第二次世界大戦終盤の1944年秋深い頃、太平洋では帝国海軍最後の艦隊決戦となるレイテ沖海戦の直前、フランスのロレーヌの小さな町
ブリュイエールとその郊外の山中にハワイとアメリカ本土出身の日系二世兵で編成された第442歩兵連隊 (アメリカ第7軍第36歩兵師団。193名の将校と
3313人の兵士、日系将校は最高位でも大尉;中隊長で、ペンス連隊長以下高級将校は全て白人) が展開しようとしていた。
彼らはそこで数日間ではあったが守備のドイツ軍と、アメリカ陸軍戦史上重要な戦闘として残ることになる死闘を演じた。
この『二世部隊』の真摯な研究は先人にお任せして、以下に、興味津々だけではあるが、一戦史ファンのブリュイエールとその周辺の旅絵日記を綴りたいと思う。
TO THE MEN OF THE 442ND
REGIMENTAL COMBAT TEAM U.S.ARMY.
WHO REAFFIRMED AN HISTORIC TRUTH
HERE... THAT LOYALITY TO ONE'S
COUNTRY IS NOT MODIFIED BY RACIAL ORIGIN
THESE AMERICAN, WHOSE
ANCESTORS WERE JAPANESE. ON
OCT 30. 1944 DURING THE BATTLE
ON BRUYERES BROKE THE BACKBONE
OF THE GERMAN DEFFENCES AND
RESCUED THE 141ST INFANTRY
BATTALION WHICH HAD BEEN
SURROUNDED BY THE ENEMY FOR
国家への忠誠はその人種によって変わることはない。という文面。
第二次世界大戦勃発時、アメリカ本土の日系市民はアメリカ国家への忠誠を疑われ、資産を取り上げられ、北カリフォルニアの砂漠やロッキー山中などの強制収容所に
収容された。日系二世兵士の中にはこの強制収容所から出撃して、アメリカ国家の為に父母が生まれた日本の同盟国ドイツとフランスの地で戦った兵士もいた。
三国同盟締結の外相松岡洋右、日米開戦時の大日本帝国首相東条英機は共に、アメリカの日系二世に対し
「諸君はアメリカ人である。諸君の祖国アメリカに忠誠を尽くせ」と云う意味のメッセージを送っていたという
エピソードが映画『442』の中で語られている。
2005年12月29日、ブリュイエールの442連隊を語るに欠かせないカリフォルニア出身の朝鮮系将校、
金大尉 (ブリュイエール戦当時;退役時大佐) が亡くなられた(86歳)合掌。金大尉は、第100大隊、第442連隊の多くの
戦友が眠るハワイのパンチボウルに葬られた。
2010年10月5日オバマ大統領は、この戦闘への功績に対し、第442連隊と第100大隊の兵士に議会名誉黄金勲章(Congressional Gold Medal)を授与する法案に署名した。
その戦闘から丁度55年後の、2000年10月21日の撮影。ブリュイエール西の小山(555高地)の中腹から南東に広がる町を見下ろす。
町の向こう側の丘はローマ時代からこの町を守るにも攻めるにも重要ポイントであったD高地 (593m;D高地は442連隊の戦闘時の名称で地元名は
アヴィゾン)。
町の真ん中左の小さな丘はB高地 (533m;地元名レ・シャトウ)で、442連隊は冷たい雨の中、画面の左、撮影者の左にあるA高地
(571m;地元名ベルモン、この写真では見えない)
と撮影者のいる小山 (555高地)の間から町に進攻し、主力はこのB高地を経て教会の前の通りに向かって降りて行った。
442連隊通りは555高地の麓、写真手前の木に遮られて見えない位置にある。
激戦の末、守備のドイツ軍から町を奪回する事に成功、次いで東の方向、画面左奥のボージュ前衛の丘陵地帯の村;ベルモンに転進進攻してこれらも奪回、さらに画面奥に見える稜線を越えて
向こう側の村ビフォンテーヌも猛烈な激戦の末制圧する。
そこへ、(純アメリカ人である)テキサス出身者からなる同師団の別の大隊(第141連隊第1大隊の275名)がボージュ山中でドイツ軍に包囲されたので
これを救出せよという師団長命令を受け、(準アメリカ人の) 442連隊は包囲された人数の3倍以上の死傷者(約200名の戦死者と600名の
負傷者;包囲された部隊の全員は275名、死傷者は救出時で64名)と出すいう激戦の末、この任務にも成功する。
画面の左側奥に続く小さな稜線を越えるとビフォンテーヌ方面。失われた大隊の森は写真の一番左辺りの奥の方になる。
1944年から1945年にかけての冬は地球規模で寒かったというが、その異常な冬を前にして
1944年10月のボージュは連日の冷たい雨と霧であった。この事は当時この戦場でも航空優勢にあった連合軍の航空支援が殆ど受けられなかった事も意味している。
442連隊通りは、1944年10月15日朝始まったブリュイエール攻略戦での連隊陣形の右翼に位置し、町への突入路の一つに当たる。
連隊通りは家が10軒くらいの小さな通りであるが、正式な通り名でこの名前で郵便も着く事は住民に確認した。
ヨーロッパの住所システムは大都会でも田舎村でも全く同じで『何番地-何通り-何市(町、村)-郵便番号- 国名』になっている。
通りに軍人の名前を付けるのは珍しくないが、ゆかりの連隊番号を通りの名前にするのは珍しいと思う。
アガサ・クリスティの小説の舞台のような趣のホテルで、ホテル側の登場人物はオーナーらしき60歳くらいの男、
40代のシェフ、その娘だという20歳くらいの小娘の三人、当日の客は、50台の男一人、それよりやや若い世代の夫婦者、
それに怪しげな風体の東洋人の夫婦者と言う構成。
ドウスさんの著書に出てくるおかみさんは登場しなかったが、実は彼女が黒幕で、
やがて登場人物は一人また一人と消えて行くのであった。
2003年に訪れた際、コラン先生の診療所には表札があり、医師資格者の看板も掲げてあった。
現在のGoogle Earthでは、表札は無く、売り家の看板が出ている。
時代は変わるのである。
記録では戦車まで投入したとあるが、本当にここに戦車を入れたのかと疑いたくなる斜面。
赤い土はボージュ砂岩の色で、アルザスの建物に多く使われてる石材と同じ色で、ブリュイエール教会もこの石材を使っている。
あのストラスブール大聖堂にもこの砂岩が使われている。
D高地中腹からブリュイエールの町。
左の写真の中央左の赤い屋根に塔がある大きな建物がアヴィソン病院。
1944年10月22日撮影という、442連隊の記録写真。D高地の上の写真よりやや高度が高い所からブリュイエールを見下ろしている。
赤丸の中はアヴィゾン病院。
D高地はブリュイエールの町に遅れる事1日、10月19日午前に米軍が占領に成功するが、周辺からのブリュイエールとD高地への砲火は止むことはなく、
町の建物の4分の3が損害を受けた。
19日から20日にかけての真夜中、ドイツ軍の逆襲の際起きた負傷兵を白旗を掲げて収容に行ったオオハマ軍曹と同行の衛生兵への射撃と全員の死
という惨劇に憤激した二世兵士が最初の『バンザイ突撃』をかけたと伝えられる。この時の独軍部隊は10代の新兵ばかりで、
彼らが集団パニックを起こしての射撃であった。
半人前兵士からなる独軍部隊へのバンザイ突撃の結果は一方的な殺戮となった。
鐘に砲弾の破片が当たってガラン・ガランと鳴ったという砲撃下でも機能し続けたアヴィゾン病院。
アヴィゾンはD高地の地元の名称。442連隊の記録写真の病院もほぼ同じ姿をしている。
町中心に一旦引き返し、今度はブリュイエール駅へ、ブリュイエールの戦闘ではあんまり重要な位置を占めていないが、
撤退するドイツ軍に破壊されたとある。
駅舎と線路(南東側)、線路はこの先でジェラルメー方面(右)とベルモン方面(左)に分かれる。
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二階左側のアーチの上にあるフランス窓を中心に銃撃戦があったと思われる。
右の写真;カメラを射手の位置に置いてみた。窓枠とその右にかなり大きな弾痕がある。大きさから車載のブローニングM2か?。 アルザス。密林の聖者シュバイツァー博士の生家があるカイザースベルグの街角。 1945年冬、自由フランス軍のM4戦車がいる街角。 上写真の正面の家の角にあるきれいに並んだ弾痕アップ。小銃か小口径の機関銃のもの。上写真の撮影その日のものであろう。
建物の弾痕。
フランス、ドイツの町は、たった60年前殆ど全部が『僕の町は戦場になった』経験があり、古い家に残る弾痕は珍しくない。
我々普通の日本人は弾痕など見た事も予想もしてないので見落としてしまうが、その方面の専門知識がある人は、
実に目ざとく弾痕や戦場だった痕跡を見つけ出す。聞けば、町の構造から
守備側が立て篭もったであろう建物は見当がつくし、攻める側もその建物をどこから攻めたか見当がつくので弾痕も至極当然の所にあるのだそうである。
同様、野山や川べりのトーチカなどの遺構も戦術の理論通りの所にあるとかで、実に素早く見つけ出す。
この建物では上側の窓、特に左側に向かって弾着を誘導するような機関銃射撃が行われたようである。
この壁の色は、ボージュの赤い砂岩の色である。
弾痕ついでにちょっとおまけ。
この町はボージュの真ん中を突っ切る峠で比較的越え易いBonhomme峠(雪だるま峠;コルの標高949M)からアルザス平原に出るところにあるため、
古来軍事的要衝であった。第二次大戦でもBonhomme峠を越えて来た自由フランス軍と迎え撃つドイツ軍の間で激戦があった。
ほぼ同じ位置から2001年夏の街角スナップ。
正面の特徴ある家は1945年のままである。
この町はこの戦闘でかなり大規模に破壊されたが、昔のままに復元されてアルザス観光名所になっている。
右写真;上写真のかなり後方、村の入り口付近の家の壁。これも通りから小口径機関銃を乱射したものか?。
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べルモンは、ブリュイエールの東北東にある山の麓の村で三方を山に囲まれ唯一ブリュイエールの方向に開けている。ブリュイエールからの鉄道が走っており、 鉄道線路は複雑な地形の中に高い土手を築きその上に敷かれている。ベルモンに向かっての谷を山側(南側)と平地側を分断しているこの鉄道線路土手は 戦術的に非常に重要な構築物となった。ブリュイエールを奪回した442連隊は、町を後続部隊に託し、戦車を伴って 東進、この土手を巡って3日間に亘る戦闘の末ベルモンに至る。ベルモンからボージュ山中に入るが、そこでもドイツ軍の激しい抵抗が待っていた。ツリー・バーストの激戦の中、歴戦の第100大隊を先陣に南側にある東西に伸びる尾根を鵯越に越えて ブリュイエールとは反対側平地の村、ビフォンテーヌに出てこの村を占領する。
ベルモンの東と南を塞ぐ山。この山を越えるとボージュの主山脈があり、それを越えるとアルザス。
アルザスは当時ドイツ領、早くアルザスに突入したいと功をあせる36師団長はドイツ軍はこの数日間の戦闘で撃破され、約10Km後退して布陣していると勝手に判断
、更に敵が自軍の作戦地図を入手して攻撃軸中心を知っているとは夢にも思わず、無茶な前進命令を出し、結果として141連隊第1大隊が
この稜線を越えたあたりの森で、ブリュイエール急の報にアルザスのコルマールからトラック輸送されて来て奪取した米軍地図情報に従って森の中に
布陣した第933擲弾兵連隊の真ん中に誘い込まれるように突出し包囲されてしまう。米軍戦史に残る『失われた大隊』の森の物語の発端である。
失われた大隊即ち米第36歩兵師団第141歩兵連隊第1大隊が属する第141歩兵連隊は、濃く熱いアメリカ南部の中心のテキサスにあって
テキサス・ローンスターを連隊旗とし、その歴史はアメリカ建国まで遡れ、アラモ砦にちなんでアラモ連隊の別名を持つアメリカ軍の象徴のような連隊であった。
このアラモ連隊第1大隊=テキサス大隊が味方の制圧地域から2Km離れた山中で完全包囲されたのであるから、
この報は国防総省は勿論、テキサス選出議員を中心としたアメリカ議会、ホワイトハウスまでを巻き込む大騒ぎを引き起こした。
それは極東の海で行われている史上最大の海戦であるレイテ沖海戦の趨勢を霞ませるに十分で、テキサス大隊の救出は政治的軍事的最重要課題となった。
第36師団長ダールキストン少将は自ら播いた種とはいえ、
どんな犠牲を払ってでもテキサス大隊を救出しなければならないという立場に追い込まれていたのである。
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ボージュの森の戦闘ではお互いの砲兵は瞬発信管付きの榴弾を撃ち合った為、砲弾は地表近くや幹に命中時炸裂し、木を幹半ばで切断して
飛び散らせるツリー・バースト(木の爆発)と呼ばれる現象が起き、榴弾の破片と共に飛び散る幹や枝で多くの命が失われたという。
こういう砲撃を受けた森は幹半ばから上が無い首なしの木が立ち並ぶ事になる。
1999年12月26日、中部ヨーロッパは数百年振りと言う猛烈な強風に襲われ、ボージュやシュバルツ・バルトも大きな被害を受けた。
その被害の状況は、木が根こそぎ倒れるのではなく、幹半ばでへし折られてその先はどこかに飛んで行ってしまうというツリー・バーストさながらの
物だった。
秋はきのこ ( これは食べちゃだめ!! ) や木の実( ミルティーユ;野生の小粒のブルーベリー )の収穫(シーズンは7月〜8月初め)で山に入る人が多い。
残留地雷は大戦後数年間は事故があったが、今では完全処理され、心配ないそうであるが、
砲弾の着弾孔や塹壕の跡は残っていて、中に落ちると出られなくなるような物もあるため、山には一人で入らないほうが良いといわれている。
第一次世界大戦では当時エルザスと言ったアルザスはドイツ領だったのでボージュは独仏国境であったので、山中では激戦が展開された。今でも当時の塹壕が保存されている。
大戦後、フランスの手でボージュ山脈のほぼスカイラインに沿ってクレタの道という軍事道路が作られ、この道路は現在ではボージュの重要な観光道路になっている。
第二次世界大戦では、初頭にマジノ線を迂回ないし突破したドイツ軍がボージュ西麓にフランス軍を追い詰め大打撃を与えている。終盤には厳冬の1944年
冬、雪のボージュを越えて、米第7軍、自由フランス第1軍、などが当時ドイツ領に戻っていたエルザスに攻め込んでいる。
コルマールは1945年2月3日に連合軍がほぼ無抵抗で占領し、4年弱の『最後のドイツ領エルザス』の時代が終わった。
コルマール守備のドイツ軍が頑強に抵抗しなかったため、今日我々は三十年戦争による破壊からの再建とされるシティ・センターの17世紀の町並みを見る事ができる。
ボージュ頂上から西斜面は冬積雪が多く、スキー場も点在する。アルザス側の東斜面は積雪は少なく、麓は南北に100Km余りも続くアルザス・ワインの
葡萄畑になっている。また、麓の町マンステールを見下ろす放牧地帯は、フランスチーズ凶悪軍団の代貸くらいには位置するマンステール・チーズの産地である。
(左の写真で浅い緑の部分は牛の放牧地)。
442連隊の戦闘の舞台になったロウ・ボージュは、標高1500m級の主山脈からパリに続く平原に下ったあたり、長い間の水による侵食でできた
東麓のなだらかな丘陵地帯で、ブリュイエール市役所の標高が477m、争奪戦を演じた高地の標高は550〜600mくらい。ここでは葡萄は採れず、
当時は牧畜と穀物主体の農業、林業が主産業であった。また、ボージュ山中はミネラルウオーターの産地で、Vittele,Contorex,の国際銘柄の他に、
軟水から凄い硬水までガスあり(強いの弱いの諸々)ガスなしと沢山の銘柄の地ミネラルウオーターがある。
ちなみに我が家のアルザス暮らしで行き着いたのは、日本の緑茶にはVolvic(超軟水で緑茶用にはこれと万人が認める水、フランスでは赤ちゃんのミルクを溶かす水)、
生で飲むならEvian(やや硬度高し、有名銘柄、飲んでうまい水だと思う)、食事の時はCarola(アルザス地物の硬水)のガス入り、
炊事には初めVolvicを使ったがすぐ水道水を使うようになった、コルマールの水道水はボージュ水源で、カルキ臭など殆ど無い上質の水だった。
ただ硬度は高く、ガラス器具は白く汚れるし、洗濯物はそのままだとごわごわになった。
(1)ブリエアの解放者たち ドウス昌代 文春文庫 1986
(2)二世部隊物語 菊月俊之 グリーンアロー出版 2002
(3)America's Forgotten Army. Charles WHITING SARPEDON 1999
(4)Lost Battalions. Franz STEIDL Presidio Pres 2000(初版1997)
(5) 442 矢野 徹 柏艪社 2005(再版)
(6)地図 France 1/200000 Michelin
(7)地図 St Die. Mulhouse Bale 1/100000 31/Top100 IGN
(8)地図 St.DIE 1/25000 3617OT/Top25 IGN