音楽考

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無伴奏チェロ組曲第1番バッハ/カザルス 二つのマンドリンの為の協奏曲ヴィバルディ
クラリネット協奏曲イ長調モーツァルト 乙女の祈りバダジェフスカ
カノン パッフェルベル交響曲第6番田園 ベートーベン
マイスタージンガー前奏曲ワーグナー アルハンブラの想い出タルレガ
小組曲ニ短調ロベルト・ド・ビゼー 浪花恋時雨都はるみ
ヘイ・ジュードザ・ビートルズ マイダーリン・クレメンタイン荒野の決闘
あなたはどこにもいないライアン二等兵の救出 タンゴ考夢・薔薇・夜
仰げば尊し師の恩 滝廉太郎
なごり雪いるか/伊勢正三 花のワルツチャイコフスキー
ピアノ協奏曲第2番ラフマニノフ 展覧会の絵ムソルグスキー
ピアノソナタ第7番プロコフィエフ カルメン序曲ビゼー
交響曲第9番合唱ベートーベン 氷の世界井上陽水
リフレクションズ寺尾聡 黄昏めもりい丸山圭子
Sgt Pepper's Lonly ・・ザ・ビートルズ 明日に架ける橋サイモンとガーファンクル
元祖冗談音楽スパイク・ジョーンズ ギター二重奏ジュリアン&ジョン
ピアノソナタイ長調K331モーツァルト 我らは涙ながらに膝まづきバッハ
津軽海峡冬景色石川さゆり ヘビー・ローテーションAKB48
港町ブルース森進一



望嶽台 本家へ






無伴奏チェロ組曲第一番ト長調;J.S.バッハ

 「あなたにとって美しいものは?」、と言う問いに、「カザルスの弾くバッハの無伴奏チェロ組曲」、と答えるという問答があるそうである。
 この言葉は私にとって若い頃からの憧れで、私の音楽への興味の動機はこの言葉を完璧に我が物とした上で口にできたら・・・・、という一心にある。  今のところ無伴奏チェロ組曲全曲の中から一曲だけと言われたら、第一番の第一曲プレリュードを挙げたい。



カザルスの弾くバッハの無伴奏チェロ組曲全6曲、箱入3枚組のアルバム。LPレコード時代の栄光を語るようなアルバムである。

 第一番のプレリュードは、二長調に移調したギター編曲版をセゴビアが弾いているのも美しい。  ジャスピアニストの山下洋輔氏のレパートリーにも入っている。


   音楽史にバッハ山脈とも言える巨大な足跡を残しながら、息子のC.P.E.バッハが生前既に汎ヨーロッパ的評価を得ていたのに、 J.S.バッハは生前はライプチヒの田舎音楽家に過ぎず、死後も100年以上後、メンデルスゾーンによって『発掘』されるまで 忘れ去られていたというのも凄い話である。

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二つのマンドリンの為のコンチェルト;ビバルディ

 第1楽章冒頭が流れた瞬間、にんまりしてしまう可憐な曲であるが、生演奏の機会はおろかレコード(CD)でもなかなかお目にかかない曲である。



ヴィヴァルディのマイナーな協奏曲3曲が入ったトリオのレコード。

 トリオのレコードというのはレコード盤が厚くしっかりしていて、音が良いと評判であった。実際、このレコードのA面第一曲の「ビオラ・ダモーレの 為の協奏曲」の溝に針を置いて、音が響いた瞬間、背筋がぞくっとするのを覚えた。

 LPレコードというのは、持ち運びに適していない存在で、レコードを買ってその足で飲みに行き、帰って買ったレコードをかけると 酔っ払いの乱暴な扱いでレコードが反ってしまっていて針がジャンプしたりした。レコード盤には薄いのや厚いのがあり、いろいろな論議があった。 当時の結論では、レコードの厚さは音の良し悪しには関係無いとされたが、買う方は厚い盤の方が安心できた。

 この曲は、二台のマンドリンがオーケストラと一所懸命に競演している、という感じがたまらない癒し系音楽で、 第二楽章はピッチカットのオーケストラをバックに二台のマンドリンが語り合う形式になっている。 この第2楽章だけ取り出してギター二重奏への編曲があるが、頭が休符になっていたり、絡み合ったりの三連符の連続を合わせる為に 二人のアイコンタクトが頻繁に必要、とあって男同士での演奏は、気持が悪いとしてお家のきついご法度であった。

 さて、ビバルディと言えばもう圧倒的に『四季』の『春』であるが、イ・ムジチの言ってみれば豊かなおおらかな響きの演奏に慣れた耳に飛びこんできた、 ネビル・マリナー指揮、アカデミー・セント・マーチン室内楽団のいわゆる『アカデミーの四季』はそのテンポからして革命的であった。
 音楽好きの出張者をアテンドしてロンドンのトラファルガー広場にあるセント・マーチン教会に入ったとき、『冬』の第二楽章に使われたオルガンの 音を生で聞きたい、それまでは動かないとだだをこねられたことがある。確かにあのオルガンの効果は素晴らしかった。  このレコード一発で、それまでの地味な癒し系音楽という存在だった『冬』第二楽章は『四季』全体においても華やかなスーパースターになった。


左;『アカデミーの四季』のジャケット。

右;トラファルガー広場
ナショナル・ギャラリーのファサードからのセント・マーチン教会

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クラリネット協奏曲イ長調、第二楽章;W.A.モーツァルト

 クラリネットはモーツァルトの時代に完成された楽器で、モーツァルトはこの楽器の出す中音部の響きをいたく気に入っていたと言う。  この曲はモーツァルトの作品の印象と実生活との乖離を最も極端に現すものとされている。  最晩年の死に面した健康状態と極貧の中で書かれた、などと言う事は一切関係無しで、特にオーケストラが 存分に歌いあげ、クラリネットがそれに応える第二楽章は天上の音楽としか言い様がない。

ウィーン、王宮近くの公園。

 モーツァルトの像。
 この花壇のト音記号は季節によって花を変えられる。時に一寸貧層だなあと思う状態になる事もあるが、この写真の状態は極上である。

 モーツァルトの晩年は極貧状態にあった、という話はよく聞くが、先日熱烈なモーツァルティエンヌに伺ったところ、その貧しさは 庶民の感覚の貧しさとは違うもので、桁違いに大きなキャッシュフローの管理の杜撰さからくるもの、即ちかなり大きな収入と、それをはるかに上回る 支出のアンバランスからくるものであった、ということであったらしい。作曲の受注を受けるには、それなりの上流社会の生活をしているという 見栄も必要であったのだという。

 ウィーンでは「モーツァルト饅頭」を賞味しよう。
 西洋菓子定番のアーモンドの粉を練ったあんこでできた逸品で、直径5センチ位、モーツァルトの肖像画で個別包装されている。 ご想像の通り高価な菓子ではないし、日保ちもするのでお土産に良い。空港でも勿論売っている。

 モーツァルトは、この曲の少し前にクラリネット五重奏曲という、弦楽四重奏+クラリネットという珍しい楽器編成の曲を作っているが、 この曲も美しい曲で、1960年代のフランス映画『幸福』という、指物師と若い郵便局員の不倫を描いた小品ながら佳品の主題曲に使われた。 この映画はもう一度見たいと思っているのであるがなかなか見る機会がない。
 クラリネット五重奏曲も第2楽章が美しい曲である。

 これらの曲は私の葬式に流して欲しいと思っている曲なのでレコードも何種類か持っている。

 五重奏ならジャック・ランスロ版。協奏曲なら独奏アルフレート・プリンツ、ベーム/ウィーンフィルが好きである。

 2012年3月3日、神奈川フィル、指揮;金聖響、クラリネット;齋藤雄介(神奈川フィル主席)で生演奏を聞いた。この演奏会の事を知ったのは 2011年の震災直後だったが、すぐチケットを買って一年待ったのだった。
 演奏後鳴りやまない拍手に応えて、次のプログラムがあるにもかかわらず、クラリネットが『故郷』を思わせるフレーズを吹き、それに絃の首席奏者達が 合わせて五重奏曲の第二楽章の部分が演奏された。


 五重奏曲にも協奏曲にもジャズクラリネットのベニー・グッドマンが、シャルル・ミンシュ指揮ボストンフィルと即興なしの譜面通りで演奏をしている レコードがある。しかしその演奏は長い音符への神経の配り方がやや雑で、私はあんまり好きではない。

 クラリネットというのはブラスバンドではオーケストラのバイオリン役で第一、第二で表裏の旋律を受け持つ事になっている。 友人に高校時代第二クラリネットをやっていたというのがいて、軍艦マーチが大好きだったそうであるが、なるほどこの曲では第二クラリネットが 裏旋律で大活躍する。軍艦マーチは正式名称を『行進曲軍艦』と言い、帝國海軍から引き継いで海上自衛隊の公式行進曲になっている。 ちなみに、陸上自衛隊の公式行進曲も帝國陸軍と同じ『陸軍分列行進曲』である。
 公式行進曲は、自衛隊の最高指揮官たる内閣総理大臣の閲兵の際使われる。

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乙女の祈り;テクラ・バダジェフスカ

 クラシック音楽音楽史上最高の一発屋・バダジェフスカは、19世紀のポーランド生まれで、 正規の音楽教育を受けた事が無い半アマチュア女性ピアニストであった。
 この曲は彼女が18歳、まさに夢見る乙女の頃の作曲であるが、世に出たのはその7年後にパリで楽譜が出版され、軽いサロン音楽として、 また素人が家庭でも弾ける曲としてヒットしたからであった。しかし、バダジェフスカはその2年後に27歳で世を去ってしまう。

 従ってバダジェフスカは、その名前も作品も何もかも、兎に角このピアノの小品『乙女の祈り』としてだけで残っている。 世界的には作曲者は全くの無名に近く、曲も素人っぽい小品に過ぎないと言う側面があること、同じ作曲家の作品が他にないのとで、 孤立しやすいのか有名演奏家のレコードの少ない曲で、私は中村紘子さん版しか持っていない。
 2008年、緒方拳の最後の出演のドラマとなった『風のガーデン』では、死期の迫った父(中井貴一;チェロ)と知的障害の子(神木隆之助;ピアノ)が、 この曲をデュエットするシーンが涙を誘った。チェロの裏旋律が美しかった。

 この曲は明治期に日本に輸入され、日本でのみ有名であると言うが、この曲を熱演するピアノ愛好家の一人に私の父 栄助がいる。
 若い頃師範学校でピアノ演奏の基礎を学んだが、その後百姓に転向、生活に追われてピアノどころではなかったものの、60歳を過ぎて ピアノへの思い絶ち難くドイツ製のなにやらというピアノを購入 (勿論ベーゼン・ドルファーのフルコンでは無いよ) 自らの楽しみとして 弾いているというもので、得意(特異?)曲は何故か『乙女の祈り』と『エリーゼの為に』なのである。
『乙女の祈り』の中間付近に右手が低くメロディーを弾き、左手がそれを挿んだ和音で伴奏するところがある。つまり、メロディーを弾く 右手の上を左手が交差しつつ往復する。なかなか格好良い、いわばサロン・ピアニストの見せ場、すなわち「ピアノの脇にいる人への見せ場」 であるが栄助氏はこの部分になると、その観衆を気にして緊張するせいかなかなかうまくいかないのだった。



 2004年3月21日、89歳の時。つれあいの米寿祝いの前夜祭における熱演。
 観衆は既に次室さらに次々室に退避している。

 彼の演奏スタイルは、昭和初期の山梨師範に於けるピアノ演奏法教育を反映して、肘を上げて鍵盤上に手を吊り下げ、強音ペダルを踏み込んで 指先でキーをぶっ叩いて出来るだけ大きな音を遠くまで届けるという唱歌伴奏奏法で、ドビュッシーなんぞは絶対に無理というものである。
 この奏法は、個人の楽しみとはいうには、いささかはた迷惑な面も持つ。

 栄助;2009年12月16日没。享年95歳6ケ月。合掌。


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カノン;パッフェルベル

 パッフェルベルは、バッハより30歳くらい年上のドイツの作曲家で、結構たくさんの曲を残しているらしいのであるが、一般に(そして私にも) 知られているのはこの曲一曲のみである。  典型的な癒し音楽で、色々な場面に断章としてあるいは全曲が色々な編曲で使われている。

 紀宮清子内親王の挙式披露宴でも弦楽四重奏で演奏されたと伝えられているが、あらゆる意味で邦楽専門の宮内庁バンドは洋楽器に持ち替えた時の 演奏技術には問題があるらしい(そのレベルについて、山下洋輔氏が深く憂慮されている)のでどんな演奏であったか心配である。

 私はこの曲のスイス製ルージュ・ミュージック社のオルゴールを持っている。スイスのサン・クロアという町の産になるこのオルゴール、ピアノ並み という音域を持つとんでもないオルゴールで、日本にもこのサン・クロア産オルゴールの同好会や演奏会?があるようである。


 外観、寄木細工の一見宝石箱風。

 上蓋を開けると、ガラス蓋で覆われたオルゴールのメカニズムが一杯に詰まっていている。つまり小物入れではない。
 外側手前のノブで演奏開始/終了。蓋は開いたままでも閉めていても演奏できる。 上蓋を開けた状態での手前の小さなノブはガラス内蓋の開閉用、上蓋/内蓋の両方を開いた状態での演奏が最も響きが良い。
 ぜんまいの摘みは底部。回転数制御の仕掛けは無く、ぜんまいが緩むにつれて演奏速度が遅くなっていく。





 目がちらちらして一体何音出せるのかリードの数が数え切れない機構部。

音のサンプルはこちら。

 ファイルが大きいので演奏開始までに時間がかかります。


 カノンと言う形式は、主題を提示してそれを一種数学的な処理で変奏していく形式で、バッハあたりになると変奏はラプラス変換級になるのであるが、 パッフェルベルのこの曲はピタゴラスの定理程度であろうか?。その意味でもヨハン・セバスチャン・バッハの音楽史上の業績の偉大さを感ずる。

 この曲がNHKの名曲アルバムで紹介されたときの解説字幕の最後のフレーズは素敵だった。

   『−‐‐‐‐‐、やがてバッハの時代が来る』


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交響曲第6番田園、終楽章;ベートーベン

 この曲は情景描写音楽とも言えるので、適切な解説をつければ小学生にも判って面白いと思える曲である。ただ、30分以上の長い曲なので飽きるかもしれない。
 嵐が去って穏やかな田園に戻る終楽章は、晩年のベートーベンの曲に共通な神の作り賜うたものへの賛歌があると思う。私の母校の高校校歌の一説に、 『賛天地化育;たすくべしてんちのかいく』、というのがあるがそういう感じである。

 この曲は演奏(指揮者)によって感じが極端に異なる曲で、自分好みの演奏を見つけられれば、はまってしまうことを請けあう。
 私は非常なスローテンポのハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮ウィーン・フィルハーモニーのレコードをこよなく愛しており、 裾野の別宅に行った時は必ずこのレコードをかけるが、嵐が去っての終楽章冒頭ではいつも涙が出そうになる。


 ジイドの小説『田園交響曲』の舞台、スイスのヌシャテル近辺の田園はジュラ山地を背に南にヌシャテル湖が広がり、 遠くアルプスを望む地で、オルゴールのサン・クロアも近いところである。


 注;ここでレコードをかける、と言っているが寓意ではなく、本当にアナログのレコードをかけるのである。

 ターン・テーブル=DENON DP-75、 トーン・アーム=DENON DA205、 カートリッジ=DENON DL103(MCタイプ、 をDENON DK-2000に収めたプレーヤー。
 現在は、プリ・メイン・アンプDENON PMA1000、 スピーカー DIATONE DS303と言う古めかしさの中でも新旧入り混じったライン・アップとなっている。

 他にはLUXMAN MQ60Cという真空管アンプが現役であるが、まず使わない。CDプレーヤーは無い。

 右写真は、1977年頃のアンプ・ラック。
 プリ・メイン・アンプ(DENON PMA500、プリ・アンプ(YAMAHA C2)、上の段にLUXMAN MQ60C。
 純A級動作で兎に角ちりちりに熱くなるパワー・アンプ、PIONEER M-22、もどこかの倉庫か物置に眠っている筈である。

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ニュールンベルグのマイスタージンガー前奏曲;ワーグナー

1975年3月、カール・ベームがウィーンフィルを引き連れて来日した。


 当日販売のパンフレットの中扉、NHKの放送開始50周年記念事業であったようだ。

 このときの騒ぎは物凄く、入場券は全て事前の往復はがき申し込みによる抽選、応募は一人一枚限り、複数応募がばれたら全部無効、 当選してもどの日の入場券が手に入るかは、当りハガキを持って銀座のヤマハ楽器まで発売日に行き早いもの順というプロダクトアウトの 極地であった。

 それでもベームとウィーンフィルのセット初来日であり、ベームの当時の年齢から考えて当然誰でもこれが最後と思ったので皆それに耐え (ベームは、その後2回来る事になるが)、私もあらゆる伝の他人名義を騙って10枚近く応募した。
 そのうちの1枚が当って手に入れた入場券が3月25日NHKホールのモーツァルトの交響曲41番とウィンナワルツのプログラムであった。


チケット。


 同じくパンフレットから、3月25日のプログラムのページ。



 交響曲第41番 K551 『ジュピター』


 円舞曲『南国のばら』

 アンネン・ポルカ

 皇帝円舞曲

 常動曲

 ピチカート・ポルカ

 喜歌劇『こうもり』序曲


 電子工学専攻で、音楽好きが講じてコロンビアの音響機器のエンジニアになっていた友人は、甲斐なく抽選に外れたものの、 職場で録音したNHKの生中継音声をダビングする為に、当時給料8万円の身で50万円した10インチリール搭載38/2トラという戦艦大和みたいなテープデッキを買ったが、 あのデッキ今はどうなっているやら?。

 その演奏会におけるモーツァルトの41番第3楽章とヨハン・シュトラウスの皇帝円舞曲はいまだ語り草という名演であったが、 アンコール曲のトリッチ・トラッチ・ポルカが終わったあと、更に第二のアンコールとして、 オーケストラをその場でわざわざワーグナー用に編成を拡大して演奏したのがニュールンベルグのマイスタージンガー前奏曲であった。
 元のコンサートがオーケストラの編成が小さいウィンナワルツとモーツァルトのプログラムだったので、東京での最後のコンサートの アンコールでは全楽団員を出させてあげる、 というベームの配慮であったであろうが、それにしても大きな楽器を抱えた演奏者がぞろぞろと入ってきて着席していくのは一寸異様であった。

 非常に華やかな曲で、この3年後の同じ日私は自分の結婚式披露宴の最初の入場にコロンビアの友人のテープから更にカセットにダビングした この曲を流した。


 ニュールンベルグのマルクト広場のシェーンブルン(美しい泉)。
 柵に付いているリングを左手で一回転させると願いが叶うという。
 この広場で催されるクリスマス・マーケットはヨーロッパ最大であるらしい。

 この写真を撮ってくれた当時一緒に旅した今は亡き若い同僚の事を思い出させる写真である。
 コロンビアのエンジニアだった友人も2014年5月、事故で突然逝ってしまった(合掌)。
 この来日の時、ベームの副指揮者という身分でリッカルド・ムーティーが随行してきた。
 銀座のチケット売り場の大混雑を見かねた係員が 「ムーティー指揮の演奏会のチケットでしたら整理券なしで、ご希望の演奏会の席がございます」  と言った時、「ムーティーだってよ・・・・」、と嘲笑が起きたのを覚えている。 あれから30年、いまや彼はミラノのオペラ座のマネジメントと正面切って大喧嘩できる 当代人気第一番のオペラの新帝王『ムーティー様』としてヨーロッパ楽壇に君臨している。


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アルハンブラの思い出;タルレガ

 ギターのトレモロの言わば練習曲で、才能が無くても基礎から2年間くらいみっちり真面目に習えば弾けるようになる曲であるが、 初歩のギターの徒の最大の憧れの曲である。『禁じられた遊び』同様に、後半転調してから少し難しくなる。



 アルハンブラ宮殿のとある内庭の列状噴水の印象を音楽にしたと言われているのであるが、私がアルハンブラ宮殿に行く機会があったときは グラナダには珍しい大雨の大荒れの日、くだんの噴水もばしゃばしゃで、とてもその感慨に耽ると言う風情ではなかった。



 ギターの神様セゴビアは、意外やことトレモロに関しては美しく響かず、言ってしまえばへたくそである。
 いや、セゴビアはスタッカートしているのである。セゴビアがああ弾くのだからギターのトレモロはあれが正当だ、というセゴビア原理主義の意見もあるのであるが、 村治香織さんという日本人の若い女性ギタリストのトレモロは非常に粒ぞろいできれいに響き、こちらの方が耳に心地よい。

 2013年夏、村治香織さんは、病を得て、一切の演奏活動を中止する、と新聞に伝えられた。一日も早いステージ復帰を望むの情、甚だ切なり、である。  

 村治さんは、その後結婚され、演奏活動も再開されたようである。良かった。

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小組曲ニ短調;R. ビゼー

 オペラで有名なビゼーとは別人の作曲家、ロベルト・ド・ビゼーになるところの元はリュートの為の小組曲で、ニ短調という調子が 20歳前後のギターの徒の心を揺さぶる曲である。6弦をDに調弦するとギターは二長調/二短調に絶妙に響くのである。

 この組曲の中のメヌエット、ガボット、ブーレなど何曲かがフランス映画の『禁じられた遊び』に中に使われている。
 この映画の圧倒的に有名な主題曲は、この組曲からではなく、元はスペインの民謡だと言われているが、真面目に習えば、 前半だけなら3ヶ月で弾けるようになるので、これからギターを習おうと言う人は頑張って頂きたい。メロディーを受け持つ薬指で弦を上にはじかず下に押し込むように (これをアポヤンド奏法という)弾くのがこつである。小組曲ニ短調はもう一寸難しい。

 この映画の中のもう一曲『アメリアの誓い』と言う曲は、1960年代の日曜日夕方のお楽しみ、シャボン玉ホリデーで、ザ・ピーナッツとハナ肇の おとっつあんお粥ができました、というお決まりコントのバックに使われていた。
 しかし、シャボン玉ホリデーの音楽と言えば何と言ってもエンディングテーマの『スター・ダスト』であろう。
 作曲者ホーギー・カーマイケル自身が、来日時テレビから流れる自分の曲に感激したと言うくらいのザ・ピーナッツの名演であった。 ホーギー・カーマイケルは作曲家らしからぬ精悍な色男で、007の生みの親イアン・フレミングはジェームズ・ボンドを ホーギー・カーマイケル似という設定にしている。

 ピーナッツとハナ肇のからみが終わったあとタイトルバックで流れたギター演奏は、ロス・インディオス・タバハラスというギターデュオによる 『マリア・エレーナ』で、シルエットの演奏シーンとは異なって、流れる曲の実際は二重奏であった。タバハラスのコピー演奏も仲間と随分やったものであるが これは難しかった。

 スペイン人と一緒にスペインのどこかを歩いていた時、『禁じられた遊び』の主題曲がどこから聞こえてきた事がある。彼にこの曲を知っているか?、と聞いたら呆れ顔で 『当たり前だ』 と答えたので、さらにスペインでもギターが引ける人は必ずこの曲が弾けるか、と聞いたらまたまた『当たり前だ』と答えた。 スペインでもこの曲は初歩ギターの徒の憧れで、弾けないとギターが弾けることにはならないのだそうである。
 ついでに楽器を習うとして一番多いのはやっぱりギターかと聞いたら『そう思う』、ピアノは?、『ピアノを習うのはお金持ちだ』との事であった。
 彼は決して豊かではない家庭の出身で、バルセロナのスーパー・マーケットの青果売り場の店員をしながら勉学に勤しんだ、いわゆる苦学生であった。

 ロベルト・ド・ビゼーについては、この映画の後セゴヴィアによってその業績が発掘されたという話を聞いたことがあるが、詳しい事は判らない。

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浪花恋時雨;都はるみ

 都はるみが、当時無名のどさまわりに近い男性演歌シンガー・ソングライターとデュエットした『ど演歌』。演歌もここまでくれば芸術と言える。
 自分の声を自由自在にあやつり、かつ決してピアノの鍵盤にない音は出さない天才都はるみは私が唯一好きな演歌歌手で、 中でもこの曲の2番の可愛い恋女房は最高である。この曲をかけながらヨーロッパの田舎をドライブするのは大好きであった。

 人間の声は究極の楽器に例えられるが、これが凶器に感じられる事もある。モーツァルトのオペラ『魔笛』の夜の女王のアリアなどはまさにそれで、 演奏会などではただただ鳥肌立てて歌手を眺めているのみである。

 私にとっては、都はるみはあくまで歌だけ聴く歌手で、歌う姿は絶対見たいと思わない。


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ヘイ・ジュード;ザ・ビートルズ

 ビートルズを語るに最も重要と言われる曲で、これを選ぶのはあまりに平凡であるが、誰でもこれを挙げるであろう。もし他の曲をあげるとすれば、 『ヘイ・ジュード』はひとまず置いといて、という条件になると思う。
 音楽の中には人を慰め励ます、エンカレッジメントともいうべき曲があるが、ジュードよ悪く考えるなよ、と歌い出すこの曲は まさにそのエンカレッジメントの代表である。

 ビートルズ世代と言う、青春はビートルズと共にあったと自称する世代がある。団塊の世代というのとほぼ一致し、かくいう私も同世代である。
 ビートルズは、べた甘のラブ・ソングで一気に世界制覇してしまったのであるが、その直後には『愛こそは全て』のようなだらしがなく情けない曲や、 『イエスタデイ』のような美しいが屈折した曲を 出し始め、日本デビューからたった4年の『ヘイ・ジュード』でいわゆるメッセージソングの世界に行ってしまった。

 『抱きしめたい』のビートルズでファンになった世代がこんな勢いのビートルズの変革(変節)に付いて行ける訳もなく、ビートルズ世代の大部分は 私も含めて『ヘイ・ジュード』に至るビートルズには大いに戸惑い裏切られていく気持ちがあった。解散後の発表であるが、矢鱈評価が高い『イマジン』などは 今でもどこかから聞こえてくると気恥ずかしい思いがする。「世の中そんな甘くねえよ」と。
 初期の熱狂のラブソングのビートルズを生で知らない、やや若い世代は 『ヘイ・ジュード』を素直に受け入れ、ずっと若い世代や逆に我々よりずっと上の世代は『イマジン』にも恐れ入る、と言う曲別ファン世代のねじれ現象があるようである。  ビートルズ世代のおじさんたちで作るビートルズのコピーバンドのレパートリーはやはり圧倒的にラブソングである。
 初期のビートルズの熱狂を生で知っているおじさんで、『イマジン』には恐れ入っている、という人がいたらそれは、その頃の我らの世代の 言葉で言うと「日和っている」のであろう。

 BEATLES 1962-1966とBEATLES 1967-1972と題する夫々二枚組みのアルバム。4枚組みではなく、別々に発売された。



 私自身どっちを多く聞くかと言われればそれはもう赤版である。


 と言いつつ、セントラル・パークに行けば、IMAGINEのレリーフの前でかしこまってしまうのである。

 ロンドン・オリンピックの開会式で、ポールが『ヘイ・ジュード』を歌った。
 何で開会式に(慰め歌の)『ヘイ・ジュード』なんだ、他に良い曲は無いのか、と同世代の集うSNSで盛り上がった時、じゃあ(世界平和を願う) 『イマジン』はどうだと言ったら大顰蹙となった。
 そしたら閉会式では本当に『イマジン』を使いやがった。悪い趣味である。




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マイ・ダーリン・クレメンタイン;アメリカ民謡?

 日本では西堀栄三郎作詞伝説がある『雪山賛歌』として知られるこの曲、ジョン・フォード監督の 『荒野の決闘;原題;My Darling Clementine』の主題曲である。

 西部開拓史に名高いOK牧場の決闘を扱ったこの映画、同じジョンフォードの『駅馬車』が動の西部劇なのに対して、 この『荒野の決闘』は静の西部劇と言われた。

 ワイアット・アープを演じたのはヘンリー・フォンダ。2メートル近い長身で長いすねを膝から放り出すようにしてゆったりと腰で歩く姿は、 ミュールという西洋売春婦専用履物を履き、腰を落として膝だけでちょこまか歩く最近の日本のお姉ちゃん達の対極をいく格好良さで、 二足歩行動物が行き着いた究極の歩行スタイルと言えよう。


黄色い薔薇の品種『ヘンリー フォンダ』





 ダッジシティの保安官として勇名を馳せていたワイアット・アープが、何故か兄弟4人で牛を追って故郷カリフォルニアに向かう途中、 嵐の夜キャンプしたのがその名もTombstone=トウムストン=墓石という町の近く。風呂と酒を求めて上の兄弟達が町に行っている留守に、 キャンプを襲われて末弟を殺され、牛も盗まれたアープが、残った兄弟と共に町の保安官になって悪漢クラントンに対峙する。

 何処の馬の骨が食い詰めて選りによって俺のこの町の 保安官になったのかと「せいぜい長生きしな、で、お若いの名前は」と聞く名脇役ウォルター・ブレナン扮する クラントンに 「アープ、ワイアット・アープ」 と名乗る。 凍りつくクラントン一家、悠然としかし背中に殺気を込めて去るワイアット・アープ。良いシーンである。

 ワイアット・アープは、本当はかなりのやくざ者で、牛追いのような堅気の生活はした事はなかったそうであるが、西部開拓史の硝煙の中を 生き延び天寿を全うした。戦国直後の腕に覚えの白刃の時代を生き抜いた宮本武蔵のようなものであろうか。


 アープ兄弟の一人を、後に『幌馬車隊』のセス・アダムス隊長役で日本の茶の間に現れることになるワード・ボンドが演じ、クラントン親父を拳銃のファンニングで 仕留める。ヘンリー・フォンダも『胸に輝く銀の星』というテレビドラマに出演していた。

 ワード・ボンド扮する隊長セス・アダムスは、自身が西部に移民しようという農民では無く、腕利きを集めてチームを作り、西部に移民する農民一行に 雇われてミズーリからオレゴンまで護衛するプロの幌馬車隊隊長であった。
 一方、『胸に輝く銀の星』でヘンリー・フォンダが演じたサイモン・フライは、町の若い保安官を助ける連邦保安官であった。

 マイ・ダーリン・クレメンタインはこの映画の主題曲であると同時に、ヒロインのドク・ホリディの許婚者クレメンタイン・カーター嬢のテーマであった。 画面に彼女が現れるとこの曲が静かに流れる趣向である。同じジョン・フォード監督の『駅馬車』でマロリー大尉夫人のテーマとして 『金髪のジェニー』が使われていたのと同じ手法である。『西部開拓史』では『グリーン・スリーブス』が同じような趣向で使われていた。


 ラストの、町にはびこった悪漢クラントン一家を退治して去るワイアット・アープと、小学校の先生になって町に残るというクレメンタイン嬢 の別れの会話シーンは、音楽と共に詩情あふれる素晴らしいものである。

アープは言い残して去る。「Good name! sure good name! Clementine」

 この映画、未見の方は是非見て頂きたい。「古き良き西部劇」とはかくも素晴らしいものである、という事が実感できる事請け合いである。





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TU ES PARTOUT;エディット・ピアフのシャンソン

 スピーブン・スピルバーグとトム・ハンクスの戦争映画『Saving Private Ryan』の挿入曲。
 ノルマンディにあるという架空の町、ラメールの廃墟での最後の戦闘の前、破壊されたバーの前で兵隊が蓄音器から流れる歌を聞いていたエディット・ピアフの曲である。 訳すと、あなたはどこにもいない、となり、あなたはお前の意味の近しい間柄でのあなたである。この曲は地元フランスでも一般的ではなく、 市販のCD2枚程度のピアフ集には入っていない。
 ピアフファンのフランス人に聞いたのであるが、ピアフはこの曲を1943年に吹き込んだ。従って彼らは当時の最新盤を聞いている事になる。 カップリングの『C' ETAIT UNE HISTOIRE D'AMOUR』もこの後続いてかけられる。

 この映画、ストーリーが荒唐無稽なのに、各場面の描き方や小物・服装の考証が物凄く緻密ということで、 大量のプライベート・ライアンお宅が発生、私もその一人であると自覚しており、どうしても地図上で所在を特定できないラメールを探している。
 荒唐無稽なストーリー周辺の些事を事細かにリアルに描く、というのはジェームズ・ボンドを世に生み出したイアン・フレミングが『スリラー小説作法』 で推奨している方法である。平時に自分のアパートでスコットランド人家政婦のメイの給仕での朝食描写はあきれるばかりに細密である。

 画面の一番左に蓄音器。人物は左から技術下士官でフランス語とドイツ語の通訳アパム伍長、彼が詩を訳してやっている。やや俯いているのはライフルマンで ユダヤ系のメリッシュ。高い所に座っているのはブルックリンのランジェリー・ショップの息子でBARマン(ブローニング・オートマチック・ライフルの射手) のライベン。一番右は、シシリア以来のミラー大尉の右腕ホバース軍曹。狙撃手のジャクソンは見張りでここにはいない。ミラー大尉はライアン二等兵(一等兵) と別の場所で話をしている。

   字幕作成の女王、戸田奈津子さんの手になる字幕(の間違いぶり、というか考証の手抜きぶり)も話題になった。 いくら大家でもマイケル・ベイならともかく、スピルバーグ監督の戦争映画を恋愛映画と同じ感覚で字幕にされてはたまったものではない。
 有名なのは、ラメールでメリッシュが101空挺の下士官とM1918機関銃を調整している場面で、メリッシュが、ベルト給弾の実包を薬室に正しく収めて遊底を正しく 閉鎖するように調整する重要なパラメータであるヘッドスペース(距離)という銃器の専門用語を使うが、戸田さんはきわめてストレートに 彼らの頭の上の天井との距離か何かのように訳してしまっている。
 また、地獄のオマハ・ビーチで恐怖に慄く29師団の若い兵隊が、師団も異なり一面識もないミラー大尉に「中隊長」と呼びかけるという極めて不自然な字幕を付けている。 そんなヲタクの事はどうでも良いではないか、と言ってしまったら、スピルバーグの仕事そのものを否定してしまうことになる。

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タンゴ考

 ギターというのは基本的に独奏用の楽器であるが、大勢集まった時は合奏もしたくなるものである。学生時代ギターの合奏で良くやったのがタンゴであった。
 三部ないし四部に分けたギターに、低音をウッド・ベースで補強する構成であるが、タンゴの場合、なんといっても花形はリズムを刻むパートで、 ここには4拍目の裏にアクセントがあるあのタンゴのリズムを刻むプロが集っていた。パート全員10人くらいがぴったり合わないとがさがさして 気持ちが良いリズムにならないのであるが、1年生の時から合奏になるとタンゴで鍛えた連中は、 パート譜としてコード進行表しか与えられないのにそれは見事にエクスタシー・リズムを作り出した。

 良くやったのは、碧空(青タン)、夢のタンゴ(夢タン)、バラのタンゴ(バラタン)、夜のタンゴ(夜タン)、ガウチョの嘆き、 オレ・グアッパ(スペイン語で、ようよう!ネエちゃん!!)、小雨降る径、ラ・クンパルシータ、アディオス・ムチャーチョス、 奥様お手をどうぞ、ママ恋人が欲しいの、小さな喫茶店、などなど。夜のタンゴはお家の十八番で、リーダーが「次、夜タン!」というと 背筋が伸びたものであった。


今もレコードでコンチネンタルタンゴの甘い歌声を聞くことが出来る歌手『ティノ ロッシ』の名を持つ薔薇。


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仰げば尊し

 私の学生時代は学園が荒れた時代で、東大、東京教育大(当時)の入試中止、などという時代である。
 私は東京近郊の某国立大学工学部に在籍していたのであるが、ここは奇跡のように学園紛争から孤立して学生は勉学に勤しんでいた。
 原因は、けっして政治的無関心、すなわちノンポリというだけではなく、親の経済力X学生自身の手元流動性が、 日本で一番低い大学かつ学部で、学生は兎に角卒業して自力で食えるようにならなければならない、という脅迫観念があった為と思われる。 国民の一人当たりGDPが5000ドルを越えないと、 若者が騒乱に走るエネルギーも暇も生じないのだそうであるが、我が学部はたぶんその閾値の下であったのであろう。
 地方都市ではアルバイトと言っても今ほど職種が豊富でなく、一番多くかつ人気があったのは、地元国立大学学生ゆえの家庭教師で、 これは飯が付くし受験生を受け持つと大変ではあるが成功報酬 があるしで、とにかく家庭教師は人気があった。しかし、その口もそうそうあるものではなかった。

 授業の合間には自炊の学生同志で、実沢山の味噌汁を作るとおかず無しで飯が食える、しからばその実は何がコスト・パフォーマンスに優れるかに ついて真剣に議論しあっている所に、それを言うなら、と鯖の水煮缶がいかにコスト・パフォーマンスに優れた食品であるか力説する輩が現れ、 缶鯖に匹敵するご馳走である魚肉ソーセージの秘伝調理法交換、とその輪がどんどん広がっていくという 風景が繰り広げられるくらい貧しい連中が揃っていた。
 ヘルメットの他学部学生が突如教室を襲って来て討論会を提案しても、 「何故我々が勉強するのを邪魔するのか」と迫り、その迫力にヘルメット側が退散する位であった。冬などは、「帰れ、勉強の邪魔だ」と叫んでいる方に 寒さしのぎのちゃんちゃんこなど着込んでいるのが何人もいたりするので迫力と説得力があった。

 全学卒業式の後の専攻学科謝恩会で、期せずして歌われたのが『仰げば尊し』であった。1970年代初頭に仰げば尊しを歌って大学を卒業した学生は 稀であったであろうと今でも思う。

仰げば 尊し 我が師の恩
教えの庭にも はや幾年
思えば いと疾し この年月
今こそ 別れめ いざさらば

互いに睦し 日ごろの恩
別るる後にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば

朝夕 馴れにし 学びの窓
蛍の灯火 積む白雪
忘るる 間ぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば



 しかし、現在においてこの歌の2番以降は立身出世を無上のものとし、無用な競争を強いる、として教育現場ではご法度なのだそうである。
 そのうち、師への恩を歌う1番も、教職を特別視し教員の奴隷的労働を強いるもの、として禁じられるに違いない。

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花;滝廉太郎

 7年間の海外暮らしで涙した事が二回ある。一度目は赴任して初めての冬2月頃、家で滝廉太郎の『花』を聞いていた時であった。
 生まれてそれまで故郷と関東と東海地方の明るい冬しか知らずに過ごしていた身に、中部ヨーロッパの、空は暗鬱、朝明るくなるのが9時過ぎで 3時半にはもう暗くなるという寒い長い冬は応えた。

 加えて、独身で赴任して来ていた同僚が環境に押しつぶされ精神的に参ってしまってアルコールに溺れ使い物にならず、マネジャーとしての仕事に加えて、 日々細かい決断を要する些事が増えて、仕事量は二倍以上になり、日常生活も家内ともども言葉も 習慣も判らないまま無我夢中という日々であった。
 CDで、昔の仕事仲間が作っていたディキシーランド・ジャズのバンドが演奏する陽気な『花』を聞いていて、ああ日本は桜だね、 と家内に話し掛け、何言ってるのまだ2月よ、と返事が帰ってきた瞬間、日本の春はここには何の関係もないけれど、まだまだ春は来ないのかと、 滂沱と涙が湧いてきた。

春の麗の墨田川 上り下りの舟人が
櫂の雫も花と散る 眺めを何に喩うべき

見ずや曙露浴びて 我に物言う桜木を
見ずや夕暮れ手を述べて われ差し招く青柳を

錦織り成す長堤に 暮るれば登る朧月
げに一刻も千金の 眺めを何に喩うべき



 先日、このバンド仲間と飲んだ時、『花』でドラムスを担当した少林寺拳法3段の強面にこの話をしたら、「良い話を聞かせてくれた、有難う」と 声を挙げて泣かれ、店中の注目を浴びてしまった。歳とると昔話も話題を選ばないと大変な事になる。

 もう一度はずっと落ち着いてから、アルザスの地元教会付属の少年合唱団の演奏会でのことで、 日本語の『故郷;兎追いし彼の山』の不意打ちを食らった時で、これはこのHPの富士山編韮崎の巻に書いた。

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なごり雪;伊勢正三

 この歌は、いるかさんの歌で有名になったが、かぐや姫の伊勢正三の作であり、彼の自作自演が、また素晴らしい。
 イルカさんの歌だとほのぼのとしてしまって、一寸東京を離れる女友達を見送っている早春の風景と勘違いしてしまいそうになるが、伊勢正三で 聞くと、これはもう一生会う事はないと決意した男と女の別れの歌(男は未練たっぷりであるが)である事が伝わってくる。 『東京で見る雪はこれが最後ね』とつぶやく女は、春になってこれが今年最後の雪だといっているのではなく、自分はもう二度と東京に戻ってくる事は無い、 と決めているからそうつぶやくのである。

 同じ伊勢正三になり、同じ男女を描いていると思われる『22歳の別れ』では、女17歳から一緒だった二人が女22歳で 別の男と結婚する事で別れるというシチュエイションを女の立場から歌っている。
 もし男と女が同じ年なら、この間の男と女の精神的成長速度(速度とはベクトルであるから大きさと方向を持つ)の違いから、 男は置いてけぼりになるのは当然である。もし、女が年上の男に接触する機会があればそれは加速される。

『なごり雪』の男は別れの朝に初めて女が自分とは違う世界で自分よりずっと大人になっていたことに気がつくのである。

 22歳というのはまた、学生と社会人を分ける典型的な年齢であり、身辺整理と将来の身の振り方を真剣に考える年齢である。
 それやこれやで我々の時代には、男も女も22歳の春の別れは多かったに違いない。(今は知らないよ)

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花のワルツ;チャイコフスキー

 2005-6女子フィギュア・スケート・グランプリ・ファイナルで世界のお姉さま達をねじ伏せて優勝した浅田真央嬢のフリーの演技の曲である。

 当時15歳という浅田嬢の雰囲気と、演技に非常に良くあった名選曲で、あのピンクの衣装に身を包んだ姿はこの曲とともに、もしかすると浅田嬢が 生涯最も輝いた瞬間として人々に回想されるかもしれない。 3回転・3回転のコンビネーション・ジャンプから降りた瞬間の勝利を確信したガッツポーズも可愛かった。

 くるみ割人形の中のこの曲は、纏わり付くメロディーのチャイコフスキーらしく、一旦頭の中で始まるとなかなか終らない。

 浅田嬢が大転倒にも関わらず優勝した2008年の世界選手権が開かれたスエーデン/イエーテボリのスカンジュナビウム・スタジアムは、 私が彼地に出入りし始めた1988年、テニスのデビスカップでエドベリらを擁したディフェンディング・チャンピオンの地元スエーデンを ボリス・ベッカーがシングルス/ダブルスとも文字通り叩きのめして西ドイツにデビス・カップをもたらした所である。
 大会直後横をタクシーで通ったとき、ドライバーが北欧人らしい流暢かつ日本人に判り易い英語で大いにぼやいていたので良く覚えている。

 私は浅田嬢のファンであるので、上記の転倒について一言述べたい。
 あれは、最初のトリプル・アクセルの入り際に軸足がぶっ飛んだ感じで宙に浮き、落下して倒れたままフェンスまで滑って行った程の大転倒であった。 それだけに立ち上がって流れているショパンの『幻想即興曲』のメロディを捉まえるまで少し時間がかかった。しかし捉まえ乗って直後の3−2のコンビネーション ・ジャンプは高く遠く完璧で、それ以降の演技は素晴らしいというより、入神、神懸かり的に凄かった。
 ところが、とんでもないことに、凱旋した彼女を転倒場面の大伸ばし写真を掲げて迎えた日本のマスコミは、総合3位、フリーで1位になった某国選手の方が、 あらゆる面で上であるとして、浅田嬢の勝利は不正であったかのように、散々にくさした。18歳の可憐な娘はこんな仕打ちに悩み、 翌シーズンからオリンピック・シーズンにかけての大不調の原因の一つになったと言われている。

 浅田嬢の魅力は、ジャンプもさることながら、浅田嬢の映像で良く使われる、上体が深く倒れ両膝がきれいに伸びたアラベスク・スパイラル、 全く「漕ぐ」気配が見えないのにスピードが落ちないストレート・ライン・ステップ、それに深い深い姿勢のまま一点で回るシット・スピンなどにもある。
 我々は、浅田嬢と同じ時代に生き、彼女の演技に酔い、何より彼女が出てきただけで感ずるあの胸締めつけられる緊張感の中で一喜一憂できる幸せに浸るべきである。
 後世、我々は後続世代に語るに違いない。「君は浅田真央を見たか?」と。

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ピアノ協奏曲第2番;第2楽章;ラフマニノフ

 ラフマニノフという人はとてつもなく巨大な体躯と手を持っていた人で、そのピアノ曲は(自分より手が小さい)他人が弾く事を余り考慮して いないために必然的に大変な難曲になるのだそうである。ピアノが弾けず、聴いているだけの場合はそれが難曲かどうかは無闇と早いパッセージなど では難しそうと想像つくが、音域の広さや和音の複雑さなどからはなかなか判らない。

 ラフマニノフは、また、鬱気質の人で、常に気難しくしかめ面をしたあんまり近づきたくない、友達も少なそうな人だったと言う。 この曲はそういうラフマニノフの曲かと思って聴く所為か決して陽気には聞こえず、出だしの分散和音からして陰鬱な北国を思わせる。
 実際この曲は、英国映画『逢いびき』の主題曲として『秋雨に煙る慕情』と形容され、スカンジュナビアのどこかの秋の雨に濡れる風情であ ると言われている。濡れたら肺炎必至の冷たそうな陰鬱な雨である。


 音楽家、特に大家と言われる人は、気難しさや奇行もその大家ぶりを語るエピソードになるが、 ウラジミール・アシュケナージは非常に気さくで飾らない人柄でジャーナリストにまで好かれたという。しかし、この気難しい曲の演奏として 私はアシュケナージ版が好きである。セットのパガニーニの主題による変奏曲も美しい。

 奇麗な白髪になったアシュケナージは今や当代一の指揮者として活躍している。指揮台上での体と腕の動きは非常に特徴があり、猫背で目を瞑り、 腕を前後に動かすカラヤンの物真似が好事家に受けるように、 アシュケナージの指揮も物真似したら受けると思う。勿論、振りの真似だけで音楽性の事は別である。


 ヨーロッパに赴任して、前任者との引継ぎの一環としてスウェーデンのイエーテボリに行った時は10月半ばで雨であった。
 この町は、日本では殆どその名を知られていないが、スウェーデン第2の都会、車のボルボとベアリングのNKSの本社があり、 北海とバルト海への不凍港であり、産業、漁業、軍事の港町であるという大都市で、我々の業界関連のお客様もたくさんあり、赴任前に 出張ベースで何度か行っていたし、赴任後も仕事で年に何度も行く事になった町である。しまいの頃には、日本食屋『みかど』の おばちゃんと顔馴染みになっていた。 ちなみに英語ではゴッテンベルグ、現地ではイエーテボリと言う感じの発音である。


 閑話休題。そのとき前任者同僚が歩きながら話そうと言い出し、町の中心から一寸外れた大きな公園のしっとりとした雨の中を男二人で歩きながら、 仕事の引継ぎ、あそこの社長は良い人だが、購買担当者はプライス、プライスばかりで性格が良くないなどという陰鬱になる話をぼそぼそとした。

 これはまさにこの曲の世界で、この曲を聴く度にこのときのことを思い出す。




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展覧会の絵;ムソルグスキー

 実際の絵の展覧会会場で歩いていると頭の中にプロムナードのメロディーが鳴る。
 起伏と変化に富んだ構成であるが、全ての曲は最後のクライマックス、『キエフの大きな門』の為にあるかのごとくの大団円を迎える。


 元はピアノ曲であるが、ラベルによるオーケストラ編曲の方が有名で、この方が演奏の機会もレコードも多い。
 こういう色彩豊かな音楽にぴったりなのは、ユージン・オーマンディで、手兵フィラデルフィア・フィルを率いて華やかに楽しそうに演奏している。

 『キエフの大きな門』はテレビの珍百景番組で、珍景登場前の音楽になっている。

 キエフはウクライナの都市である。史上最大の戦車戦「クルスク戦車戦」の舞台の北端に当る。ソ連時代は軍事都市として外国人の立ち入りは厳しく制限されていた。 ウクライナとロシアの争いというより、ロシアのウクライナへの侵略で、クルスクはまた戦いのの地として知られるようになってしまった。


 ラベルのオーケストラ版を再びピアノ版に戻した演奏のウラディミール・ホロヴィッツのレコードがある。一台のピアノ、一人のピアニストで どうしてこんな音が出せるのか不思議な、ある意味悪趣味の 演奏で、好悪は分かれるかもしれないが、超絶的な演奏である事は万人が認めるであろう。

 ホロヴィッツは、あのパルマ生まれの偉大なるアルツーロ・トスカニーニの女婿であり、あれほど有名になりながら音楽界でも家庭内でも 義父を超える事が出来なかった悲劇の人でもある。父を神のごとく崇める(実際神様なのだからしょうがないが)ホロヴィッツ夫人は 夫ウラジミールの事はちっとも尊敬していなかったという。


 確か高校時代の夏だったと思うが、『ホロヴィッツ・オン・テレビジョン』が日本でも放送された(調べたら実際は、1971年5月4日 20時〜21時)。
スカルラッティのソナタのかわいらしさは、後のレコードの印象なのか、テレビ放送からだったのか記憶が定かでない。
 レコードのジャケットのカメラマンのタキシード姿が素晴らしい。現場での服装と態度で何かと摩擦を生じさせる日本のテレビクルーも すべからく場所をわきまえるべしである。


 この曲に触れたら、ELP(エマーソン・レイク・アンド・パーマー)のライブレコードに触れないわけにはいかない。
 私はロックに深い馴染みがある者ではないが、このELPの演奏のとてつもなさは感じ取ることはできる。アンコール曲のくるみ割り人形からの行進曲も、 これを聴いたあとではオリジナルの行進曲(1拍目強拍)ではなく、アフター・ビートのロックになり、走り出すわ、スキップはするわ、で頭の中で響き亘って困る。

 先日床屋さんでロックバンドを作ってベースを弾いているというお兄さんに頭をやって貰いながら音楽談義をしようとしたが、全く噛み合わなかった。
 キャンディーズの『年下の男の子』で全曲に亘って下支えしているベースの話に乗ってこなかったのはしょうがないにしても、、 彼はELPやレッド・ツェッペリンそのものを知らなかったのである。

 2011年4月21日、スーちゃんが亡くなったのをきっかけとして、キャンディーズの音楽がファンの間で見直され、彼女らの音楽性の高さ、 編曲の時代を先駆けた新しさ、などが改めて話題になった。キャンディーズを単にミニスカートが似合うアイドルと思ったら大間違いなのである。



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ピアノソナタ第7番;第3楽章プレチピタート;プロコフィエフ

 ソビエトの愛国者プロコフィエフが大祖国戦争督戦の為に書いたというこの曲、第三楽章は鋼鉄の歩みで進撃する赤軍を現して圧倒的である。


 演奏としては、マウリツィオ・ポリーニのものが話題になったことがあるが、私はリヒテルの演奏になるモノラール・レコードしか持ってない。 リヒテルの演奏があまりに素晴らしいからとか、この曲がつまらないからとか いう意味ではなくして、この曲を色々なピアニストで聴き比べてみたいとは思わない。
暮らしの手帖かなにかの音楽欄で幼稚園児に受ける曲として紹介されたのを記憶している。



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カルメン序曲;ビゼー

 オーケストラを一度だけ、一曲だけ指揮させてくれると言ったらこの曲を選ぶと言う人は非常に多いと思うが、私もこの曲を選ぶ。

 華やかで軽快で変化に富み、かと言って複雑なリズムではないからスタートのきっかけを与えれば、あとはコンサート・マスターを中心にオーケストラの 方で勝手に演奏してくれるであろうから、指揮をするのではなく、曲に振りをつけて思う存分楽しめるだろうと云うところが良い。 実際音楽番組の素人による指揮の試みでは必ず登場するし、『題名のない音楽会』の素人指揮コンクールのエンディング・テーマになっている。



 私はアンドレ・クリュイタンス指揮パリ・コンセルバトワール管弦楽団というレコードが好きである。コンセル・バトワール(=パリ音楽院) というからには楽団には学生さんも混じっていると思うが、そのせいか若々しく軽快な演奏に聞こえる。 クリュイタンスはこの自分の為のオーケストラを存分に鳴らし、テンポもかなり速めである。
 このコンビはクリュイタンスの生前は日本も含む世界公演も行ったが、クリュイタンスの死と共に解散してしまった。

 友人の家で、ダニエル・バレンボイム指揮の演奏を聴いて、その常識破りのスロー・テンポにずっこけた事がある。当時のバレンボイム夫人は美人で才女の 誉れ高く人気絶頂のチェリスト、ジャクリーヌ・デュプレで、あんなに凄い奥さんがいるのに何を好き好んであんなに陰気なカルメン序曲を やらなければならないのだろうと思ったものである。

 ところが、ジャクリーヌ夫人は26歳の時、残酷にも多発性硬化症を発症、28歳で演奏家生命を失ったうえ、42歳で天に召されることになる。人気絶頂の演奏家が病で突然 舞台を去るところはピアニストのディヌ・リパッティに似ている。リパッティのバッハのカンタータ『主よ人の望みの喜びよ』のエピソードも涙を誘う。
 ところで、ジャクリーヌ・デュプレの愛器「ダヴィドフ・ストラディヴァリウス」は今ヨー・ヨー・マのもとにあると何かで読んだ事がある。

 2012年のロンドン・オリンピックの開会式で五輪旗を運ぶ6人の内の一人として、ダニエル・バレンボイムが登場した。「何故彼が」と思ったのであるが、 同じ思いの人は沢山いたと見えて、インターネット上の話題になった。誰も確たる理由を上げられなかったが、中にクラシック音楽演奏家として 英国の誇りであるジャクリ―ヌ・デュプレとの関係を上げる人がいた。さもあらん、と妙に説得力のある意見である。

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交響曲第9番『合唱付き』;ベートーベン

 1951年バイロイト音楽祭でのウィルヘルム・フルトベングラー指揮による演奏の実況録音盤が有名である。



 この演奏は指揮者/楽員/独唱者/合唱団の全員が何かにとり憑かれたような演奏である、と言われており、特に最終楽章後半の熱狂は物凄い。フィナーレでは アンサンブルも乱れるがそんな事はどうでも良くなってしまう。
 最終楽章半ば、合唱による『神の前に立ち、神の前に・・・』が長い長いフェルマータで虚空に消えたあと、行進曲が始まるまでのこれまた長い長い空白 (休符)は 「フルトベングラーはファゴット、バスファゴット、大太鼓の誰かが 空白(長い休府)の重圧に耐えかねて音を出してしまうのを待っていたのだ」という伝説を生んでいる。
 更にこの演奏には良く似た別バージョンがあり、そちらが本番で、レコードで有名になったのはリハーサルだという伝説もある。
 その真相は兎も角、何度か聴いてこの演奏に慣れてしまうと、他のどんな第九も物足りなくなる麻薬のような演奏である。

 結婚して暫らくのダブルインカム時代、小澤征爾指揮の演奏を特上の席で聴いた事がある、4人くらいおいて隣にベラ夫人がいた。
 この話をとある席でしたら、中の一人が小澤も前夫人を踏み台にして出世したのにファッションモデル風情の色香に迷って、というような言い方を したので驚いた事がある。その後だんだん内情が判っていったらその人は日本の上流階級に属する層の出身者で前夫人のY一族ともおつきあいが あるお方であったらしい。

 ところで、この交響曲の合唱パートを歌うのはママさんコーラスの憧れであるという。私の姉も熱心な『合唱』ファンである。
 ベートーベンは人の声をオーケストラの中の楽音として取り入れたかったのであって、合唱曲として書いたのではないので、この合唱パートは歌うには かなり無理があり難しく、かつ歌詞は通常ドイツ語である。
 いかに難しいかは、通常プロが担当する冒頭のバリトン独唱も低音部がともすると浪花節に 聞こえてしまう事からも判る。(識者によるとこの独唱には演奏者の裁量に任されているところがあるそうであるが)
 日本ではこの曲は年の暮れと言う事になっているので、一年の終わりに判っても判らなくても体力と喉の限りに歌うのは良い事である。 しかもそれが無形人類遺産とも言うべき名曲であるのだからそれは至福の時間である。

 この長大かつ複雑な交響曲の演奏にはクライマックスの最終楽章のためだけの演奏者が多数存在する。典型的に合唱団や独唱者がそうであるが、 実は打楽器奏者の多くも最終楽章にしか必要としない。最終楽章のためだけの演奏者をいつスタンバイさせるかは問題であり、最初からとか、 第2楽章と第3楽章の間とか、工夫が必要になる。いつスタンバイするかはともかく、合唱団も独唱者も最終楽章において、バリトン独唱の 『おお、我が友よ』で漸次出番が来る。

 しかし、通常全員が曲の最初からスタンバイしている打楽器奏者の中で指揮者の方を向いて何も持たず何もせずに静かに座っていて、 合唱団が大活躍を始めてもまだ何もしないがゆえに非常に目立つ人が居るのをご存知だろうか。
 初めて第9演奏会に行ってこの人に気付き、あの人は一体何かと気になってしょうがなかったと言っていた友人が居たが、 そう、最終楽章も後半、行進曲の冒頭で突然立ち上がり銀色に煌く楽器を掲げて澄んだ音を響かせるトライアングル奏者である。 曲のこの付近でだけ打楽器が複数必要になってくるので、他の打楽器奏者の持ち替えと言うわけにも行かず、独立したトライアングル奏者が必要 ということなのであろうが、作曲者は演奏時不思議な情景になることに思いを巡らせたであろうか?。
 また、トライアングル奏者とは対照的に、この曲にはチューバが使われていないので、日本のオーケストラのチューバ奏者は年末になると暇なのだそうである。
 もう一つ。日本のオーケストラに就職した外国人団員の中には、この曲を日本に来て初めて演奏したと言う人が少なくないと言う。
 作曲者と言えば、ベートーベンはこの曲の頃は完全な聾者であった。彼の頭の中での第9のテンポはとてつもなく早かったらしいと言うエピソードを 読んだことがあるが仔細は忘れてしまった。

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氷の世界;井上陽水

 井上陽水をスーパースターならしめた『アルバム』である。



あかずの踏み切り
はじまり
帰れない二人
チエちゃん
氷の世界
白い一日
自己嫌悪

心もよう
待ちぼうけ
桜三月散歩道
FUN
小春おばさん
おやすみ

 歌手のアルバムには二種類あり、一つはこの『氷の世界』のように、ある統一された構想の下に構成されたもの、もう一つは単発曲や先行するアルバムから ヒット曲だけを集めたヒットアルバムである。BEATLES 1962-1966 1967-1972などはヒットアルバムと言える。

 『氷の世界』は、オイルショック初期の1973年12月の発売で、日本のLPレコード史上最初の100万枚突破レコードになった。

 最大のヒット曲は、B-1の『心もよう』で、星勝の絶妙なアレンジにより1973年さらにはオイルショックによる狂乱物価 (1975年3月までの約1年半で消費者物価が24%上昇)の1974年という時代を象徴する響きと歌声となった。
 狂乱物価の巷で、特にあまねくパチンコ屋を席巻した歌は、渡哲也の『くちなしの花』であった。

 このLPのもう一つの話題はバックバンド陣で、深町純(pf)、細野晴臣(bs)、高中正義(gt)、見砂和照(dms)と言った人達が参加していた。

 このあと長い間、陽水はテレビ出演を拒否しつづけ、それがまた人気を煽った。後にとんねるずとのギャグで『傘が無い』を歌って思いっきり 頭をぶちのめされる陽水とは別の人であった。

 『ダンスはうまく踊れない』は愛妻の目の前で30分で作った、と言う陽水伝説があるが、もう一つ陽水で好きなのは旅に出る話で 「旅に出たいと思ったら 行き先を決めずに成田空港に行き、当日券の発売カウンターで適当にその日出発のファーストクラスチケットを買って飛行機に乗る、 俺は井上陽水なんだからこのくらいの贅沢をしても良いだろう、」 というもの。そのくらいの贅沢ならどんどんして下さいである。

 それにしてもこのジャケットの陽水は人相の悪いただのアンちゃんで、今の陽水の方が良い。上手に年を取ったタレントの一人である。

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リフレクションズ;寺尾聡

 井上陽水の『氷の世界』から7年、『氷の世界』の売り上げ記録を上回った『アルバム』である。
 このレコードを私のキャビネットに見つけた友人が、まさかという言う顔をして、お前も買うんだったらミリオンセラーにもなるよなと言った。



HABANA EXPRESS
渚のカンパリソーダ
喜望峰
二都物語
ルビーの指輪

シャドウシティ
予期せぬ出来事
ダイヤルM
北ウィング
出航SASURAI

 しかしながら、氷の世界ほど時代を語っているわけではない。LP全体にけだるい雰囲気が流れ、歌詞が極端に少ない曲が続く。

 大ヒット曲『ルビーの指輪』も今聞くと、例えば『心もよう』のような感動はない。

 タイヤのCMに使われた『シャドーシティ』は流石に車の中で聞くに心地良い。ただし、渋滞していると腹が立ってくる。

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黄昏めもりい;丸山圭子

 前二者に比べるとマイナーであり、社会現象になった訳でも、歌手がスーパーがつくスター/アイドルと言うわけでもない。



街風便り
スカイラウンジ
どうぞこのまま
RAPSODY IN BLUE
夕暮れさびしがり

夕焼け人形
ひとり寝のララバイ
私の風来坊
ひまわり
Bye Bye

 しかし、私はこのアルバムが好きであった。ヒットアルバムらしいが、1曲づつ取り出して聞くのではなく、全体を通して聞くと今でも聞くに堪えるアルバムである。

 単独で聞く機会があるのは『どうそこのまま』位であろう、三宅祐二がラジオで、昭和を代表する一曲としてこの曲を上げたら どうする、という一種のギャグをとばしていたが、素敵なボサノヴァのこの曲はもっと聞く機会があってよい。

 私はこの曲を自分の結婚披露宴の余興用にギター3部に編曲して昔の音楽仲間に譜面を配り、当日やってもらおうとしたが、腕の鈍りと 不慣れなボサノヴァのリズムのでっこみひっこみで全く合わせることができず、そのままでは演奏にならなかった。
 やむを得ず、花婿自らプロデュサーになって花嫁側友人の全部を臨時合唱団に動員し、花婿は楽器を捨ててこれを指揮するという、 1975年ベーム初来日時東京最終公演最における観衆の目の前での編成替えそこのけの現場合わせ編成替えを行なった。
 ところが、私の指揮が良かったのか、リズムパートを一人で受け持った化学系の博士号をもつ学者ながら凄腕ギタリストのH君のボサノヴァの切れ味が良かったのか、 指揮と楽団と合唱団(斉唱でしたが)が三位一体となって見事な演奏になり、参列のおじさんおばさんのやんやの喝采を浴びた。

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Sgt Papper's Lonly Hearts Club Band



 ビートルスの人気絶頂の1967年に発売された、LPレコード1枚分全部が一曲のように融合した、これぞ『アルバム』である。
 単発のスーパーヒット曲はないが、古き良きビートルズの集大成で、通して聞くと実に楽しい。 BEATLES 1967-1972でもこのアルバムからはアルバムの一部という感じの収録のされ方をしている。

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Bridge Over Troubled Water;Simon & Garfunkel


 レコードジャケットの裏面の歌詞カードから
A面トップの BRIDGE OVER TROUBLED WATER

これでもかーーーっというくらい慰め、共に喜んでくれる。


 同じ時代、アメリカから登場したアルバムといったらこれであろう。大ヒット曲の表題曲を含み、刺激的な ことはしていないが心打つ良い曲が揃ったアルバムである。

 「逆巻く水の上に架かる橋のように、貴方の前に身を投げ出したい」 「釘よりハンマーになるほうがましだ」 などいう文句は、優しさに 満ちているようで自己主張が強い今の世には合わないかもしれないが、黄金の50年代を謳歌したアメリカが、どんどん自信喪失していき、全世界がそれに引きずられる ように騒然として行ったこの時代には受けた。

 それでもこの頃のアメリカは、あのベトナム戦争と月面着陸のアポロ計画を平行して推進させていたのだから凄い。

 音楽的にはより才能に恵まれたが外観には恵まれまなかったポール・サイモンは後に『スターウオーズ』のレイア姫と結婚して話題になった。

 Simon & Garfunkelを サイモンとガーファンクル と呼ぶのは英語式のアルファベット読解に毒されているというもので、 アルファベット文字個々の発音か考えるとシモンとガーフンケルの方が自然である。 これがフランス人だとリエゾンを伴って Simon et Garfunkel=シモネガフンケル となる。
 しかし、あるフランス人がテレビのセントラルパークコンサートを見ていてこう口走った時は、そこにいた皆で 「何?、今なんて言った」  と問い詰めたものである。

 9.11の10周年で、ポール・サイモンがギター一丁弾き語りでサウンド・オブ・サイレンスを歌った。ヨー・ヨー・マのバッハの無伴奏チェロ組曲第三番「サラバンド」と 共に、感動的であった。

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元祖冗談音楽;スパイク・ジョーンズ



 この『アルバム』が、オリジナル曲集なのか、ヒットアルバムなのか知らないが楽しいアルバムである。もっとも楽しく聞くにはオリジナル曲が どういう曲なのか勉強する必要もある。また、こんなレコードばかり聞いていてもいけない。

 この中の傑作、かつおかしさが判りやすいのは『ウィリアムテル序曲』で冒頭の嗽(うがい)での夜明けのメロディー演奏は秀逸なアイディア である。
 先日、「アメリカ人は嗽をしない、知らない」と妙に力説する人がいたが、この『ウィリアムテル序曲』がパロディとして受けているのは嗽が アメリカ人一般に膾炙していると言う事であろう。

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クラシックギター世紀の二重奏;ジュリアン&ジョン



 クラシックギターの二重奏のレコードと言うのはそんなに多くないが、このレコードは当時人気絶頂かつ正反対の(と思える) 演奏スタイルと思想の二人がデュエットを組んだもので、その筋では話題になった。 ジョン、ことジョン・ウィリアムスは、スターウオーズなどの映画音楽を手がけた高名な作曲家と同姓同名であるが別人である。

 ジョンはギターの神様セゴヴィアの愛弟子であり、古き良きクラシックギターの伝統を受け継ぐ言わば『古今亭志ん朝』、 一方ジュリアン・ブリームは、ギターと言う楽器の音楽界における地位の低さと、それをことさらに低くしていると彼が考えるところの 他の演奏家に我慢ならない革命児で、コンサートで初心者向け練習曲や映画主題曲を弾く大家に毒づく『立川談志』である。

 このレコードでは好事家に『ジョンの音』と呼ばれるセゴヴィア譲りの豊かな大きな音にブリームが圧倒されている感もあるが、火花が散る 真剣勝負の迫力がある。

 A面はギターのオリジナル曲集、B面はピアノ曲やオーケストラ曲のギター二重奏への編曲であるが、誰が聞いてもA面の方が圧倒的に良い。
 ギターにシンパシーの無いクラシック音楽愛好家に聞かせたところ、演奏はジョンの圧勝、ブリームに特に著しいが、 弦の上を指が滑る時のキュッと言う音は楽音ではないので、非常に耳障りである。B面は聞くに値しない。と云うものであった。

 弦を擦る音はセゴヴィアでもさせるし、自分で弾く時も弦が新しいとどうしてもするので、ギターファンはそういうものとして気にしないが、 確かに雑音を許容するのは楽器として変であるし、実際最近のギタリストは殆ど出さないようである。

 全曲の中で、ギター二重奏曲作品34 アンクラージュマン (Encouragement フェルナンド・ソル作曲)が、譜面の発想記号は完全無視の ドッグファイト的演奏で非常に勇気付けられる。ただし、フルトベングラーのバイロイト版第9と同様に、これを聞くと他の演奏が全部物足りなくなる。


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ピアノソナタ イ長調 K331 トルコ行進曲付き;モーツァルト



 第3楽章にトルコ行進曲があることで有名なピアノソナタで、古今東西のあらゆると言って過言ではないピアニストが録音している。
 ここに紹介するグレン・グールド版は変っていると言えば変っているので、グールド版だけ聞いてこういう曲なのだと思い込むのは危険である。 最初の溝に針を置いた瞬間流れる第1楽章冒頭では、自分の再生システムのどこかが壊れたか、何か設定を間違えたかと思う。 更に曲が進むと明らかにピアノの音ではない人の声のような音が聞こえてくるのでギョッとする。

 カナダ人のピアニスト、グレン・グールドは、その演奏スタイルだけではなく奇業でも知られた。真夏でもオーバーにマフラー、手袋をしていて、 若き中村紘子に握手を求められて『僕に触らないで呉れ』と逃げたという。中村紘子さんのエッセイにあったので本当であろうが、若き日の中村紘子さん との握手を断るとは良い根性をしている、と言わざるを得ない。 桂文楽のように妙なところで観客に反応されるのを嫌ってか、ライブをやらずにスタジオ録音に徹し、演奏中に歌うと云うか唸った。

 この演奏を昔、英会話の先生で、私にロック鑑賞を手ほどきもしてくれた英国人ロック・ファンに聞かせたら結構受けたので驚いた事がある。 この先生が生徒のアメリカ式英語と発音を馬鹿にすること尋常ではなかったが、ロックの大ファンであり、『バットマン』の話題になると目の色を 変えるのであった。
 英国人は野球をしない、と言うので、私がいやロンドンのハイドパークで草野球をしているのを見た事がある、と言ったら即座にそれはアメリカ人だ、 と言い返された。


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我らは涙ながらに膝まづき;バッハ



 BWV244の第68曲・終曲。世の罪の為に十字架に架けられたイエスの前に膝まづく人々をオーケストラと合唱が荘厳に歌い上げる。

 兄の友人で、私も子供のころから知っていたが、歳とその後の境遇が違っていた為若い頃は縁無かった人がいる。お互いリタイヤしてから直接の 知遇を得、著書など送って頂くようになった。「世の常ならぬ事に津々たる興味を持つ」と称するその友人(と言わせて頂く)が、 この世で一番美しい曲であると断言している。これまで彼は同じくバッハの管弦楽組曲第三番の『アリア』を一番美しいと言っていたのであるが、 最近宗旨替えしたらしい。

 私自身は、昔初心者向けにレコードを買う参考にと各レコード会社から出されていた有料パイロット盤の一つ、『Karl Richter』で知ったのであるが、私もこの曲を初めて 聴いた感動を学生時代の友人にカセット付きで送った記憶がある。それは井上陽水の『氷の世界』の出現に匹敵する驚きであった。
 このパイロット盤にある1958年録音のリヒター指揮『マタイ受難曲』は、現在でも同曲の人気ナンバー1だそうである。

 カール・リヒタ―指揮するミュンヘン・バッハ管弦楽団/合唱団はリヒタ―の手兵という存在であった。特に合唱団はプロの集団ではなく、リヒタ―が 鍛え上げたアマチュアでバッハ全曲を暗譜で歌うと言われていた。リヒタ―自身がバッハの歌曲全曲をボーイ・ソプラノ時代から、長じてのバスまで全パートを 歌った事があり、暗譜していたという。暗譜していれば偉いというものでは無いが、アマチュアの場合、指揮者と演奏者が目を見つめあって演奏できると言う事は 大変な事で、気合いの入り方が格段に違ってくる。

 『マタイ受難曲』はバッハ自身のコーディネイトと指揮で演奏されて以来100年間忘れ去られていた曲で、1829年に20歳のメンデルスゾーンに よって発掘、再演奏され、バッハ復活のきっかけになった曲だそうである。もっとも、バッハは1829年当時の人々の趣味には合わず、バッハが完全に 復活するには結構時間がかかったらしい。
 バッハ復活の都市ドレスデンはそれから116年後、英国の野蛮人によって市民もろとも徹底的に破壊された。と、色々な事が頭の中を駆け巡るのである。



津軽海峡冬景色;石川さゆり

 1977年、19歳だった石川さゆりを一気に大スターにし、当時絶滅危惧種だった演歌を救った曲である。 現在でもカラオケで選ばれる曲として演歌部門1,2位を争う人気であるという。メロディー、歌詞、歌い手、が三位一体となった名曲といえよう。

 この歌を聞くと、1983年に92歳で死んだ爺様を思い出す。爺様はこの歌が大好きだった。 といっても、別に石川さゆりが気に入っていたというわけではなく、歌詞が好きだったようである。 特に一番の第二フレーズ 「北へ帰る人の群れはだれも無口で 海鳴りだけを聞いている」 のところでは「うまいことをいうなあ」と 感じ入っていた。爺様は北海道とも海鳴りとも何の縁も無い人で、青函連絡船に乗ったこともなかった。従って、純粋に詩の世界に遊んで 感じ入っていたのである。
 この歌詞は阿久悠である。誰かが、彼の数ある詞の中の最高傑作である、と断言したとしても反論は難しいであろう。

 私は、青函連絡船に乗ったことが一往復だけある。なぜか行きも帰りも「摩周丸」という船だった。1972年のことで、この歌より前である。 当時は北海道に渡るには、飛行機でなければ、東北本線で青森まで行って青函連絡船に乗るのが王道だった。松本清張の『点と線』は、書かれた時代がもっと前であったから、 青函連絡船に乗ったと見せかけて実は飛行機で、というトリックは新鮮であったと思う。
 しかし、上野発の列車に乗って青森に着き、青函連絡船に乗り換えて、函館に着き、そこで函館本線に乗り換えて北海道を行く、という旅は疲れたことは疲れた。

 函館港、青函連絡船、というとどうしても洞爺丸を思い出す。1954年9月26日、中国地方を横切って日本海に抜けたため気象衛星など無い時代、 一旦観測網から消えた台風15号が函館港を奇襲し、 函館湾内で5隻の船を沈めた。その内の1隻が洞爺丸で、1139人が亡くなった。私の生家の近所にもこの船で亡くなった人がいる。
 台風15号は九州南部に上陸して九州を縦断、さらに瀬戸内海、中国地方を斜めに横断して鳥取沖に抜けた。当時の気象観測技術では、日本海に抜けた 台風を追う術は無かった。台風15号は観測網から消えてしまったのである。消えた台風は、勢力を強めながら北東に時速100Kmという猛烈な 速さで進み、北海道南西部を急襲した。

 この悲劇に限らず、かって日本列島は台風に不意打ちをかまされ、大きな被害を受けるということが度々あった。 そこで台風の観測を主な任務とする観測半径800Kmという巨大な気象レーダーが富士山頂に建設された。 その建設のきっかけの一つに洞爺丸の悲劇があったと言われている。
 富士山レーダーは、赤道上の静止軌道から、地上を様々な波長の電磁波で雲や水蒸気の様子を観測する 気象衛星にその役目を譲り、撤去された。往年の観測設備は現在富士吉田郊外に博物館展示されている。

 気象衛星があっても、台風の襲来が防止できるわけではない。しかし、台風の現在位置はリアルタイムで分るし、24時間後の位置もほぼ正確に予測できる。 従って、洞爺丸を沈めたような台風が今襲来してきたとしても、函館港は第2警戒体制(避難勧告)を敷き、連絡船(今ならフェリーか) への乗船と貨物積載は中止、空荷の船舶は台風から遠ざかるように避難して、被害は皆無、あとで笑い話、というくらいにできるのではないかと思う。
 河川等の防災体制も60年前とは比べ物にならない。かってコンクリートでは命が大切にできないかのようにコンクリートを馬鹿にした政治家がいたが、 コンクリートに代表されるハードウェアは、台風対策だけに限っても、命を守るのに役立っているのである。

 

ヘビー・ローテーション;AKB48

 2010年、あっちゃんを抑えてAKB総選挙第一位になった大島優子さんが初めてセンターをとった曲である。 乗りの良さ、振りの可愛らしさで、今でもカラオケでは大人気というし、AKB48のテーマ曲的に本人たちにも歌われ続けている。
 AKB48の何人かが、NHKのEテレの地味な番組『スイエンサー』に出ていた時代があった。その中に前田敦子さんがいて、私は一目見てこの子は売れるだろうと思った。 私のこの種のカンは結構当たり、周囲も認めているのである。 

 AKB48はともかく、この歌のサビ部分の歌詞 「I want you, I need you, I love you」 は対人関係の基本である。主語が徹底的に I であることも対人関係の基本に 合っている。Youを主語にするとろくなことにならない。

 縁あって、大学一年生に、大学生として、さらには数年後にはなるであろう社会人としてあるべき姿勢、を教えることとなり、自分でもこの種の勉強をすることになった。
 現代の若者が、自分に無く、あるいは不足していて、かつ絶対に必要で身に付けたいと思っていること断然一位は、対人関係を良くするためのコミュニケーション能力 である。これは、毎年行われる経団連加盟会社調査で新入社員に望むこと第一位をずっと続けているので、学生にもそのフィードバックがかかっている可能性もあるが、兎に角、 若者は「自分は付き合い下手であり、それをなんとかしたい」と思っている。

 対人関係を良くする第一歩は、相手に関心を持つことである。無関心は場合によっては悪感情より人を傷つける、と心理学者は語る。無視されるのは人として一番つらい事だそうである。私は徹底的に、かつ長期に亘って人から無視されたという経験は無いが、そんな目に遭ったらつらいであろうという事は理解できる。
 第二は I を主語で考え、発言することである。これは日本語の特性にもかかわる。 日本語で第二人称すなわち「あなた、君、お前、貴様、てめえ」などを主語にする場面の大部分は、詰問、苦情、叱責、非難、喧嘩、難癖、言掛り、などで、ろくな場面ではない。従って思考もそっちの方に向かってしまう。

 そこで、まずは「I want you」。すべては、私はあなたに関心がある、というところから始まる。コミュニケーションは双方向であるから「I need you」の意思表示をして、 「you need me」まで行かなければならない。そのためにどうするかは、手段・テクニックの問題にもなるが、まずは「I want you, I need you」の心である。
 学生には、コミュニケーションをとる時、とりたい時に、会話の相手との角度、距離、話し・聞く態度、声の大きさ、トーンがそれぞれの場合によって、どんな効果を及ぼすかなど、 かなり微に入り細に亘り、実習を交えて教える。さらに、色恋でなくても「I love you」は継続のために 必要である、コミュニケーションができ、その人(たち)と継続して何かしていくには「I love you」が必要であることも教える。
 というわけで、私はこの歌詞を板書したりしたのである。 「I want you, I need you, I love you」。

 2013年の紅白歌合戦で、大島優子さんがAKB卒業宣言をした。私は彼女の素晴らしい運動能力と、「さああ、これからなにしてやろ」という悪だくみ中の子供様なあの表情のファンである。--幸多かれと祈る--。



港町ブルース;森進一

 ♪ 背伸びして見る 感光紙
 ♪ 今日も塗りムラ あるかしら
 ♪ あなとやった  徹夜の手塗り
 ♪ 港 港 沼津  本田町

 1969年発表、森進一のミリオン・セラーの替え歌である。確かに静岡県沼津市は港町でもある。
 感光紙という製品を、今や見ることは無い。この歌は私の入社当時世界最大の感光紙工場、R社沼津工場のエンジニアの哀歌である。手塗りというのは 感光紙に塗る薬品を調合した感光液の品質チェックのため、感光紙を手作りする熟練の作業の事で、新製品開発のほか、品質管理やトラブル対応などで頻繁に行われた。
 新入社員研修が終わり、一年の工場実習ということで、化学専攻の10人余りの仲間と共に静岡県沼津市本田町にある工場に送り込まれた。
 当時の沼津工場は、電子リコピーという直接電子写真の酸化亜鉛感光紙とジアゾ感光紙を生産していた。それも、月間1億平米近い今考えると途方もない量を。
   私が配属された、ジアゾ感光紙生産の第一製造部では、11台の塗布機が24時間うなりをあげていた。品質管理課の一番下っ端としてジアゾ感光紙の JISの制定(逆説的であるが、世界最大の感光紙メーカーと工場の実力がJIS規格の参考にされた)と取得の仕事に就いた。ここでコピー品質を判断する目や、 計測器による計測法と計測値の統計処理などを厳しく仕込まれた事は後々まで役立った。
 ジアゾ感光紙は、俗に青焼と言われるが、実際は全く別物で、ジアゾニウム塩が紫外線で分解することを利用したポジ-ポジ密着焼きのコピー方法である。 (青焼=青写真は鉄塩利用のポジ-ネガ像)。当時は図面用途のみならず、事務用として、民間でも役所でも盛んに使われていた。

 電子リコピーは昭和40年、経営の神様と言われた市村清のお膝元のR社が陥った経営危機を一発の商品で救った、と言われるくらい売れて儲かった。染料増感した酸化亜鉛を アクリル樹脂をバインダーとして紙に塗布した感光紙に静電像を作り、液体の現像剤で現像してその感光紙をそのままコピーとして用いる。従って、これを直接法電子写真と呼んだ。 現在のコピー機は静電像を感光体上で現像した後、加工してない普通の紙に転写し、その普通紙をコピーとして用いる。もちろん、電子リコピーの時代にも間接法電子写真による 普通紙コピーはあった。特許で守られた独占商品 Xerox である。
 ただ、Xeroxたとえば Xerox720 は巨大でレンタル料は高価、町の小さなオフィスで使える代物ではなかった。 そこへいくと、電子リコピーは構造簡単、小型で価格も安い。ぼってりした重たい紙のコピーではあったが、ミニコピーといった複写専用銀塩フィルムを使う写真コピーと違って、 その場で当倍で本もコピーできる。商品名のBSはBook Sameの略であった。
 しかし、間もなく間接電子写真の基本特許が切れ、R社含む10社近くが一斉参入して小型化廉価化が進み、BSも事務用ジアゾ複写機も あっというまに駆逐された。

 酸化亜鉛感光体は、その後もリスフィルムを使わない直接製版のオフセット印刷版としての用途で生き残り、私はこれに命を懸けることになり、手塗りの腕も磨きに磨いた。 しかしそれも5年間余りのこと、R社は20年前、1964年東京オリンピックの速報センターに提供して花形となった事務用オフセット印刷から撤退、 最盛期40人いたオフセット印刷関連化学製品の開発チームは仕事にあぶれてしまった。
 40人は社内のそれぞれの道に散って行った。私は、感光紙という主生産製品を失った沼津工場の生き残りのために、手塗りの腕を厚さ3.5ミクロン(台所ラップフィルムの 6分の1の厚み)のPETフィルム相手に奮う事になり、3.5ミクロンのフィルムの上に2ミクロンの層を3層重ねるなど、ほとんど神業の域に達するが、それは別の物語となる。

 現在、電子リコピーは完全に滅び、R社でもそれが市場に存在した事を知る者はほんの一握り、社内博物館の展示物でしかないが、 ジアゾ感光紙は、国内全メーカーの生産を統合し、今でも沼津工場が日本で唯一細々と生産しており、私も制定や取得に最下端で関わった「JIS P4505-1973 ジアゾ感光紙」 も生きている。しかし、この歌を飲み会で高吟した時代があった事を知る者は現役にはいない。



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