識されています。
 東の自然の障壁はライン河で古くからラインの東西は違う国でした。黒い森の山塊の向こうはドナウ川水系で全くの異国です。

地学的成立
 今から6億年前、現在のフランスの中央部から、ベルギーのアルデンヌ地方、ボージュとシュバルツバルトを含む広い地域が隆起を始めました。 ボージュは現在のアルザス平原あたりに頂上がある巨大な山脈に成長し、東に向かうドナウ川、北西に向かうモーゼル川、ミューズ川の水源でした。 長い地質時代においてはつい最近の6000万年前、現在のアルプス造山運動が始まり、ボージュはその反動で中央部が陥没し、 両側に二つの小さな山脈、ボージュとシュバルツバルトが残り、陥没部には新たにできたアルプスという大水源を源とするライン河が流れ込み、 水の流れと堆積物とでほぼ真平らの平原を形成しました。これが現在のアルザス平原です。
 アルザス平原陥没の際にボージュ東斜面とシュバルツバルト西斜面に帯状に特殊な地層が現れ、この地層はぶどうの栽培に適していることから、 やがてワインの大生産地になることが約束されます。

人間の歴史

ローマの時代

 アルザスが人間の歴史に最初に登場するのは紀元前58年のローマ皇帝カエサル(シーザー)のガリア遠征の折で、 まあ言ってみればシーザーの熊襲退治のようなもので、ローマにとっての野蛮人どもを蹴散らしてアルザスをローマの植民地とします。
 ローマの遺跡は英国を含むヨーロッパいたるところにありますがアルザスにも普遍的にあり、今働いている工場建設の 際にも遺跡が掘り出され、敷地の一角に保存されています。
 ローマはアルザスにぶどう栽培技術とワイン醸造技術を持ち込みました。

30年戦争まで
 紀元4世紀、おなじみゲルマン民族の大移動で北方から漸次ローマの植民地は陥落していき、アルザスからもローマ人は追い出され、 5世紀にはゲルマン民族の一派フランク族が制する国家の体を成します。
 その後もすったもんだを続けますが基本的に現在のドイツと呼ばれている側に属する時代が続き、13世紀にはヨーロッパの覇者ハプスブルグ家 の支配下に入ります。
 ハプスブルグ家のアルザス支配は善政と言ってよく、約300年間アルザスは豊かな土地からの農産物とボージュの鉱山からの 産物で隆盛を極め、アルザスの黄金時代を築きます。この時代にコルマールはハプスブルグ家から自治を認められた都市国家として栄えます。
 コルマールの成立はローマの時代に溯りますが、ライン河左岸の南北の街道と運良く地理的に直線に並んだボージュとシュバルツバルトを越える峠を 結ぶ東西の街道が交差するところ、さらに河川と運河を利用してライン河本流の水運も可能という物資の集散地として最適の条件を備えた場所にあります。
平原の真ん中にあるので、都市国家コルマールは厳重な城壁に囲まれていました。現在この城壁はありませんが、 ほぼ城壁跡に忠実に環状道路が走っています。アルザスは民族的には北方系が支配、言葉もゲルマン系のドイツ語の流れを汲むアルザス語 (アルザシアン)が話される独立国の様相も強めていきました。

アルザスの受難の歴史の始まり、30年戦争
 と、ここまでのすったもんだはヨーロッパのどこにでもあるお話ですが、20世紀に至ってもなお領有権争いが続いたアルザスの特殊性は 17世紀ドイツの支配権を巡る内乱に周辺国が干渉して起きた宗教戦争でもある『30年戦争』に始まります。
 この戦争でカール・グスタフ率いる新教のスウェーデン軍は旧教の総スポンサー、ハプスブルグ家の奥座敷アルザスに乱入、 破壊の限りを尽くします。コルマールも陥落、その名の通り30年間続いた戦争の戦場アルザスは、新教旧教両軍の軍隊と傭兵崩れの山賊に荒らされ尽くされ、 荒廃してしまいます。
 1648年ウェストファリア条約で戦争は終結、アルザスは有史以来初めてフランス王国領となります。とはいってもフランス(巴里)は余りに遠く、 古くからの統一王国フランスにとってみれば辺境の蛮族が住むところにすぎないアルザスは、40年後の1688年に始まるルイ14世の アルザス・ドイツ遠征でフランス領化が固定され、ようやく名実ともにフランス王国=ルイ14世のものになります。
 ルイ14世はアルザスを初めて見たフランス王で、フランスのアルザス支配の象徴であり、 今でもアルザス人にとってルイ14世は特別なフランス王のようです。

フランス中央政府(パリ)によるアルザス支配
 ブルボン王朝は、それ以前のアルザスの君主ハプスブルグ家時代のような自治は許さず、アルザスはフランス中央政府の直接支配を受けます。
 フランス革命、ナポレオンの出現と続く激動の時代もアルザスはフランスの一部として中央の支配を受け続けます。
 しかしながらやはりフランス=パリからみてアルザスはあまりに遠く、ナポレオン含む歴代フランスの支配者はアルザスのフランス化を無理強いせず、 アルザスは30年戦争以前のいわばドイツ風の文化の中で復興し、独特の文化と言語を継承していきます。コルマール町センターや周辺の村に残る 古い木組みの家は殆どが30年戦争で破壊されずに残った建物や破壊された建物の修復を中心にして復興にされていったものです。
 ナポレオン軍にはアルザス人が多く参加しており、特に幕僚、指揮官達には多くのアルザス人を含んでいます。これは本来フランス人ではないナポレオン (やはり独自の文化と言葉をもつコルシカ島の人)にアルザス人が共鳴するものがあったからだと言われています。 コルマール出身者にもナポレオンの信頼厚く、モスクワ戦で奮戦したラップ将軍がいます。
 ナポレオン没落後の処理を話し合った1813年ウィーン会議ではアルザスの領有問題が議題になりましたが、結局アルザスはフランスに残る事になります。

普仏戦争
 その後、アルザスの東方では、時代遅れのお城妄想に憑かれた馬鹿王様ルードリッヒ二世がバイエルン王国を滅ぼし、バイエルンは北方ドイツを統一した プロイセン王国に吸収合併され、強大な大プロイセン王国が成立、鉄血宰相と呼ばれるビスマルクの下、有史以来初めて、政治、軍事あらゆる面でフランスに まともに対抗できる『統一国家;ドイツ』が登場します。
 この間フランスは共和制だ王政だと揉め続け、『偉大な叔父の小さな甥っ子』ナポレオン三世の失政カバーの外征政策に呼応したというか、 待ってましたとばかりに乗じたビスマルクのプロイセン(プロシャ)との間で1870年、普仏戦争が始まります。
 日本の国語の教科書にも載った、ドーデーの『最後の授業』はこの時のプロシャ軍のアルザス侵攻をバックにしていますが、当時のアルザスでは アルザス語が普通に話されており、フランス語はパリ(アルザス人にとってのフランスの代名詞)から来た先生が教えてくれる外国語にすぎず、 その外国語がドイツ語に変わるだけの出来事で、ドーデーは嘘はついていないもののかなり先鋭的な反ドイツプロパガンダをやっています。
 実際、ドーデーの『風車小屋便り』はフランスの小学校の国語の教科書の定番にも関わらず、私の会ったアルザス人の大部分はこの『最後の授業』 を知らないと言っていました。
 戦争は殆ど鎧袖一触でプロシャ=ドイツは、北フランスのセダンでナポレオン三世軍を破って国王を捕虜にし、(国王は直ちにクビ) 首都パリを陥れて圧勝、積年のフランスへの恨みをはらします。1871年ベルサイユ条約でアルザスはロレーヌと共にドイツ領になります。
 このドイツ領時代、ドイツは大きな資本をアルザスに投下し、工業化を進め、町並みのドイツ化を図ります。コルマールの駅舎とその周辺の建物は このドイツ時代のものです。
 アルザスのドイツ領化(植民地化ではない)と、資本投下によるドイツ化は、日本の朝鮮半島領有に似ているかと思います。

第一次世界大戦
 1914年第一次世界大戦勃発、ドイツとフランスの国境であったボージュ山稜は両軍の凄絶なセンチ単位の領土奪い合いの戦場になります。
この時のアルザス人はドイツ人であり、大部分はドイツ軍に従軍してフランス軍と戦ったのですが、一部には自分はフランス人であるとして フランス側についた人々もおり、一族、親族が独仏に別れて戦う悲劇もおきています。
 現在のフランス人が書いたアルザスの歴史の本ではこのあたりをなんだか歯切れが悪い書き方をしているものもありますが、 これははっきり書けない事情が今でもあるからで、アルザスの特殊性から第一次世界大戦勃発から第二次世界大戦終了までの出来事を個人的に詮索したり、 軽々しく話題にするのは今でもタブーとされています。
 1918年第一次世界大戦終了、ベルサイユ条約でアルザスはフランス領となります。 フランスは直ちにアルザスのフランス化を始め、初等教育のフランス語化など、フランス語でアルザシアンの駆逐を図ります。 これはウェストファリア条約以降フランス中央政府初めての試みでした。 しかしながらアルザシアンはアルザス人の言葉として現在も生き残っており、家庭内ではアルザシアンで話すという同僚もいるし、  フランスの国語法の例外措置としてアルザシアンの書籍出版や新聞発行も行われています。

第二次世界大戦
 1930年代国防大臣マジノーの発案により、ドイツのフランスへの侵入を永久に防止するものとして、アルザスからロレーヌのドイツ国境に マジノ線と呼ばれる要塞群が建設されます。
 さらに、フランスはドイツのポーランド侵攻、フランスによるドイツへの戦線布告と風雲急となるや国境地帯の住民を南フランスに強制疎開させると いう挙にでます。この強制疎開させられたアルザス人は 豊かなアルザスから着の身着のままで貧しい南フランスに連れていかれ、しかも第一次大戦後のフランス化の甲斐なく日常会話をアルザシアンでするため、 これがドイツ語としか聞こえない南部フランス人との間で摩擦を起こし、フランス国家によるアルザス人虐待の呈を示しました。
第一次世界大戦の疲弊からよみがえり、  ヒトラーによって強力な軍事国家となったドイツは1940年5月、マジノ線を迂回してあっけなく北フランスに侵入、6月には南進に転じてフランスを南下し、 あっというまに首都パリを再び占領してしまいます。
 アルザスはライン河故にマジノ要塞が強固でなかった部分を突破して東進してきたドイツ軍とマジノ線を迂回して背後から進撃、 ボージュを越えて来たドイツ軍によって占領され、ドイツは占領したアルザスとロレーヌを1940年6月のコンピーユ休戦協定によりドイツ領に編入し直し、 ビシー傀儡政権下の占領フランスとは別扱いします。 フランス政府の処置で疎開させられていたアルザス人も元に戻されますが、戻すにあたり、『正しいドイツ人』的なものというフィルターがかけられます。 この処置の影響も今日まで尾を引いています。
 ドイツ領になったアルザスからはフランス的なものが徹底的に排斥され、さらにアルザシアンもドイツ語の一訛りではない特有言語として排され、 純ドイツ化が図られます。
 アルザスの若者はドイツ人として徴兵され主に東部戦線に送られますが、精鋭SS(ナチス親衛隊)にも配属され占領軍として占領フランスにも送られます。 リモージュ近くで起きた、『SS第2機甲師団;ダス・ライヒ』によるレジスタンス誤認虐殺事件にはアルザス出身ドイツ兵が関与しており、現在でも (水戸と彦根が仲が悪いように)アルザスと、かの地の心情的和解はできていません。また、第一次大戦当時同様に第二次大戦でも一族がドイツ派と 反ドイツ派に分かれる悲劇も起きています。
 1944年12月、雪のボージュを越えたフランス国内軍(レジスタンスから発展した軍隊)、自由フランス第1軍(ド・ゴール指揮下の亡命フランスの軍隊)、 アメリカ第7軍がアルザスに侵攻してアルザス解放戦闘が始まります。記録的酷寒の中で行われたアルザス解放戦闘は神様の思し召しとしか言いようのない 運不運をアルザスの町と村にもたらし、廃虚になってしまったところと殆ど無傷のところを残して1945年2月退却するドイツ軍は焦土戦法をとることなく ライン河を渡って撤退、アルザスはフランスの手に戻り、1945年5月ドイツの降伏で正式にフランス領になります。
 ちなみにアルザスの不運な村の破壊も連合軍の砲爆撃の結果で、ドイツ軍は直接破壊はしていません。
 戦後のアルザスではドイツ時代に帰還した人、『正しいドイツ人』のフィルターでふるい落とされた為、フランス化した戦後になって帰還した人、 ドイツ時代にドイツ本国の人と縁戚関係を結んだ人(これは結構例が多いらしい)、ドイツ軍に従軍した人、対独レジスタンスに加わった人、 自由フランス軍に加わった人、何もしないでおとなしくしていた人、戦後に豊かなアルザスに新たにフランスや外国から移住してきた人、 などなどとその子孫がそれぞれの事情を持って暮らしているわけで、このあたりがかの時代を軽々しく話題にするのはタブーとされる所以となっています。

余談;  アメリカ第7軍にはハワイとアメリカ本土の日系二世だけからなる第442連隊が含まれ1944年10月末ロレーヌの小さな町ブリュイエール周辺で 過半数の兵士が死傷するという猛烈な戦闘を行いました。この戦闘はアメリカ陸軍の歴史上重要な10の戦闘の一つとして記録されています。
 442連隊はこの戦闘での損害で戦線を離脱せざるをえなくなり(日系二世だけという特殊性で兵士の補充もできない)南仏に退いて、 アルザス解放戦闘には参加していません。ブリュイエールには今でも、これを記念した『歩兵第442連隊通り』という通りがあります。

アルザス観光

ボージュ山脈。

 アルザスの西にある小さな山脈でアルザスとロレーヌを分けている。古くから人が住んでいたため道路が網の目のように走っていて周辺の様子も 何処も同じようで目立つランドマークもないため簡単に道に迷う。
 稜線を走る『クレタの道』はボージュを縦に(南北に)移動する為の軍事道路。山稜は草原になっているところが多く、牛の放牧が行われ、 『最強のチーズ』マンステールの産地。晴れて視界が良い日ならスイスアルプスが見えるが年間何回というくらいしかチャンスはない。
 ロレーヌ側は雪が多く、スキー場が並んでいる。山稜草原は夏はきれいなお花畑になり、ミルティーユ(ブルーベリー)が摘める。

アルザスワイン街道。
 ボージュ山脈の東斜面に長さ100Km、巾500mから4Kmで帯状に繋がるぶどう畑地帯。7種類の醸造用ぶどうのみが栽培され、 アルザスワインを産出する。7種の内、6種が白ワイン用で赤は一つしかない。その赤もごく軽い赤で地元以外での入手は難しく、 アルザスワインといえば『白』という事になっている。あんまり貯蔵せず、さっさと飲むものとされ、値段も高くない。 ワイン専門店の蘊蓄付きでもボルドーの上物などに比べるとごくお安い。
 スーパーで売っている生食用の葡萄はアルザス以外の土地の産で、スペイン産が多い。

アルザスの主な町
ストラスブール

 人口70万人、フランス第3位の都市。西ヨーロッパの地理的な中心にあり、それゆえEU議会の議場がある。
その名の通り(街道の町)であり国境の町で、陸上とライン河の水上交通の要所。
 ハップスブルグ家とブルボン家との縁組にあたり、ハップスブルグ家のお姫様はストラスブールの手前で、オーストリーの衣装は全て脱がされて すっぽんぽんにされ、パンツからしてフランスの衣装に着替えさせられたと言う、それが誰あろうマリー・アントワネットである。
 観光目玉として、フランスで一番高い教会の尖塔があるカテドラル(=ある階級以上のキリスト教坊主が説教する教会)と運河周辺の古い木組みの家で 有名なプチ・フランスがある。ストラスブールは連合軍の爆撃にさらされたが、戦後昔のままに復興された。
 1940年にはフランス政府の処置で一時無人の都市になる。1944年12月に自由フランス軍とフランス国内軍、米第7軍の手で解放、 直後に起きたアルデンヌでのドイツ軍の攻勢(バルジの戦い)のため、アイゼンハワーはアルデンヌに向けるパットンの第3軍の後を埋める為に 第7軍を一旦後退させ、ストラスブールの放棄を決定する。
 しかし、ド・ゴールはこれに猛反対、ストラスブールはフランス軍の手で保持される。1945年1月1日から1945年2月3日迄のアルザスの 戦闘は第二次世界大戦における『フランス軍』の戦いの白眉であり、彼らは勇猛果敢に戦い、ストラスブールを堅持、コルマールを解放した。

コルマール
 人口7万人、アルザス平原の真ん中の町。アルザスのワインと農産物の集散地、古くは繊維産業、現在ではアメリカ、 日本の資本の幾つかの企業が工場を持っている。
 第二次大戦ではライン河を越えて来たドイツ軍によって占領されドイツ領化、名前もKOLMARに変えられた。
大戦末期にはドイツ本国からの『コルマールのポケット』と呼ばれるドイツ軍の突出部を形成し、ドイツのアルザス防衛の中心となる。 しかし、1945年2月3日自由フランス第一軍を先陣とする連合軍のコルマール突入に際してドイツ軍は焦土戦法を採らずにあっけなく撤退、 コルマールの町並みは殆ど破壊される事なく残された。

リボビレ
 アルザスのワイン村中最大の村。非常に美しいけれど、観光中心の臍となる物がなく、観光的には一寸退屈。 郊外のテーブルクロスなど繊維製品の工場、ボビレ社は古きアルザス繊維産業の名残り。

リクビール
 アルザスの真珠と呼ばれる小さいが、古く美しいワイン村。30年戦争にも二つの大戦でも破壊される事無く残った奇跡の村。
 アルザスの中でも最上等のリースリングができるぶどう畑の中心で、古くからリクビールの支配は地方豪族の夢であったと伝えられる。
 近くの丘の中腹から見下ろすリクビールの村とアルザスの眺めは笑い出したくなるくらい絵葉書そのもので、安野光雅にも絶賛された。

カイザースベルグ
 皇帝の町というたいそうな名前の村。密林の聖者アルバート・シュバイツァー(アルベール・シュバイツェール)の生地。
 ボージュを越えてくる峠道のアルザスへの出口にあるため、第二次大戦では戦車を投入しての市街戦まで行われたが破壊の程度は小さく、 見事に復興されている。

エギスハイム
 紀元1010年、後のローマ法王レオン九世が生まれたという由緒ある村。教会広場を中心とした同心円の通りに沿って見事な木組みの家が残っている。 勤務先の工場のすぐそばで、かって工場敷地内に建屋が少なかった時代には、村の尖塔などが私のオフィスから良く見えた。

ミュールーズ
 コルマールの南40Kmの町。第二次大戦では連合軍の爆撃で徹底的に破壊され、復興も元に戻すのではなく、新しい近代都市として行われたため 『アルザスのアメリカ』で観光的目玉には乏しいが、世界最大のブガッティ・コレクションを持つフランス国立自動車博物館がある。
 (元のコレクターの繊維事業が不振で没落、フランス政府がコレクションを一括買い上げ散逸を防止したという粋な計らい。ブガッティだけではなく、 戦前のメルセデスやRRも取り揃えてあり、さらにル・マンや戦前戦後のGPレーサー群のコレクションも素晴らしい。)
 また、近くには壁紙専門の博物館や、古いフランス(アルザス)の農村を昔のまま動体保存(実際に人が昔風農業をして住んでいる=公務員?)した 生きた明治村というコンセプトの博物館村もある。

ヌフ・ブリザック
 第一次大戦後のフランス時代にドイツに対抗するために作られたライン河近くの要塞都市。町の外側に星型の八角形の要塞遺構が残っていて、 要塞内部に現在の町がある。
 内部は四角い広場を中心にして、全て正確に同じ巾の厳格な道路網が敷かれている。
 第二次大戦末期、ドイツ軍はコルマールからの撤退に際してここに篭るかと思われたが、すぐ放棄してラインを越えて行った。



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