絵画考

 日本人は昔から海外旅行に出ると突然美術愛好者になると言われている。
 しかし、何と言われようと、見知らぬ外国の町で、教科書や書物で見たことがある有名な絵の実物を眺めるのは、 同じく写真で見たことがある美しい景色を眺めるのと同様に、胸弾む楽しみである。
 この思いは日本人だけのものではなく、例えばルーブル美術館の『モナリザ』の前は色とりどりの観客(?)で常に文字通り押すな押すなの賑わいで、 背が高い人が真正面に留まろうものならものの十秒で後ろから各国語で罵声が飛ぶ。


 左、1988年頃のモナリザの展示。右、2001年頃、多分現在も同じ

 風景画以外の西洋絵画の理解には、キリスト教を中心とした西洋史の膨大な教養が必要であるが、それらはシステマテックに学ばずとも あんちょこ本もあるので、それで済ます事ができる。大きな美術館では日本語のカタログを売っているので可能なら事前に、 そう日本語/事前に、が肝要、それを買う。速攻の情報収集には日本語にしくはない。本などを眺めて一瞬で何処に何が書いてあるか知るには 我が日本語の漢字仮名交じり書きは西洋の文字に比べて格段に優れている。これは英語通訳を生業としている方もおっしゃっていたので間違いない。
 運良く同じ美術館に二度三度行く機会に恵まれる事があるならば、事前の集中勉強や、初対面の感激から覚めた冷静な鑑賞も可能に なってくる。それで思ったのは絵と言うものは、本物を気合を入れて見ていればおのずと判ってくると言う事で、 あのピカソにおいてさえ何かをを感じら取れるようになると言う事であった。


 おことわり 写真について

 このページは、私が実際に対面した絵について感想を述べている。
 美術館/博物館には撮影可能なところと撮影禁止のところがある。撮影許可でも博物館系は撮影もストロボが使えるところが多いが、 美術館は全てがフラッシュ(ストロボ)禁止なので、きれいなぶれていない写真を撮るのは難しい。
 しかし、強いストロボ光を絵に当てると、冗談ではなく絵の具が光エネルギーを吸収して温度が上がり、絵が傷むので避けるにしくはない。コピー機の トナーを溶かして紙に定着させる熱源としてストロボ(フラッシュ定着)を使う事もあるのである。
 上記のモナリザがあるルーブル美術館はストロボを使わなければ撮影自由である。しかし、現代のカメラは オート発光なのでカメラ操作初心者ほどストロボを光らせてしまう。モナリザは一日何百発ものこういう無知・偶発的、 たまに確信的ストロボを浴びている。そのため薄いアンバーに着色した防弾兼熱線吸収ガラスに守られている。

 と言うわけで、私は分別ある観光客として撮影禁止の場所で写真を撮ったり、偶発と見せて故意にストロボを光らせたり はしないので、手持ちにはなかなかきれいな写真が無い。
 このページの写真の多くは絵葉書、カタログなどから拝借したものであることをお断りしておく。







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キーワード画家 キーワード画家
4月の恋アーサー・ヒューイ 冬の狩人ブリューゲル・父
ラス・メニーナスベラスケス マハの連作ゴヤ
大工の聖ヨセフ ド・ラトゥール受胎告知 リッピ
カナの婚礼ベネローゼ 絵画芸術・画家のアトリエフェルメール
真珠の耳飾の女フェルメール ミレー
サン・ヴィクトワール山セザンヌ ボッテチェルリ
東方三博士の礼拝ジオット ラヴェンナのモザイク画ラヴェンナ/イタリア
中国の馬ラスコー洞窟画/フランス 接吻クリムト
貴婦人と一角獣タペストリー/クリュイニー チャイルド・ハロルドの巡礼ターナー
麦わら帽子の自画像ル・ブラン 22歳の自画像デューラー
トレド風景エル・グレコ ひまわりゴッホ
オ^ベール・シュル・オワーズの教会ゴッホ 大使達ホルバイン
妄想の絵画たちいわゆる閨房絵画 別の衝動を駆る芸術品暴力・窃盗


望嶽台 本家へ








『四月の恋』;アーサー・ヒューイ;テート・ギャラリー/ロンドン

 冒頭はマイナーな画家のマイナーな作品から入る。

 ジョン・エバレット・ミレイやダンテ・ガブリエル・ロセッティをリーダーをするプレ・ラファエロ派の画家、アーサー・ヒューイになる美しい絵。
 ライラックの花の下でかき口説く若者に恥らい戸惑う乙女ひとり、しかし、その足下にはすでに花びらが散らされて、乙女の運命を象徴している。 朝日の前の花の露同様、全身全霊で口説く若者の前に乙女の心の垣などははかないものである。


 もう10年、住む先々の居間の壁に下げてある『四月の恋』。

 何故か非常に気に入ったこの絵、サイズと色合いに合った額を注文で作ったものである。



 アーサー・ヒューイの自画像がバーミンガム市立美術館にあるが、物凄い美青年に描かれている。余りの美しい青年ぶりに、この自画像の絵葉書でも と欲しくて探したのであるが、一般的人気は無いらしく、ミュージアム・ショップにはなかった。

 ルネッサンス以前の古典に帰ろう、という運動の一派、プレ・ラファエロ派の絵は今日絵画史の中では珍重されていないが、 いかにも西洋を感じさせる綺麗な絵が多く、明治の御代の日本で受けたというのも頷ける。 コレクションとしてはテートのものが質量共に一番で圧倒的であるが、バーミンガム市立美術館のものもかなり充実している。 東京国立西洋美術館にも数点所蔵されている。この美術館の常設展はわざわざ行く機会はまず無いのであるが、流石は松方コレクション、量はともかく 質は世界の有名美術館レベルにあると思う。
 松方コレクション以降の寄贈になる絵であるが、常設展のほぼ最後でレオナール・藤田の素晴らしい女性像の逸品が見送ってくれる。

 地面に落ちた花や花びらは、西洋絵画の決まり事では画面の乙女(ばあさんの場合は知らない)が花びらを散らす、ないし散らされる事を示している。 花びらの他にも、画面の中の割れたり、ひびが入ったりしている陶器が描かれている場合も同じ寓意である。
 フェルメールらフランドール派の絵にある殿方の前でワインを飲むなどの図も、そのあと二人が見詰め合っただけで別れたのではない事を暗示している。

 はかないものの例えとしては、掻き口説く若者の前の乙女の心の砦のほかに、朝日の前の薔薇の花びらの露、MG42の前のオマハビーチの 戦闘工兵の命とか、鉄壁のディフェンスラインの前のランニングバックのラン、といった奇想天外の例えもある。
 トム・クランシーには、静かな潜水艦の事を、一生を処女のままで居ようと決意した乙女の鯨のように、と言う表現がある。

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 『冬の狩人』ブリューゲル父。国立美術史美術館/ウィーン

 ブリューゲルのコレクションでは、ハプスブルグ本家のあったウィーンとブリューゲルの地元のブラッセルが上げられるが、コレクションとしては、 ネーデルランド/フランドルの支配者側に当るウィーンの圧勝である。『子供の遊び』『バベルの塔』『農民の婚宴』『農民の祭り』『謝肉祭』『十字架を担うキリスト』 『暗い日』『牛の群れの帰還』などなどがあるウィーンのブリューゲルの展示室ではしばし息をするのも忘れててしまう。

 『子供の遊び』

 遊びの数が幾つ描かれているか?、というクイズがあるがこれはかなりの難問である。
 数えた人もいて、諸説あるが多い人は91あるとカウントしている。




 『冬の狩人』

 この絵は12チャンネル「美の巨人たち」の好きな風景画投票で上位になった絵で、寓意に満ちた背景としての風景の中に描かれた集団人物画である。
 真平らなフランドール地方にはこんな地形はないので、他所の風景の中にフランドールの人物をはめ込んで描いた絵である。

 ウィーンの美術史美術館は。ハプスブルグ家のコレクションを中核とする絵画美術館である。
 ガイドブックなどで、Kunsthistrisches Museumを国立工芸史美術館と訳しているのがあるが、この絵画中心の美術館の名前として宜しくない、 ロンドンのヴィクトリア&アルバートのような性格の工芸品美術館かと誤解してしまう。
 この名前は多分、マリア・テレジア広場を挟んで向かい合っている自然史博物館に対する人工物=KUNSTの美術館ということから 来ているものと思われる。



マリア・テレジア像と美術史美術館。


入場券。100オーストリアシリング=200円。今は勿論ユーロ。

美術史美術館(左)、サイズも日本の電車の切符風。
自然史博物館(右)、色刷りで大きくて立派。

 ドイツ語のKUNSTは工芸と言う意味が第一議かもしれないが、人が作ったもの一般をさす言葉で、合成樹脂もKunstである。 大学のゼミで最初にしごかれたのがドイツ語で、テキストは「Die Chemie der Kunst Stoffe」という小さいが恐ろしい本であった。 Radikalkettenpolimerizationreactionなどという単語!!にうなされたものである。
 それなのにドイツ語は全く身につかず、ずっと後になってドイツ国を一人旅などと言う時後悔した。  仕事は英語でなんとかなってもドイツの旅はドイツ語で、北欧やスイスのようにいつでもどこでも英語というわけにはいかない。 せめて数字だけでもと思ってもドイツ語はその数字を言うのが難しいのである。 ホテルのフロントで部屋番号を告げるのに一発でうまく行った試しがない。 それだけに町でドイツ語を少しでも口走れば、非常に喜んでくれるドイツの人もいる。

 ところで自然史博物館にはハプスブルグ家を支えた財力の源泉の一つ、チロルの岩塩の巨大な結晶がある。
 重さ数百キロはあろうかというもので、手で触れて良いものかどうかは判らないが、触れる事は可能で、その気になればなめる事もできる。

 東京渋谷の「塩と煙草の博物館」にも巨大な岩塩の結晶の展示がある。

 ところで、ヨーロッパの食塩と云えばいつでもどこでも岩塩と思うのは間違いである。先日ある書物で、フランス料理も岩塩であるかのように書かれているのを見たが、 フランスにはカマルグ、ブルターニュという海塩の大産地があり、スーパーでも様々な銘柄の国内産の海からの食塩を売っている。
 第一、我がブルボンが宿敵ハプスブルグの地に産する岩塩などというものを珍重する訳がないではないか。
 フランス産海塩は日本のスーパーでも普通に置いてあるようになった。




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 『ラス・メニーナス』ベラスケス。プラド美術館/マドリッド

 ヨーロッパの大美術館でもほんのまばらにしかないベラスケスとゴヤは、当然ながらプラドにはまとまって所蔵されており、それぞれ専用の 展示室に展示されている。


 プラドの薄暗い(この美術館は全体に暗いのである)が広いベラスケス室に入って向こうの壁に架かっている『ラス・メニーナス』が 目に入ってくるとき、こんな有名な絵を 無学な田舎者のこの俺がこんなにあっさり実物を見ることになって良いのだろうか、という気持になる。
 かなり大きな絵なので近づきすぎず、それなりのスタンスをとって見る方がよろしい。
 侍女達という表題の通り、 王女にかしづく二人の侍女についても名前も、描かれた当時の年齢も判っている。それぞれ14歳くらいである。

 この絵は、ベラスケスその人が王女マルガリータ・テレサの肖像を描いているところであり、王女の回りの侍女達、道化女、少年、犬 はモデルになっている事に退屈してむずかる王女の機嫌を取るためにいるのだと言う。
 その一同を見渡すように王女の両親であるフェリペW世夫妻が現れ、王女の左手にいる侍女はそれに気付いてお辞儀をしているが、 他の人物はまだ国王夫妻に気がついていない、と言う瞬間である。
 マルガリータ・テレサ5歳というこの絵は1656年のある日と言う事になり、落日を前にしたスペイン・ハプスブルグ家最後の輝きを フェリペW世の目を通して切り取っていると言えるかもしれない。


 フェリペW世の没後、1665年即位したマルガリータ・テレサの腹違いの弟カルロスU世は血族結婚の繰り返しの結末として奇形で白痴 であったと伝えられており、このカルロスU世の死により、1700年、スペイン・ハプスブルグ家は宿敵フランス・ブルボン家に吸収される 形で消滅してしまう。
 ベラスケス自身は、幸いな事に、スポンサーであるフェリペW世のもとで没している。




 この絵には、王女マルガリータ・テレサの右手はどうなっているのか?、という有名な謎があるが、確かにどうなっているのかはっきりしない。
 ベラスケスは色々なパターンを試したあげく、確定させずに完成としてしまったと言われている。



『ラス・メニーナス』はプラド美術館の看板であり、スペインの誇りであるから、当然?、スペインを代表するファッション・ブランド『ロエベ』にも 取り入れられている。

 宮廷画家ベラスケスはスペイン・ハプスブルグ家の人々を何枚も何枚も何枚も描いたが、ベラスケスにとって悲劇的であったのは、この時期の スペイン・ハプスブルグ家には近親結婚の害が極致に達し、生物として生存できる限界の人たちしかおらず、その容姿は有史以来の数ある世界中の王朝 の中で最も不細工であった。

 マルガリータ・テレサの両親も伯父/姪間という現代日本ではご法度の近親結婚だった。 マルガリータがこよなく愛したという弟殿下は死の直前のベラスケスによって描かれ、 ウィーンで姉のマルガリータ・テレサと並んでいるが、僅か4歳でで夭逝している。
 さらにその腹違いの弟、カルロスU世は50歳まで生きたものの、心身とも正常の人間ではなかった。

 ベラスケスによる王女マルガリータ・テレサの年代を追った肖像がウィーンに3枚あり、そのうちの青いドレスのマルガリータは2002年に 東京芸大で開かれた『ウィーン美術史美術館展』で東京に来た。
 父王のフェリペW世はスペイン・ハッブスブルグ家の血である長い顎とめくれた唇を持った醜男で、かわいやマルガリータもその血を受け継ぎ、 だんだん父に似ていき、ベラスケスは名刀の切れ味にもたとえられる筆でそれを残酷に写し取っていく。
 マルガリータ5歳と言われるラス・メニーナスでは 可愛いだけであるが、8歳という青いドレスでは相当来てしまっている。



ウィーン美術史美術館。
3枚のマルガリータ像の展示。
左から3歳、5歳、8歳で、真ん中の5歳は『ラス・メニーナス』と同じ年代。
東京に来たのは一番右の8歳。

 マルガリータ・テレサが3枚の自分の肖像画の後を追って、ブレンナー峠を越え、15歳でウィーンに御輿入れしたのは1666年。
 全領土は荒廃し、アルザスを始めとする西方・北方の領土を失い、ハプスブルグ家に大打撃を与えた30年戦争とその終戦条約である ウェストファリア条約は1648年であるから、まだ戦争の傷跡癒えぬ頃であった。

 第二次ウィーン包囲を逆に好機としてレオポルドT世のもとでのオイゲン公の活躍によるハプスブルグ家の東方への勢力拡大、 ドナウ帝国としての隆盛はマルガリータ・テレサの没後であったから、王妃マルガリータ・テレサの時代のオーストリア・ハプスブルグ家の 実効支配地域は、旧帝国の中枢部分とその周辺に限られていた。

 お相手のレオポルドI世はマリア・テレジアのお爺さんにあたるが、 マルガリータは女の子を一人残しただけで22歳で天に召されたので、レオポルドI世の子であり、マリア・テレジアの父であるカールY世とは血縁なく、 従ってマリア・テレジアとも(マリー・アントワネットとも)血縁はない。
 これはマルガリータファンにとっては甚だ残念なことである。尤も、ハプスブルグ家はスペインもオーストリアも前述のように血族結婚の雨霰で、 レオポルドI世とマルガリータも伯父と姪兼いとこ同士兼夫婦という理解し難い間柄なので、マルガリータとマリア・テレジアもまったくの赤の他人ではない といえるかもしれない。(天璋院様のご祐筆の妹の嫁に行った先のおっかさんの甥の娘と天璋院様ご本人の関係くらいか?)


ブレンナー峠
 アルプスを越えるに最も易しい峠として古代ローマの道路も通るブレンナー峠は現代では一般国道だけではなく、鉄道や高速道路も越えている。
 ロマンチック街道(ローマへの道。あるいは、ローマ=イタリアへの憧れの道)は、ドイツからオーストリアに入りチロルの谷でインスブルックを経てブレンナー峠を越え、 光溢れる憧れの南の国イタリアに抜ける。これはゲーテ、モーツァルト、デューラーらが通ったコースである。 マルガリータ・テレサは逆に北に向かってブレンナー峠を越えたわけである。


 ブレンナー峠駅は1940年10月3日、西ヨーロッパを手中にしたヒトラーが専用列車をここに止め、ムッソリーニを迎えて膝付きあわせての 会談を行った場所である。大学教育も受けていたムッソリーニは、それまで何かと見下していた画学生崩れのボヘミアの伍長にすぎないヒトラーが 「成功者ヒトラー」となって目の前に現れたこの会談で、そのオーラに圧倒され、大いにエネルギーを貰い、やる気になったという。
 ヒトラーはさらにその10月末、専用列車を今度はバスクのフランス/スペイン国境に停め、フランコと会談した。 バスクでのヒトラーはフランコに枢軸国としスペインもて軍隊を出し、ドイツと共に戦う事を提言したが、フランコは言を左右してこれに乗らなかった。
 結局スペインは第二次大戦を枢軸国として参戦しながら戦闘には参加せず、従って戦争末期に野蛮国米英によって破壊されることなく、 今日イタリアと並ぶ世界最大の世界遺産所在国となっている。スペイン国民はまともに断ったら時節柄何をされるか判らない相手と腹芸で渡り合った この会談のフランコには感謝してしかるべきである。


 第一次世界大戦の結果、ブレンナー峠の南側の南チロルと呼ばれる地域はイタリア領になり、ブレンナー峠はオーストリアと イタリアの国境になったが、現在でもイタリア領南チロル地域ではドイツ語が話されている。
 EUとなって取り払われるまで、ここにはパスポートコントロールがあった。


 チョコレートやレースの手袋と共にマルガリータお輿入れの道具の一つだった『スペイン乗馬学校』の白馬達。

 音楽にあわせてのバレエが今日でもウィーン観光の目玉の一つになっているが、フリの観光客が見るのはなかなか難しいので、市内観光ツアーに入るのがよろしい。


ウィーン;フランチェスコ教会。
名も無いウィーンの画家による最後の肖像画。21歳のマルガリータ(右上)

左上にレオポルドI世、右下にマルガリータの娘マリア・アントニアの姿。


ここも非常に暗く、教会の祭壇右なので角度が悪く、決死の撮影。


ウィーン;カプチーナ教会;ハプスブルグ家墓所。
もちろん、マリア・テレジアのお棺もここにある。(非常にでかい)

Mの文字が刻んであるマルガリータのお棺。
どこかのマルガリータファンによる、手向けの花が。

 血筋から必然的に蒲柳の質であったマルガリータは早死にであったが、決して薄幸の 生涯ではなく、煩瑣なプロトコルに満ちた宮廷生活をまるでゲームのように楽しんだ 真のハプスブルグ家王女だったという。


 ピカソは多くの先人の絵をテーマにピカソ流の変奏を描いているが、ラス・メニーナスでも晩年に無慮50枚以上に及ぶ変奏を描いており、 これは殆ど全部バルセロナにあって一挙に全部掲げられてる。これらを揃いで見ると同じ美術館の隣の部屋で若きピカソをこれでもかと見て きたばかりであるだけに老ピカソの思いに涙が出そうになる。

 2003年東京での『バルセロナのピカソ展』では、エコール・ド・パリ時代含むそれ以前のピカソ=天才の誕生という展覧会の主旨もあって、 このシリーズはほんの数点のおざなり来日で非常に残念であった。


画家の生涯絵の具消費量
 ところで、『フランダースの犬』でフィーチャーされているルーベンスは生涯で最も大量の絵の具を使った画家ではないか、と私は密かに思っている。

 ルーベンスの地元、ブラッセル/ベルギーの王立美術館のルーベンス室(のごく一部)

 アムステルダムのライクスやブラッセルの王立美術館のみならず、ヨーロッパの大美術館はルーベンスの驚くような物量Xサイズのコレクションをあまねく 持っている。プラド美術館も勿論例外ではない。ルーベンスはルーベンス工房の親方で、でかくて豪華な絵の注文を引き受け、 大勢の職人を使って効率的に大作を描いたというが、それにしても凄い物量である。


 対照的に、セザンヌのように生涯絵の具消費量が少なかったであろうと容易に想像できる画家もいる。
 ベラスケスも大きな絵を描いた割には生涯絵の具消費量は少なかったのではないかと思う。よく言われることであるが、ベラスケスの絵は 近づいてみると非常にあっさりしている。どのくらいの太さの筆がどの位の量の絵の具を含んでどんな角度から入ったかが良く判る部分さえ珍しくない。
 一方、レオナルド・ダ・ビンチは、筆の跡を全く見て取れない。何事に拠らず、素人と玄人の違いは仕事離れの良し悪しにあり、玄人はきっぱりと完成を 宣言して作品を手放すのに、素人は何時までも手を入れ続けるのだそうである。多能の天才レオナルド・ダ・ビンチは偉大なるアマチュア画家だったと 言えるのかもしれない。一方、マルガリータ・テレサの右手の処遇を決定することなく納期どおり納品した(?)宮廷画家ベラスケスはプロ中のプロ と言えるであろう。

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『裸体のマヤ・着衣のマヤ』;ゴヤ。プラド美術館/マドリッド

 ゴヤという画家は長生きし、画家としての活動期間も長かったのであるから作品もそれなりの数を残していると思うのであるが、 ゴヤの絵をプラド美術館以外で見る機会というのはなかなか無いのは一つの不思議である。

 ルーブル美術館には素晴らしいゴヤが数点あるが、これらのゴヤがルーブルのどの辺にあるか探し当てるのがまた難しい。



『ラ・ソラーナ女侯爵、カルビオ伯爵夫人』;ルーブル美術館


しかし、プラドに行くと、これでもか!、と言うくらいある。

 ホームグラウンドのプラド美術館前庭のゴヤ像

 ゴヤは並べて見ると、時代によって随分画風が変わった画家で、 83歳(1745-1828)と長命であったせいもあろうが、同じ人が描いたとは思えないくらい印象が違う。
 ルノワールも長命で、若い頃と晩年では随分画風が異なるが、ゴヤの変貌はルノワールの比ではなく、 100年後に現れるピカソの変貌ぶりに匹敵する。



 若い頃は明るく楽しい絵が多い。特にこの時代のゴヤの描く人物の顔は童顔で、白人の子供の可愛らしさの或る典型である。

 これらの絵はタペストリーのデザイン画として描かれたものである故、ことさらに明るく楽しいということもあるらしい。

 19世紀に入ると絵はどんどん色彩を失って暗いモノトーンになり、最晩年には目を背けるような絵もある。


我が子を喰らうサトゥヌス。(1921/23頃)

お前はやがてお前の子に地位を奪われると予言されたサトゥヌスの悲劇。




『裸体のマヤ・着衣のマヤ』


 ゴヤといって思い浮かべるのは、マハの連作であろう。この二枚の展示の前に立つと、うんここに有ったかとにんまりしてしまう。

 二枚のマハは丁度19世紀になる頃、ゴヤが精力的に肖像画を描いていた時代、いわゆる脂の乗り切った年代の絵である。




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『大工の聖ヨセフ』;ジュルジュ・ド・ラトゥール。ルーブル美術館/パリ

 

 私はアルザスに住んでいたことがあるのに、うかつにもラ・トゥールがお隣のロートリンゲン(ロレーヌ)の人だということを、 東京でのラ・トゥール展を見るまで知らなかった。従って、ラ・トゥールゆかりの地を尋ねると言う事もしていない。

 ちなみに、日本ではアルザス・ロレーヌとひとくくりにするが、間にボージュ山脈という障壁があり、アルザスとロレーヌにはくくれる ような共通点は無い。土着言語もアルザスはアルザス語、ロレーヌはフランス語であり、アルザス人に言わせると、ボージュの西側はフランス= アルザスではない所、なのである。アルザスはワインの産地で今日では一大ブランドであるが、ロレーヌワインはない。アルザスではキルシュ・ ロレーヌよりタルト・フランべであり、クグロフである。

 17世紀のフランス東部は各王家間の領有争い、あるいは王家内の王位継承、 それに絡んだ30年戦争に代表される宗教戦争、さらにペストの大流行と、ぐちゃぐちゃの時代で、それだけに興味深い時代である。 スウェーデン王カール・グスタフによるドイツ西部・アルザス・ロレーヌの破壊などは現代から考えると日露戦争は北方四島をめぐる 仮想戦記だと思うという若者の感覚と同じでファンタスティックですらある。
 アルザス時代、スウェーデンからのお客様があり、カール・グスタフによるアルザスの破壊を知っているかどうか尋ねた事があるが、 流石に彼らは知っていた。
 現在のアルザスにはこの混乱から復興され、普仏戦争と二つの大戦では陸戦の戦場になりながら生き長らえた17世紀の家並みが 残っていたりする。
  ラ・トゥールの絵を見るに付いて、これらの絵が描かれたぐちゃぐちゃの時代のロレーヌに思いをはせるのも一興かもしれない。
 このぐちゃぐちゃの所為か、ジュルジュ・ド・ラトゥールという画家の存在は一辺完全に歴史から消え去ってしまい、再発見されたのは 20世紀になってからであるという。忘れ去られ期間の長さではJ.S.バッハを遥かにしのぐ。



『夜伽のマドレーヌ』

 ニューヨークのメトロポリタン美術館にも良く似た絵があるが、
 そちらは、蝋燭の灯が鏡に映っているという凝った構図である。




『いかさま師』

 左端のダイヤのエースを隠し持つ男のみならず、女二人もグルで右端の奇妙な服装のお坊ちゃまを鴨ろうとしているところである。
 修復されている所為もあるのかもしれないが、非常にきれいな色彩の絵である。


 ラ・トゥールの絵は、ルーブル美術館以外では、ニューヨークのメトロポリタン美術館にも集められている。
 東京西洋美術館にも1枚ある。

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『受胎告知』;リッピ。ナショナル・ギャラリー/ロンドン



 破戒僧リッピは、女性を描かせて名人で、あまねく一切の女性が彼の目にあの絵のように映っていたのならば、戒律も何もあったものではないと思う。 フィレンツェのウフツィ美術館にある『聖母子と二天使』の聖母のモデルについてのエピソードもさもありなんである。


 ロンドンのナショナル・ギャラリーにある受胎告知の絵は、自分に託された理不尽な口上を自覚してか上目使いにマリアを窺う大天使ガブリエル、 まだするべき事もしてないのにそんな無茶を言われても、と戸惑うマリア、
 その表情は絶妙且つ愛らしく美しく、ウフィツィ美術館のレオナルド・ダビンチ作、プラド美術館のボッテチェルリ作、そして大原美術館の エル・グレコ作なども 捨て難いと思いつつも、数ある受胎告知の絵の中でこれが最高の傑作であると私は決め付けてしまう。

 この絵があるナショナル・ギャラリーは世界屈指の古典絵画の美術館である。
 ロンドンの真ん中トラファルガー広場に面していて、この地の利がありながら 入場無料、クローク利用もトイレも無料という太っ腹。ロンドンに日帰りの商用があるときなど、無料のクロークとトイレの後ろに大英帝国全盛時代の 富を反映したコレクションがうなっているという感覚である。ベラスケス唯一のヌード、『鏡を見るヴィーナス』もここにある。



 このなまめかしい肌も鏡に掛かったリボンもベラスケスは厚塗りしていない。近くで見るとキャンバスが透けて見えんばかりである。
特にピンクのリボンは殆ど一筆書きで描かれている。
 宮廷画家がおいそれとヌードを描くわけにはいかない。この絵はベラスケスがイタリアに遊んだ時描いたと言われている。



 トラファルガー広場に面した角にあんまり大きくはないが淡い青の文字盤の時計を備えた美しい尖塔を持ったセント・マーチン教会がある。
 この教会に属する室内楽楽団、 『アカデミー・セントマーチン・インザフィールド』は1970年代初め、ネビル・マリナーの指揮で発表したヴィヴァルディの四季で 一躍有名になった。




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『カナの婚礼』;ヴェロネーゼ。ルーブル美術館/パリ


 この絵は現存するキャンバスに描かれたものとして世界で二番目に大きい(666X990)そうであるが、世界で一番大きいと言う油絵 (『レピ家の饗宴』555X1280)もなんと同じ作者でこれは イタリアのとある大学にあるのだそうある。


 同じくルーブルにあるダビッドの『ナポレオン1世妃ジョセフィーヌの戴冠式(621x979)』も大きな絵であるが、 『カナの婚礼』より縦横で僅かに小さい。



 カナの婚礼は、大きいだけではなく、中々の傑作とされ、イタリアが、ナポレオンの強奪行為でフランスにあることになったのだから 返せといったことがあり、その時フランスは大きすぎて移動は無理だというわけの判らんことを言って断わったという。

 フランスが、いちゃもんをつけて返却しなかったという例はもう一枚、国立西洋美術館を入れ物とする松方コレクションの逸品だったゴッホの 『アルルの寝室』がある。


 現在はフランス国有資産としてオルセー美術館に有るこの絵、フランス国有のゴッホコレクションの目玉とすべく、戦利品として没収した松方コレクション を日本に返却する時抜き取ったものである。20枚抜き取った中での代表で旧松方コレクションの象徴だった絵が『アルルの寝室』、 すったもんだの末、抜き取った内から返却されたのが、ルノワールの『オダリスク;アルジェのハーレムの女たち』である。

『アルルの寝室』が旧松方コレクションであることはオルセー美術館の表題札にもカタログにも記されており、 大切にされているのでフランスもフェアではある。
 この絵とほぼ同じ構図の絵が3枚存在する。旧松方コレクションの絵は最後に描かれた一枚である。部屋の形が歪んで描かれているが、これは 元々の部屋が長方形ではなく、変則であった為もある。



 先生に引率されたこまいのがオルセーやルーブルにいる光景は結構よく見かける。

 小学生時代からオルセー美術館に親しむなんてなんて恵まれていて幸せ・・・。とも思うが、 どこの国のどこの田舎の小学生でも工夫次第でいくらでも似た機会を作ってあげる事は出来ると思う。

 カナという町でのとある婚礼の宴で、酒が切れたぞーーっとわめく酔っ払いどもを、空になった筈の壺から酒を出し、静めたというキリストの奇跡の 一つを描いたこの巨大な絵には当時に宗教画としては革命的な事にふしだらかつキリストに全く敬意を表していない一般庶民が描かれている。
 キリストは中央に座しているが、そう言われなければどこに居るのか判らないくらい控えめである。
 さらに正面中央の目立つところには二頭の犬同士が短い綱で繋がれている姿が全くの必然性無しに描かれている。


 これと同じ姿の犬(たち)を見かけた事がある、 飼い主に聞いたら、こうしておく事で 犬(たち)は自由がほぼ完全に束縛され遠走りは絶対に出来なくなるそうである。 確かに、二頭の犬が相談して一二の三で歩調を合わせて謀反に走るなどと 言う事は考えられない。

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『絵画芸術;画家のアトリエ』;フェルメール。美術史美術館/ウィーン

 デルフトのアマチュア画家フェルメールの絵は現在世界に36枚(諸説あるが、まあそんなもの)しかなく、かつ散らばっているため、フェルメール ハンターとも言うべき趣味の輩が発生し、何枚のフェルメールを見たことがあるかが、この世界の獲物(トロフィー)収集数である。
 かくいう私もフェルメール・ハンターの末席で、
30枚見ているので 私がフェルメールを語るについては少し我慢して頂かなければならない。

『絵画芸術』は、一時はネーデルランドの支配者であったハプスブルグ家の本家ウィーンにあるたった一枚のフェルメールである。


 この『絵画芸術』はフェルメールとしては三番目に 大きな絵で(120cmX100cm)、ウィーン美術史美術館ではマリア・テレジア広場に面した小さな部屋の窓に面した壁一杯に掛けられている。






 当然ながら額にはガラスが入っており、部屋が暗いので、窓がそのガラスにめちゃくちゃ写りこんで真正面からは絵が良く見えない。 アクリルの低反射透明板などがある時代なのだからなんとかして頂きたい。




 2001年8月〜9月、ロンドンのナショナル・ギャラリーで開かれた『フェルメールとデルフト派展』は、無慮13枚のフェルメール (中には真作と確定されていない物もあり) が集まる豪華さで、会場入り口で観衆を迎えたホステスはこの『絵画芸術』であった。


 フェルメール展を告げる『幟』。西洋の 「幟旗」 は下から上に向かって読むように掲げるのが普通。
 ナショナル・ギャラリーは基本的に館内写真撮影自由であるが、この展覧会会場は全面撮影禁止であった。

 フェルメールの絵の最大コレクション国は約12枚を擁し、この展覧会にも5枚を出展したアメリカであり、最大美術館はこれまた ニューヨークのメトロポリタン美術館で、本家のオランダ国立美術館(ライクス)の4枚を上回る5枚を所蔵している。
 19世紀半ばから20世紀半ばまでの約100年間、世界中の富を集めたアメリカの底力は美術品収集にも遺憾なく発揮されている。
 美術品と海老と蟹は金があるところに集まるのだそうであるが、日本のバブル期は美術品をかき集めるにはいかにも短かすぎたと惜しまれる。

 更に彼女は2004年5月には東京にもやってきた。
 2002年のウィーン美術史美術館展にも来なかったこの絵を日本で見ることができるとは思わず、まして交換要員になるこれという超目玉コレクションを 持たない東京都美術館に貸し出される事があるなどとは 思わなかったので最初にポスターを見た時はまさかと思った。もっともこの展覧会『フランドール美術展』はこの絵だけが唯一最大の目玉で、 もし彼女が来なかったら入場者は激減したであろう。

 絵の中の画家は彼女の4分の3位置の半身像を描こうとしている。カンバス上には画家の右手が震えないように支える斜めのバーがセットしてある。 モデルの娘は大きな葉っぱのある植物で作った冠をかぶり、右手にファンファーレに使うようなトランペット、左手に大きな本を抱えている。 この本は彼女にとって非常に重そうで、果たしてこんな大きな本を持っていられたかという疑問も生ずる。
 1997年3月にウィーンに行った時は入院加療中というところで会えず、彼女に初めて会ったのは1999年6月のことであった。
 同じ絵を違う所で見るというのは不思議な体験であり、縁を感ずるが、ウィーン、ロンドン、東京とそれぞれ個性のある大都会で見ることができた この絵には格別な物を感ずる。

 画家が描いた時気合が入っていたかどうかという問題については、セザンヌにおいて非常に顕著であるが、フェルメールでも気合の有無が感じられる。 2007年に東京の国立新美術館に来たアムステルダムの『牛乳を注ぐ女』は小品であるがその気合の入れ具合は群を抜いている。

 フェルメールの絵の中の女性たちは、「手紙」「壁の風景画」「窓際に立つ、ないし窓からの光の中にいる」「地図」「ワイン」「楽器」など西洋絵画お約束の 寓意から言うと男性からの誘惑に雨霰と曝されており、 本人も籠を破って飛び出したい女性ばかりである。中には破ってしまったのもいる。

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『真珠の耳飾りの女』;フェルメール。マウリツハイス美術館/デン・ハーグ

 フランドールのモナリザ、『真珠の耳飾りの女』は文句なしに可愛い。
 先日、真珠の歴史の研究をしていて著書もあるご婦人のお話を伺ったところでは、この真珠は本物としたら大きすぎで、当時の王侯貴族 でも持っていないような代物、イミテーションと断定できるそうである。

 小さな絵(縦46.5cmx横40cm)で、展示方法も非常によろしく、この絵にふさわしい場所を得ている、といえる。  これがアムステルダムのライクス美術館のような巨大な美術館にあったのではまた一寸印象が変わるのではないかと思う。

 しかし、フェルメールの絵としてはかなり大きく(98.5cmX117.5cm=4番目)唯一の純風景画である『デルフト風景』もこの美術館にある。



 デン・ハーグは北海に近いオランダ南部のこじまりした町で、なんとオランダの首都で日本大使館もアムステルダムではなく、ここにある。
 近郊にその名前が特殊な日本語に聞こえる事から有名な歓楽地スケフェニンゲンがあり、さらに北方、ハーレムに向かう街道方面には 風車地帯と砂地を利用したチューリップの栽培地域が広がっており、季節にはこの世のものとは思えぬ景観を呈する。 チューリップ畑というのは人工の極致であるのに、自然の風景と勘違いしてしまうのが面白い。
 フェルメールが生まれて暮らしたデルフトは隣町である。



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『春』;ミレー。オルセー美術館/パリ

 オルセーに入館してすぐ、1階通路左手のミレー室奥の壁にある。(ここで言っているオルセーは改装前のオルセーである)
 虹がかかった花咲くりんご畑にただずむ一人の男、なにやら意味ありげ であるが、ただきれいな絵としての鑑賞で十分な気もする。同じ部屋に『落ち穂拾い』『晩鐘』の二大有名傑作があるのでどうしても注目はそっちで あるが、この絵にもファンは多いと思う。



 この絵はオルセーでもやはり同じ部屋に掛かっている『オノの肖像』と共に1991年甲府で開かれた『ミレー展』にやってきた。




1991年春。ミレー展で『春』の来日を告げる山梨県立美術館の掲示板。



 この絵が甲府に来るに至ったのは、勿論、甲府に『種を播く人』があるからである。  1977年、貧乏県の山梨県がこの絵を買うに至ったのは、県営水力発電所から上がる利益 の使い道として当時のお坊ちゃま知事、田辺國男氏がポンと膝を打って 「絵を買おう」 と決めたからだと言われている。 「種を播く人伝説」かも知れないが好きな話である。

『種を播く人』が甲府で初公開された時、後1983年に94歳で死んだ爺様を誘って一緒に見に行った記憶がある。 汝ら臣民に判り易い名画を見せたいという 田辺知事の目論見通り、爺様 (田辺知事ともお互い認識可能程度の面識があった)も齢90歳にして世界の名画を見ることができたのである。
『種を播く人』が甲府にあるについては誰にも文句は言わせない。

 私は、『春』を1989年アムステルダムのヴィンセント・ヴァン・ゴッホ美術館での『ミレーとゴッホ展』に来ていたのを見たことがあるので、 これもパリも含めて三箇所で見たことがある絵という事になっている。



 1989年4月。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ美術館での『ミレーとゴッホ展』における入場待ちの様子。


 山梨県立美術館には川崎小虎の良いコレクションがあるが、私も小虎の茄子の扇面を一枚持っている。


 先の大戦中に疎開していた小虎と縁あった 伯父に貰ったもので、2002年春、やはり94歳で大往生した元帝国陸軍騎兵のこの伯父のコレクションだった絵も今は大部分県立美術館に入っている。


 『木の実拾い』。県立美術館に委託されている伯父のコレクション中の傑作にして小虎の代表作。六曲一隻 154X342という大物。

 川崎小虎と言ってもまず誰も知らないが、茄子の絵を見せて、この絵はかの東山魁夷の義父 でありお師匠さん筋であった画家の絵だというとおーっと態度が変るのが面白い。
 しかし、2006年にあった『小虎・魁夷二人展』で見比べてみると二人の才能の差(結果としての作品の魅力の差)は歴然であった。

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『サン・ヴィクトワール山』;ポール・セザンヌ。オルセー美術館/パリ


 セザンヌの故郷エキス・アン・プロバンスの近くにあるこの山を、彼は繰り返し繰り返し描いている。 言ってみれば、南フランスに散らばる標高1000Mあまりの岩山の一つにすぎず、セザンヌが繰り返し 描かなかったらこんなに有名になる事もなかったであろう。






 セザンヌと言う画家は相当多作だったとみえて、日本の美術館でもかなり見かける。それも地方の美術館にポツンと一点あったりする。
 セザンヌはかなり気まぐれで怒りっぽい人で、その死因となった肺炎も御者と喧嘩したため馬車が迎えに来てくれず、雨に濡れたのが原因と言われている。
 それかあらぬか、絵もかなり気まぐれで、往々にしてキャンバスを丁寧に隅々まで塗りつぶす事をせず、端の方には 絵の具をちょっとなすっただけの部分を残した。これは今日「セザンヌの空白」として珍重されているが、 空白のある絵にも素晴らしい絵はあるものの、概してセザンヌの空白はセザンヌの手抜きに繋がっていると思う。
 そして、フランスの国立の美術館以外のところにあるセザンヌは「これは空白ではなくて手抜きだろう」と思われる物が多い。

 オルセー美術館は、謂わばセザンヌのホームグラウンドである。フランスにあるセザンヌの全部がここに集められているわけではないけれども、 フランスの国立美術館群におけるオルセー美術館の位置づけからいって、いわゆる傑作が集められている。
 そしてオルセーのセザンヌたちは決して「空白」のセザンヌばかりではないのである。私はこれらを「気合が入ったセザンヌ」と呼ぶことにしている。




 中にはこれがセザンヌ?と思わせるような厚塗りの絵もあるが、 やはりセザンヌは気合が入ろうとも薄塗りの画家で、とんでもない大作も描かなかったことから美術史上で生涯の絵の具の消費量が少なかった 画家の代表である事は間違いない。


 モネの睡蓮の大作で有名なオランジェリ美術館にも気合の入ったセザンヌが多数ある。

 
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『春』;ボッティチェルリ。ウフツィ美術館/フィレンツェ

 フィレンツェはこじんまりしてして見所がたくさんあり、食い物も美味く、酒も美味いので大好きな町である。
 そもそもフィレンツェが属するトスカーナ地方そのものが素晴らしい地域で、フランスのアルザスびいきの私であるが、 そのアルザスをトスカーナに比べられると少々たじろぐ。



 ハンニバル・レクター博士は、独房の壁に記憶だけで正確に ミケランジェロの丘からのフィレンツェ風景を描いているが、彼にとってもフィレンツェは特別な町だったに違いない。



 ウフィツィ美術館から好きな絵を一点というのも無謀な試みと言えるが、 最もフィレンツェらしい絵をとしてこの絵を挙げたい。この絵が描かれたモデルの場所もフィレンツェ郊外であるという。
 修復によって劇的に甦った絵としても有名である。

 美術館の間で目玉とも言うべき絵画を貸し借り、ないし時限金銭トレード?、する習慣があるようである。 ウフツィ美術館がこの絵を貸し出すか?、という問答があるが、まず問外不出であろうと思われる。第一、一生一度の機会でウフツィ美術館 に行って、この絵が無かったらどんなにがっかりすることであろうか?。

 ルーブルの至宝『モナリザ』は盗難にあった時を除いて過去にアメリカ/日本と二度貸し出されている。しかし、もう絶対に門外不出だそうである。

 ところで、正倉院御物は、いわれなく正倉院の外に出されたもの、典型的には盗難被害品、は二度と御物として受け入れないのだそうである。 たとえ誘拐されたのであっても一度行方不明になった娘には二度と敷居は跨がせないというわけで、ローマで無断外泊した王女様を何事も無かったように 迎えるなんぞは言語道断である。
 この主義でいくと所謂モナリザ偽物説のような、贋作帰還説などは起きようがない。

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『東方三博士の礼拝。キリストの生涯』;ジオット。スクロヴェーニ礼拝堂/パドバ(イタリア)





 キリストの生誕を描いたこの絵には馬小屋の上に彗星が描かれている。この絵が描かれたのは1304年頃とされ、描かれている彗星は1301年に回帰した ハレー彗星であるとされている。

 17世紀後半、英国人ハレーによって周期性が見出され次回回帰が予言された事からハレー彗星と名づけられたこの彗星は、 紀元前まで観測記録が遡れる76年周期の彗星で、ジオットが見た1301年の回帰は日本(鎌倉時代)にも観測(観察?)記録があるという。

 1910年の回帰では彗星の尾に地球軌道がかかる事から人類滅亡が心配されたほど接近し全天に輝いたというこの彗星、 1986年の回帰は全くの期待外れであった。 おそらく大部分の人は、自分の生涯にハレー彗星年があった事すら認識していないであろう。

 これは彗星の位置と地球の公転・自転の関係が悪かったからで、1986年にはハレー彗星が回帰して来なかったわけではない。 ヨーロッパ宇宙連合は、装甲板を付けて彗星核からの飛来物から本体を守り、可能な限り核に近づく事を狙った 観測衛星を打ち上げて彗星本体に近づき、華々しい成功を収め、肉眼では見えない 彗星に成り代わって話題となった。この観測衛星は、ジオットと名付けられた。

 ジオットが送って来た映像のハードコピー化はポラロイド社が引き受け、リアルタイムで次々と8インチX10インチという大版のカラー写真にして 報道陣に公開/配布された。これは、ジオットからのデジタル画像信号を処理してCRT上にカラー画像として投影し、 それをアナログのインスタントカラー銀塩フィルム、ポラロイド809で画面撮影したものであった。
 ポラロイド社は誇らしげに解像度と階調の再現性から、次回のハレー彗星回帰時(2061年)の映像も我が社が担当するであろう、 と高らかに勝利宣言したが、それから20年経った今考えると、2061年の彗星の姿がどんな画像プロセスで作られるのか全く見当がつかない。
 すくなくともポラロイド社のインスタント銀塩写真ではないことは確実である。ポラロイド社は2006年のポラロイドone600を最後に銀塩写真から 撤退してしまった。

 1910年のハレー彗星を除くと(来る事が判っていたのだから意外性は無い)、19世紀が突然現れた 1812年の大彗星を筆頭に、彗星に恵まれた世紀であるのに対して、20世紀は彗星不作の世紀であったと言われている。
 さて、21世紀はどうであろうか?。

 パドバはヴェネツィアから少し内陸に入ったところにある古い町で、パドバ大学というヨーロッパ屈指の古い大学がある。
 そう遠くないアドリア海に面した町ラヴェンナには、モザイク画の傑作が数多く残されており、ラヴェンナ・モザイク画ツアー まであるが、パドバには、ジオットがキリストの生涯を描いたフレスコ画群があるこのスクロヴェーニ礼拝堂くらいしか見るべきものはない。
 私がここに行った時、救急車が止まり、中からストレッチャーに乗せられ、医師と看護婦に付き添われた人が降りて来て 礼拝堂に入って来たが、「一目ジオットを見たい」という病人の望みであったのであろうか、印象的な光景であった。

 ジオットのフレスコ画はウンブリア地方のアッシジにあるサン・フランシスコ教会のものが有名であるが、同じテーマ、  「小鳥に説教する聖フランシスコ」 の絵がルーブル美術館にもある。

「小鳥に説教する聖フランシスコ」であって、小鳥に餌を与えているのではない。


 ところで、美術館展示ではない、壁画というのは高いところにあり遠いかつ暗いので、壁画鑑賞には双眼鏡は有力な武器になる。

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『ラヴェンナのモザイク画群』;ラヴェンナ(イタリア)


 アドリア海に面した古都ラヴェンナはローマ帝国分裂の際の片方の首都となり、時代下がってローマの滅亡後の5世紀半ば過ぎには 当時の先進文化国ビザンチン帝国の支配下になって、ビザンチン帝国の北イタリアにおける拠点となった歴史を持つ。

 モザイク画群の主題はキリスト教の宗教画であるが、バチカンを中心とするキリスト教文化からみると異国情緒あふれるもので、 そのパターンも色彩も素晴らしい。
 ヴェネツィアには程近いので、ヴェネツィア観光の一日をラヴェンナに割く価値は十分にある。

 左写真;ラヴェンナ市内の主なモザイク画建築巡りの入場券綴り。

サンタポリナーレ インヌオーボ 礼拝堂。     右はその部分。


左;ガルラ プラティア霊廟   真ん中;サンタアンドレア礼拝堂 美術館
右;サンタポリナーレ イングラッセ 礼拝堂。この建物だけ町の郊外にある。




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『中国の馬』;ラスコー洞窟(フランス)

 ラスコー洞窟壁画の動物の一つ。これは馬であると信じられており、どこか東洋風というところから中国の馬(シュバル シノワ)と呼ばれている。


 フランスの中央山地の南西部、ボルドーに程近いあたりの山地は近代人種の最も古い遺跡が残る地域とされており、 ラスコー洞窟はこのあたりの緩い山地にある。世界史で習うクロマニヨン人と言うのはラスコーの南西にある地名にちなんだ名前である。
 クロマニヨン人の前世代のネアンデルタール人は、ドイツのデュッセルドルフに近いネアンデルタールの谷にちなんでいる。

 ラスコーの本洞窟の前。
 厳重に囲われているが、外観はただのブッシュを載せた山の斜面に過ぎず、洞窟発見前のただずまいである。  この下にあるラスコー洞窟の本物はかびと藻からの保護のため、1963年に閉鎖され、厳重に囲われていて、 学術調査目的以外では入ることができない。
 現在観光客に公開されているのはラスコーUというラスコー洞窟の完全レプリカで、中はガイドツアーになっている。1983年にできた このレプリカの完成度は三次元的にその誤差数センチ以内と言われており、見た時の感動を含め、まあ完璧である。
 レプリカを見てもしょうがないと言うような事を言う人もいるけれど、見てからそういう事は言いなさい。と言いたい。

洞窟のレプリカ、ラスコーUの入リ口。
 レプリカとはいえ入場するには儀式みたいな手続きが必要なのである。
 このラスコーUの入場券はラスコーUの現場では売っていなくて、近くのモンテニャックと言う町の 観光協会事務所で入場時間指定の券を買うシステムになっている。このシステムは一寸意表をついており、 知らないとラスコーUの入り口で呆然とする羽目になるし、改めてモンテニャックに行ってチケットを買って来いと言われても 徒歩旅行者だと、バス便がそうある訳ではなし、目の前が暗くなるような事態である。
 私は無事だったが、後で聞くとこのラスコーUの駐車場は、フランスでも車上荒らしが多いので有名だそうなので 車の人も、停める位置などに気をつけなければならない。



 



モンテニャックの町の歩道にて。
 日本で良く見かける土地の歴史的風物の意匠のマンホールの蓋というわけではなく、純粋な装飾用のタイルである。



 それにつけても高松塚の惨状は日本国の国家的恥辱であり、責任者/関係者は万死に値する。
 2010年3月に起きた鴇のケージへのテンの侵入も同列の事件で、保護しようとする対象に愛情も任務への使命感も無い役人のおざなりの仕事の結果である。

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『接吻』;クリムト;ヴェルベデーレ宮殿内オーストリア19・20世紀美術館(ウィーン)


 左;オリジナル。右;このHPの登場人物の一人による磁器への模写。

 20世紀の末期には世紀末と言う言葉はあまり使われなかったように思うが、19世紀から20世紀に変わった時は今よりずっと大騒ぎだったらしい。
 世紀末と言う言葉自体、このときの言葉であるし、20世紀を迎えたあとは今度は20世紀という言葉が愛用されたようである。
 1904年から連載された 『我輩は猫である』でも猫が 「我輩は20世紀の猫である」 と見栄を切っている。

 ロートレックやルドンの絵画、エミール・ガレのアールヌーボー・ガラス芸術、マーラーの矢鱈長たらしい音楽などはこの時代を反映したものとされ、 世紀末芸術と称される。クリムトはウィーンの世紀末芸術の中心的存在であった。

 同時代はまた、ニュートン古典力学の限界が露(あらわ)にされ、量子力学が産声を上げ、マクスウェル、ボルツマン、レントゲン、プランク、キュリー夫妻、 ラザフォード、アインシュタインらが実際に息をし、議論していた時代でもあった。
 19世紀から20世紀への時代は、今世紀末、21世紀から22世紀になる時に振り返った時でも、おそらく20世紀から21世紀への時代より凄い時代だった と評価されるであろう。

 この20世紀初頭のウィーンにあって、一人の画家志望の青年がリンクから国会議事堂の水彩画など描いていた。
 やがて彼は才能の限界を感じ、画家を諦め建築家を志す。第一次世界大戦ではオーストリア義勇兵として参戦、優秀な兵士であったが 西部戦線で毒ガスで負傷。
 大戦後には政治家を志し、毒ガスの後遺症とも言われる迫力ある声によるその演説の才能もあって敗戦の疲弊にあえぐドイツ/オーストリア 国民の熱狂的支持を受ける。彼の名前はアドルフ・ヒトラーといった。
 さて、21世紀のアドルフ・ヒトラーは今何処で何をしているのであろうか?。

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『貴婦人と一角獣』;タペストリー;クリュイニー美術館(パリ)





 パリのカルチェラタンにあるクリュイニー美術館は中世の館と古代ローマの遺跡が融合した不思議な建築物で、 フランス国有の中世美術品美術館ということになっているが、事実上この6枚連作のタペストリー美術館である。

 このタペストリーに描かれている動物が皆可愛いのである。中でも貴婦人になついている一角獣の表情としぐさの可愛いらしさは群を抜いている。
動物の子供というのはそれが何であっても可愛いものであるが、この一角獣も子供なのであろうか?。
 一角獣がなつくご婦人は必ず 「処女」 だそうである。

 ともあれ、パリで必見の物の一つとしてこの子一角獣を上げたい。

 2013年、新国立美術館でこのタペストリー展があった。新国立美術館の展示室の巨大な空間は、本来のクリュイニー美術館に あるより似合っていた様に思う。改めて、明るく開放的な展示室でゆっくりと見てみると、6枚は相当出来が違う事に 気がついた。一番は「嗅覚」だと思う(下左)。一角獣の仕草が一番可愛い「視覚」(下右)は、あまり出来が良くない。


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『チャイルド・ハロルドの巡礼』;ターナー。テート・ギャラリー/ロンドン



 漱石が、「坊ちゃん」で述べているターナーの松というのはターナーのこの絵を指して言っているのであると私は思っている。
 1900年、世紀の変り目にロンドンに留学していた漱石の時代、死後約50年のターナーは歴史の中の巨匠ではなく、 まだ人々の記憶に新しい存在であったであろう。
 ターナーは若い頃から有名な画家であり、死んだ時には既に大家で、大量の絵を国家に寄贈しているので、漱石にとってもその絵はテート美術館か ナショナル・ギャラリーかで実際に見る機会があったに違いない。テートではプレ・ラファエロ派の絵も見たであろう。
 漱石はプレ・ラファエロ派の絵には相当ご執心であったようであるが、その理由もなんとなく理解できるような気がする。

 ターナーの松と言ってすぐ思い浮かぶのは、イタリアで描かれたあの傘のような松で、かの地では針葉樹と言えば ゴッホの絵のような糸杉とターナーの絵のような松が一般的である。

 漱石で思い浮かべる画家にはもう一人、ラファエロと同時代のフィレンツェで活躍したイタリア・ルネッサンスの巨匠、 アンドレア・デル・サルトがいる。


 美学者の迷亭が苦沙彌先生の「遠近無差別黒白平等」の絵を見かねて写生の重要さを説く時引用する画家で、中学生くらいの読者にはターナーという 単純な名前より、この呪文にも似たアンドレア・デル・サルトの方が印象に残る。
 アンドレア・デル・サルトのコレクションといえば、地元フィレンツェのウフィツィ美術館であるが、 ナショナル・ギャラリーにもあるので、漱石はそれを見たかもしれない。アンドレア・デル・サルトの 絵の前に立つと、まさか後世東洋の作家にその名前が引用されることがあるとは 思わなかったであろうと「我輩は猫である」を思い出してにんまりしてしまう。

 ところで、「坊ちゃん」は四国松山の誇りであるそうである。しかし漱石は道後温泉を除いて松山の何物も一切認めていない。
 到着した港でいきなり野蛮な所呼ばわりし、汽車はマッチ箱だし、中学生のする事には邪気があり子供のいたずらとは言えないと弾劾しているし、 最後には不浄の地とまで言い切っている。
 これは、友人や弟子であった、松山出身の子規や虚子をからかっているのであろうが、日本文学史の中で、物語の舞台をこんなに悪し様に言っている 例も珍しいと思う。逆にその悪口雑言が松山人にとって、いっそ自虐的に気持が良いのかもしれない。

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『麦わら帽子の自画像』;エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブラン。ナショナル・ギャラリー/ロンドン

 またまたマイナーな絵の登場である。
 ナショナル・ギャラリーの古典絵画の終わりの方の部屋の角に架かっている絵で、そんなに大きくないが、兎に角目立つ。

 傍らの展示カードに目をやってSelf Portraitと判ると 「おいおい」 言いたくなるくらい、美しい女性がこれでもか、と美しく描かれている。

 この女性は、マリー・アントワネットもスポンサーの一人だったというフランスの人気女性肖像画家で、革命から逃れヨーロッパを転々とするという 波瀾万丈の生涯を送ったと、ナショナル・ギャラリーのカタログは語る。
 ベルサイユ宮殿に架けられている、空の揺り籠が傍らにあるマリー・アントワネットと子供達との肖像はこのル・ブラン作である。

回想録がゴシップ小説的人気を博したというが、さもありなんと思う。

 この自画像は、当時あった女性肖像画における数々のお約束事をことごとく無視した絵画史の中で革命的なものだそうで、ナショナル・ギャラリーの コレクションとしてかなり古い時代からあり、漱石の蔵書中の20世紀初頭に刊行されたカタログ 「National Gallery Pictures」 にも図版が載っている。

 自然光溢れる屋外に身を置き、 18世紀後半の上流階級女性の常識であったコルセットや髪粉を振った鬘等様々な装備で武装していないにもかかわらず圧倒的な戦闘能力を 持った自分をアピールしている。
 そういうバックがあるにせよ、いい気な者は絵描きさん、である。


 2011年春に東京の三菱一号館美術館で 「ヴィジェ・ルブラン展」が開かれ、美しい自画像を始めとするこの画家の肖像画が展示された。失礼ながら 美術史上ではマイナーな画家であるヴィジェ・ル・ブランの絵を集めた、という意表をつく展覧会が、それも東京で開かれる、 とは思わなかったので非常に有り難く拝見した。残念な事にこの絵は来なかった。



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『22歳の自画像』;アルブリヒト・デューラー。ルーブル美術館/パリ

 美女の自画像のあとは美男の自画像で。
 自画像といえばレンブラント、ゴッホで、生涯に亘っての自画像を残しているが、このデューラーも自画像が有名な画家で、それも20代の 輝くばかりの若い時代の自画像がことのほか印象に残る画家である。


 この絵は、イタリア留学前の純朴なドイツ青年時代のもの。



『26歳の自画像』;プラド美術館。
 最初のイタリア留学から戻ったドイツ時代の絵でイタリア貴族の服装をしているとされ、 飾り職人の子で当時は平民だったデューラーにとってはコスプレ像である。

 陰鬱なアルプスの北で、南国イタリアでの留学時代の浮かれまくり、もてまくっていた あの頃を思い出しての自画像に違いないと想像させられる。

『1500年の自画像』;アルテ・ピナコテーク。ミュンヘン。


 国に帰って5年、だいぶ落ち着いてきた。画家の内面まで描いてレンブラントを思わせる。

 デューラーは美女の肖像画も残している


 二度目のベネチュア留学の際の絵。

 『若いヴェネチュア娘の肖像』;ウィーン美術史美術館

 この絵は、ウィーン美術史美術館の、数あまたの名画を差し置いて、美術館公式カタログの表紙になったことがある。


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『トレド風景』;エル・グレコ。メトロポリタン美術館/ニューヨーク



 16世紀のシュール・レアリスト、エル・グレコはギリシャ人であったそうであるが、人工都市マドリッドに遷都したばかりの スペインに渡り、旧都トレドに居を構えて多くの絵を残し、今日スペイン絵画の代表的画家に数えられている。

 トレドはマドリッドの南にある丘陵都市で、マドリッドから砂漠の中のハイウェイをひた走るバス・ツアーがある。(何年か前 事故を起こし、日本人も亡くなった。)
 トレドの街中はバスが走れる状況にないので、麓の駐車場からえっちらおっちら歩いてのガイドツアーになる。カテドラルや グレコ旧居など全部の観光が 終わっての帰り道、バスは『トレド風景』のビュー・ポイントに止って撮影タイムを呉れる。この時間の頃は万国からの 観光客も仲良くなっているので、それっとばかりにお互いに記念写真を撮りあう。

 グレコの絵と一寸角度が違うが、このビュー・ポイント以外では道路状況から駐車不可な上、木が邪魔をするので、どうしても グレコの絵の角度から見たかったら、トレドに宿泊してハイキングシューズくらいは履いて徒歩でポイントを探すしかない。

 この絵は、ニューヨークのメトロタン美術館という恐るべき美術館にある。この美術館は多くの富豪の寄付によってなっている事でも 有名で、寄贈者の名を載せた展示室が幾つもあり、時代や主義も行きつ戻りつする壮大な美術館である。
 近世日本美術のコレクションも、質量でおそらく世界一と言われている。




メトロポリタン美術館。

メトロポリタン美術館の入館証バッジ。




『ひまわり』;ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ美術館/アムステルダム

 ゴッホの絵と言えば『ひまわり』が一番有名であると思われる。


 ひまわりはゴッホにとって 「感謝」 の象徴であるそうで、ゴッホはひまわりの絵を何枚も描いている。
 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ美術館のこの『ひまわり』は、アルルにゴーギャンを迎えるために描かれたオリジナルを後にゴッホ自身が模写したもの で、生気に満ちたひまわりが描かれている、オリジナルが描かれたプロバンスの8月はひまわりの花のシーズンである。

 バブル時代、安田生命が50億円以上を投じて『ひまわり』の一枚を購入し、さらに東海地方の某製紙会社のオーナー社長がそれぞれ 100億円以上をはたいてゴッホの『医師ガシェ先生の肖像』とルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を購入した。

『ひまわり』;ゴッホ

左;ゴッホ美術館蔵。右;安田生命購入;画像=NETから拝借

『ガシェ先生の肖像』;ゴッホ

左;オルセー美術館蔵。右;斎藤某氏購入;画像=NETから拝借

『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』;ルノワール

左;オルセー美術館蔵。右;斎藤某氏購入;画像=NETから拝借

 このときのマスコミの論調は揃って、良くやったではなく、非難、それもバッシングであった。
 バッシングの理由が急に金持ちになった日本の成金趣味の現れであり、国恥であるという主旨であった、

 これは絶対におかしい。

 芸術作品というのは、金か暴力を含む力があるところに集まるものである。現在世界にその名を轟かせる大美術館で、個人ないし王室(国家) の財力か武力を含む力で収蔵品をかき集めたのではない美術館というのは殆ど皆無と言って良い。
 大英博物館は大英帝国の武力をバックにした強盗博物館であるし、ルーブル美術館もしかりである。マドリッドのプラド美術館は意外や(失礼!!) 所蔵品の全部に対価を払っており、盗品や強奪品は無いそうであるが、その対価は、インカ帝国の滅亡に及ぶかもしれないし、 スペイン王家によるネーデルランドなどの外国を含む庶民搾取の結果の富である事は間違いない。
 ちなみにスペイン人はインカ帝国を滅ぼした事を反省していない。マドリッド市内にあるインカの地名や皇帝の名前をつけた広場や通りや建物を みればそれが判る。このセンスは一寸理解に苦しむ。  日比谷公園を真珠湾公園、ホワイトハウス前の通りを AVENUE HIROSHIMA と名づけるようなものである。
 また、フランス人はナポレオンの対外遠征を反省していない。コンコルド広場にあるオベリスクをエジプトからナポレオンへの贈り物である、 という話を素朴に信じているふしがある。

 アメリカとなると時代の差もあって、流石に露骨な砲艦収集はやってないが、幕末の日本美術品収集などはこれに近い。また前述の通り、 メトロポリタン美術館は、複数のアメリカの大富豪による美術品コレクションの集大成、と言う性格が強いし、 アメリカやヨーロッパには、今尚個人がとんでもない名品を大美術館規模で所蔵している例が少なくない。

 国立西洋美術館も川崎造船の社長であった松方幸次郎が第一次世界大戦終了後の1916年から造船景気の中、1927年に金融恐慌で破滅するまでの10年間に 3千万円というあぶく銭を美術品の収集に注ぎ込んだ結果である。松方自身は単なる美術愛好家で美術に深い造詣がある訳では無かったが、 ブレーンの力を借りてとんでもないコレクションを築き上げた。
 オリジナルの松方コレクションは、現在国立西洋美術館に所蔵されているものよりはるかに巨大であったが、金融恐慌による破滅の時の散逸、 火事による喪失、敗戦による戦利品としての召し上げられ、等で現在の規模になっている。

 その意味で、現代の日本の成金であろうがなんであろうが、可処分所得の大きな人が世界中から芸術品を集めるのは良い事であり、 大いにやって欲しいところである。金メッキしたフェラーリやポルシェを集めるよりずっと世の為人の為になる。
 ただし、その収集品を公開しない個人蔵としたり、死んだ後棺桶に入れたりされるのは困る。

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『オーベール・シュル・オワーズの教会』;ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。オルセー美術館/パリ

 ゴッホが命を絶ったオーベール・シュル・オワーズはパリの近郊西にあり、フランスの不思議であるが、今でも一農村である。
 パリの南にある印象派画家の村、バルビゾンもパリから1時間くらい、自身世界的に有名な地名でかつフォンテーヌブローという森とお城の  一大観光地のそばで、かつ、村にも観光客が殺到しながら今でもなんとか 「農村」 に踏み留まっている。 ポルシェの販売店があったりするが、村全体が民宿とみやげ物屋になっているなどと言う事はない。


 フォンテーヌブロー城。馬蹄形の階段。
 臣下に別れの手を振るナポレオン。 の気分の観光客。

 オーベール・シュル・オワーズ教会は道路に囲まれた小さな村の教会にすぎず、本陣の後方からの構図のこの絵と同じ写真を撮ろうとすると、 道路の反対側の家の壁にくっついて、24ミリの広角レンズで一杯に引かなければならない。




 1890年7月27日、ゴッホはピストル事件の2日後、この下宿の 二階の奥まった部屋で息を引き取った。

 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが生存中に売れた絵は1枚だけ、ゴッホはその生活の全てを兄の天才を信じた弟のテオに支えて貰っていた。
 生前にゴッホの絵が売れなかったのは、周囲の意見や説得に背を向けて、絵を世に受けて売れるように描かなかったからだそうである。
 しかし、『じゃが芋食い』は確かに欲しいとは思わない絵であるが、ゴッホの年代記に云う「アルル時代」 「サン・レミ時代」の絵が当時受けず、 値段はともかく売れもしなかったというのは理解に苦しむ。



『収穫』;ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ美術館

 例えば、この『収穫』が当時の人に受け入れられなかったというのは一体どういうことであろうか?。
 「ここには全ての色が揃っている」という南仏プロバンスの6月麦秋の風景を前にしてのゴッホの会心作であると思う。




 そのゴッホはオーベール・シュル・オワーズの村はずれの墓地にテオと共に眠っている。
 ヴァンサン・ゴーとしてフランスに眠る、である。

 テオは、ゴッホの翌年の1891年、オランダのユトリヒトで亡くなった。テオの墓は死後かなり経ってから、兄ヴィンセントの 墓の隣に移された。こうしてヴィンセントは死後もテオに守られている。


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『大使達』;ホルバイン。ナショナルギャラリー/ロンドン

 ロンドンのナショナル・ギャラリーにあるこの絵は1990年代半ばに修復中として引っ込められたまま長い間再公開されず、 修復に失敗して台無しにしてしまったのだと言うような噂がまことしやかに流された。
 絵の修復と言うのは具体的にどうするのかについては想像を絶する作業であるが、数百年単位の話なのでほったらかしたらひび割れが生ずるし、 上塗りのニスや絵の具そのものもくすんだりするし、壁画などはほこりやヤニ類が付着するであろうので、 修復作業が必要であることは理解できる。 バチカンのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの壁画は修復により劇的に色彩を取り戻したが、修復部分のあまりの鮮やかさに 修復と称して着色したのだろうという疑念も呈された。
 それはともかく、『大使達』は其の後無事ギャラリーに帰還し、公開されている。

 ホルバインのこの絵は二人の外交官の肖像と言う他に、他に実にさまざまなものが描かれていて静物画の様相も呈している。 特に二人の足元にある謎の物体が有名である。この物体はデフォルメされた頭蓋骨で、角度を調整するとこんな感じに見える。


 画像処理ソフトで変形してみた足元の物体。



 ホルバインは多作の画家ではなく、その絵をあんまり見る機会がないが、意外やスイスのバーゼル市立美術館に大変結構なホルバインの コレクションがある。確かバーゼルはホルバインゆかりの地というような解説であったが、記憶が定かでない。
 バーゼル市立美術館は世界最初の市民による市民のための美術館というような解説もあったような気がするがこれも定かではない。
 私はこの美術館で、脱いで手に持っていた皮ジャンパーを、それでは展示物に当る恐れがあるから着ているようにと監視員に注意されたと いう経験がある。よほど場違いの東洋からの野蕃人に見えたに違いない。


 それはともかく、このバーゼル市立美術館はスイスの田舎美術館と侮れない凄い数と質の所蔵品を持つ美術館である。 しかし、日本からのスイス観光でバーゼルを組み入れるということはまず無いであろうから、この美術館や、もう一つ歴史が 古いので有名なバーゼル動物園も訪れる機会というのはもう無いであろう。

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妄想の絵画たち

 絵画には随分刺激的なものや、描かれているその先、その前をつい妄想してしまうものがある。

かわいそうな絵。

『こわれた瓶』;ジャン・パティスト・グルーズ;ルーブル美術館。

 お約束で右腕の瓶;水差しには穴が明いており、山ほどの花びらを抱えているが、そんなものがなくてもこの 姿と表情を見れば、落花狼藉、何が起きたか判ろうと言うもの。
 どうみても 「合意であっても犯罪」 のお年頃、かわいそうな絵である。


くすぐったくなる絵。

『ガブルエル・テストレとその姉妹』;作者不詳;ルーブル美術館

 フォンテーヌブロー派と呼ばれる絵画の代表作である。画面右側にいる女性はガブリエル・テストレはフランス王アンリW世の愛人で、乳首をつまむというしぐさはこの女性の ご懐妊を表しているのだという。アンリW世は現代フランスでも人気のある王様の一人であるが、その寵妾の肖像を描いた画家の氏素性が 不明というのも興味深い。フランスにおいては当時画家は職人扱いで名を残すほどの身分の者では無かったと言う事であろうか。




かなり無茶な絵。

『かんぬき』;ジャン・オノレ・フラゴナール;ルーブル美術館。

『かんぬき』と題されたこの絵、これでは監禁罪であり、其の後に別の犯罪が重ねられた事は明白である。
 女性の表情では半合意であると推測されるが、随分と大胆な状況と構図であり、美術史に他に例を見ないのではないかと思われる。
 フラゴナールと云う画家はこの種の絵が得意であったらしく、この絵の続編ともとれる『奪われた下着』や、胸が透けて見える 若い女が興味津々の、あんまり上品とは言えない表情でこちらを覗いている絵というのもある。
 これらの絵はそれなりの大きさのルーブルの画集なら掲載されているので図書館などで是非一見の程を願いたい。




事後の絵1。

『ヴィーナスとマルス』;ボッティチェリ;ナショナル・ギャラリー

 カタログの解説によると、とある行為のあと消耗し尽くして眠りこける戦いの神マルスの姿だそうである。

 相手の愛の神ヴィーナスは涼しい顔をしている。




事後の絵2。

『?』?;ルーブル美術館

 上記とは逆の状況である。

 おそらく、神話中の人間の王女とキューピットの恋の物語を主題にしている。
 キューピットは王女の前では人間と言う事になっているので、キューピットである事をさとられないように頑張らなくてはならない。
 ところがある日、戦いが過ぎてつい寝入ったキューピットは正体を見られて・・・、と云う騒動になる。




クールベの有名な絵。


『世界の起源』;ギュスターブ・クールベ;オルセー美術館。

 オルセーでは『画家のアトリエ』の並びで右側、窓に近いほうにさりげなく掲げてある。別に18禁ではない。

 中東方面の紳士の注文に応じたものと言われており、その紳士の下ではカーテンで隠され18禁であったらしい。
 どんな絵であるかは、ここでも18禁とするので、オルセー美術館の画集にあたって頂きたい。絶対に載っています。



この絵はその隣にある『裸婦と子犬』。


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別の妄想を駆る美術品

 絵画(彫刻)の中にはまた、見る者に別種の妄想を生起させ、その絵への暴力的襲撃を誘う物がある。
 しかも襲撃は偶発ではなく、特定して狙われ、中には繰り返し受難にあう絵(芸術作品)もある。

美しすぎて

『ピエタ』;ミケランジェロ;サンピエトロ寺院(バチカン)

 ミケランジェロ24歳の出世作。完璧な美しさゆえ、むらむらと湧く衝動からハンマーで襲撃したりする輩から身を守るため 今では防弾ガラスに囲まれている。

 沢木耕太郎が『深夜特急』の中で 「たった24歳でこんなものを作ってしまうとは、いやはや天才というものは度し難い、」と感嘆しているが、 この感嘆は、暴力的衝動と紙一重と感ずるのは考えすぎというものであろうか?。

 暴力的衝動ではないが、広隆寺の弥勒菩薩像はその美しさに魅せられた若者に言い寄られた際、小指を折られるという受難にあっている。




政治的な、あまりに政治的な

『ゲルニカ』;パブロ・ピカソ;ソフィア王妃芸術センター(マドリッド)

 無条件に戦争に憎み、平和を祈る絵と評価されているが、この絵に反感を持ち、襲撃するという脅迫が絶えないのは、 反戦の象徴として戦争大好き人間と軍需産業の回し者が恐れている絵だからというわけではない。



 2000人の死者のゲルニカと200000人、300000人の東京、広島、ドレスデンを比べてもしょうがないけれど、 無差別爆撃が犯罪ならドイツコンドル軍団より米英の方が遥かに重大な犯罪者である。 カーチス・ルメイと彼の行為を許した政治家たちとそれを選んだ国民はこの絵の前に立ってはならない。

 ピカソが嫌いぬいたフランコは結果としてスペインを米英によるもっと大規模な破壊と殺戮から守ったと言える。
 もし、ピカソが、そしてカザルスが、ヘミングウェイが、キャパが大好きだった人民戦線が政権を握ったままであったなら、 1940年月6月の時点で、ヒトラーはスペインを放置しておかなかったであろうし、 もし、1940年10月、フランコが腹芸でヒトラーと渉りあい、枢軸国として戦闘に参加することを断らなかったら、結局ドイツ軍の スペイン進駐(占領)を許し、いずれにせよ1945年春には米英軍による野蛮な砲爆撃による無差別破壊殺戮がマドリッド、バルセロナ、ビルバオを 襲ったであろう。
 この絵の背後には、南京300000人大虐殺説に通ずるピカソの濃厚な政治的意図を感ずる。ピカソは上半身裸の無邪気な助平親爺 の顔だけではない。

 ソフィア王妃芸術センターにおけるこの絵は赤外線の網に囲まれており、常時複数の武装した警備員が付いている。平和を守るのは かくも大変である。



見るのも嫌になる貧しさ

『じゃがいもを食う家族』;ゴッホ;ゴッホ美術館(アムステルダム)

 新大陸からもたらされたじゃがいもは中部・北部ヨーロッパを飢餓から救った。
 この絵は、たった150年前に、じゃがいもで命を繋ぐオランダの農民を描いている。

 パリに出る前のいわゆるオランダ時代のゴッホの絵はこういった色調で気が滅入るような主題が多いので、 入館してしばらくこの時代の絵が連続するゴッホ美術館ではバチカンのピエタとは正反対の理由から 暴力的衝動に駆られる輩が現れる。

 いいかげんにしてくれ。




可愛さあまって

『フォルナリーナ』;伝ラファエロ;イタリア国立絵画館(ローマ)

 ラファエロ作ともいやそうではないとも言われる絵であるが、モデルはフォルナリーナと言うラファエロの愛人であった女性である と言う事になっている。
左腕の腕輪にはウルヴィーノのラファエロと書かれているのだそうである。
 この絵は、ローマッ子のアイドルで、様々なコスプレのモデルになる人気者であるが、それだけに可愛さあまってよからぬ行為に 出る者もおり、赤外線監視されている。




 腕輪の文字を読もうと絵に近づきすぎて警報を鳴らしてしまい、衝撃から立ち直れない観光客。
 すっ飛んできた警備員は、呆然としている観光客を特に犯罪者扱いする事は無く、 「近づきすぎないように」 と取って支障ないようなイタリア語の注意を 与えたのみであったが、警報の大音響は肝を潰すに十分で、マジノ要塞のツアーでパフォーマンスとしてやる毒ガス警報並みである。





 ウンブリアの坂道の町ウルヴィーノはラファエロの生誕地。生家は博物館になっている。

 ウルヴィーノの公園のラファエロ像前に立つ観光客。




あまりに開放的だから?

『夜警』;レンブラント;ライクス国立美術館(アムステルダム)

 レンブラントの大作で、描かれている人物は殆ど等身大である。
 しかもその人物の年齢風体性別が豊富、表情やしぐさの表現も千差万別と言う事で見ていて飽きないと言う点でも凄い絵である。
 あの真ん中の少女は何故ニワトリをぶら下げているのか、だけでも小一時間は語りあえそうである。




 博物館というのは、大抵立体の迷路で、館内地図がないと中を歩くのもままならない。
 ルーブル美術館などは地図があっても、お目当てを細かく当っていくのはかなり難しいし、途中で嫌になりめげそうになる。

 その点、ライクス美術館は入場すると広々としたホールがあり、そのホールから直角に大通路が遥か彼方の『夜警』に向かって伸びている。
 即ち、ライクスで『夜警』を探すには遠距離視力以外必要ではない。



『夜警』も暴力的襲撃対象になる絵であるが、絵を見ていて何故そうなのか判らない。 もしかすると、非常に有名でかつ大きな絵でありながら、非常に判り易い所、言い換えると絵の前まで行き着き 易い所にあるというのも理由になっていないであろうか?。




襲われてからでは遅すぎる

『叫び』;ムンク;ノルウェー国立美術館(オスロ)

 誰でも知っている有名な絵を美術館から盗むと言う行為の目的は、その絵が 時価何百億円しようとも絶対に売れないことから盗賊自身の単純な金目当てではない事がわかる。 大体は、とてつもない金持ちが自分で秘蔵するために美術品窃盗団を雇うということらしい。この種の盗難に会うと、絵は絶対に出てこない。
 その意味では持ち運べる位のサイズの絵は全て危ない事になり、安全なのは『カナの婚礼』 や『ナポレオン妃の戴冠式』クラスの絵だけと言う事になる。
『モナリザ』などは一番危ない。 実際『モナリザ』の警備はおそらく世界中の絵の中で一番厳重であろう。





 この『叫び』は1994年に盗難に遭ったがすぐ無傷で戻った。この写真は1998年5月時点でのムンク作品の展示。

 別の美術館(ムンク美術館/オスロ)の『叫び』も盗まれるなど言う事は全く考えていなかったとされ、白昼堂々と武装強盗団 によって強奪された。幸いスポンサーがあっての強盗団ではなかったらしく絵は出てきたが、 かわいそうにもかなり手荒な扱いを受けたらしく重傷を負っていた。手厚い看護(修復)の末、2008年5月公開された。





美術品盗難の象徴

『印象;日の出』;クロード・モネ;マルモッタン美術館(パリ)

 セーヌ河口の漁村(敢えて)、オンフルールの日の出を描いたこの絵は『印象派』という言葉の元となった有名な絵であるが、 1985年に、やはり強盗団に白昼強強奪されて、世に誰もが知る美術史上の傑作が美術館から盗まれる、 と云うことがありうるということを知らしめた。
 この絵を強奪した犯人は、このあと日本で銀行強盗をやって足がつき、『印象;日の出』も発見され元に戻った。
 幸いにもスポンサーがあってのものではなく、自主的な強奪であったようで、隠れ家に隠匿されていただけであった。



 マルモッタン美術館はロンシャンの森に近い街の一角にあるこじんまりした美術館であるが、マネ、モネ、モリゾのコレクションは 素晴らしく、特にベルト・モリゾの魅力探求はマルモッタンを訪れてこそ完成する。




あまりになまめかしく

『鏡を見るヴィーナス』;べラスケス;ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

 現存するベラスケス唯一の裸体画である。宮廷画家ベラスケスはそうおいそれとは裸体画は描けない。この絵は一時宮廷を離れてイタリア遊学中に 描いたものと言われている。

 政治的意図などまったく感じられないこの絵は、裸体画を女性蔑視の象徴と考える女権拡張論者に よって、おしりを切られた事がある。

 それこそ「ごまん」とある裸体画、その中にはもっと女性蔑視の絵もたくさんあるのに、ベラスケス唯一のヌードを 選ぶとは、なかなか目の高い暴漢である。





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