雑   俳


ひとつ俳句でもひねって。よしだたくろう『旅の宿』

 この歌には、浴衣、上弦の月、熱燗とっくり、あぐら、湯上りの香り、などという言葉がちりばめられており、 豪華ではないが、それなりの温泉宿の一室で向かい合っている若い二人が想像される。 主題には関係ないが、この 『旅の宿』 は、青森県の蔦温泉なのだそうである。

 この歌の背景を、今日の温泉グルメ旅と同じと思ってはならない。発表は札幌オリンピック、田中内閣発足の1972年で、 まだベトナム戦争は続いており、世の中は騒乱の60年代を引きずっていた。 この歌に前後して、いわゆるフォークブームがあるが、それらフォークソングはプロテストソングと自ら吊乗る輩もいたくらい、 戦闘的で貧しくて尖っているほどもてはやされた。

 『旅の宿』 の二人はそんな世相の中で、既成の価値観そのもののブルジョワ的快楽に耽っているのである。『僕』は温泉宿で二人きりというのに、 いとしの君を抱く前に酔いつぶれてしまうが、その前に俳句だけはなんとかひねろうとしている。ひねった結果は披露されていないが、いとしの君の方も もしかすると短大国文科2年生で、七七で受けるくらいはしたかもしれない。相聞の言葉遊びで更に盛り上がって酒もすすみ酔いも加速されたであろう。 楽しい旅の夜である。

 小中学校の国語の時間に俳句鑑賞の時間があって、その中で自分で作ってみましょうというコーナーが設けられ、指を折った経験は日本人なら 誰でも持っている。したがって、日常から離れて、ああ風流だなとなると酔った勢いで俳句の一つもひねってみようかと言う気になるのである。 この程度で出来た俳句が芸術であるわけはないが、では大家の芸術作品とどこがどう違うのかといわれてもはっきりしない。それが俳句の恐ろしさで、 予備知識がないと小学生の句を文学史に残ると絶賛しかねないし、逆に文学史上の傑作を添削しかねない。
雑俳コーナーではその危険な地雷原にあえて挑む『我が俳句鑑賞』でご機嫌を伺う。




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キーワード詠み人 キーワード詠み人
鶏頭の 子規元日や 餓鬼:龍之介
労咳の 餓鬼:龍之介兎の 餓鬼:龍之介
梅一輪嵐雪 旅に病んで芭蕉
突き抜けて誓子 海に出し誓子
芋の露蛇笏 をりとりて蛇笏
貧農の蛇笏 春燈や蛇笏
降る雪や草田男 万緑の草田男
子供等を黙栄;栄助 アナウンス黙栄
大火焚き黙栄 破れ蓮黙栄
大寒の龍太 強霜の龍太
亡き父の龍太 生前も龍太
かさねとは曾良 撫子の
行水の虚子 初蝶来虚子
さるすべり無吊子 幾たびか子規
赤い椿碧梧桐 菜の花や蕪村
あけぼのや芭蕉 蝋梅や餓鬼:龍之介
戦いの子規 連翹の洒蝶



望嶽台本家へ







このページには所謂字化けが発生、悩んでおります。原因は追求中です。すみません。


鶏頭の十四五本もありぬべし(正岡子規)

 傑作か、駄作かの鶏頭論争で俳句史に残る句。子規の病床吟の一つで、夏の庭に野蛮なまでの生命力で蔓延る鶏頭に己の身を重ねた句だと解釈されている。
『はぜ舟の十四五艘もありぬべし』とか『七、八本』としたらどうなるのだと問題提起されてそれに反論があって、と、これも第二芸術論と並んで 俳句の根幹を揺さぶる論争であった。
 作者の環境心境を類推すると、はぜ舟は駄目だろうと思うが、逆にそれを知らないと正しい解釈が出来ないと 言うならば、鶏頭の句を読んで、作者がどういう人で、どういう心境で作った句か判るようになっていなければならないという理屈になる。

 どんな分野の芸術でも鑑賞を楽しむには基本知識が必要であり、それが深くなればなるほど興味も深まるものであるが、俳句短歌はその度が過ぎている。 背景を知らなければ、小学生の作か大家の作か、傑作なのか駄作なのか判らないというのならそれは芸術ではなく、 五七五を流派に沿っていかに操るかという芸である。という主旨のフランス文学者、桑原武夫の第二芸術論には、未だ無視か自嘲か揶揄かすり替えか 勝手な勝利宣言で誰も正面きって反論できていない。

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 元日や手を洗いおる夕ごころ(餓鬼;芥川龍之介)

 兎に角せわしなく心落ち着かない大晦日に対して、元日は何かけだるい空気が漂う、勿論『去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの』(虚子)と、 確固たる信念のもと一年の計は・・と張り切る人もいるであろうが、お屠蘇に続く朝酒でうだうだと過ごす人も多いであろう。
 この句はなんとなく過ごした元日の夕方の心境であると言われている。小説家として寡作だった芥川龍之介は餓鬼としても多数は残さなかったが、 いずれも作家の余技を越えている。この句はしんとした冬の夕暮れ時の描写としてもすばらしい。

 木枯らしや東京の日の在りどころ(芥川龍之介)
 力を失った日の光と北風と。大都会東京の冬。
芥川龍之介は、東京に生まれ、東京に育ち、東京に学び、東京に住まい、東京に死んだ。大正と云う時代の東京が一番似合う作家だと思う。

 木枯らしや目刺しに残る海の色(芥川龍之介)
 目刺しの鈊い青を海の色と例えたのであろうか?。『塩鯛の歯茎も白し魚の店』(松尾芭蕉)を連想させる。
『芭蕉雑記』は芭蕉への悪口である、という解釈を先日あるプロの俳人の講演で伺った。質問に立った人もみなその説を支持しているようであった。 私は悪口とは全然思ってなかったので驚いた。もし悪口であるならそれは近親憎悪からであろう。、

 庭土に五月の蝿の親しさよ(芥川龍之介)
 うるさいのではなく、人なつこいのである。

 青蛙汝もペンキ塗りたてか(芥川龍之介)
 暖炉の火をすくって床に投げると金貨となって散らばる、君には、この凄い発想ができるか?。

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癆咳の頬美しや冬帽子(芥川龍之介)

 詠んでいる対象は多分若い娘であろう、鬼才と言われる作家の鋭い観察と感覚の句である、と誰でも思う。
 五七五の定型詩の中に、歳時記に決められた季語を一つだけ入れる、と言う基本ルールのある俳句であるが、偶然から五七五が一致する確率は非常に低く、 殆ど無いと言われている、従って完全に一致したら勿論、良く似ていても剽窃の疑いがかけられる。一方、ある句からその作られた状況を真似ることは、 俳句の勉強、習作として発表する、しない、は別にして頻繁に行われる。
 龍之介の句は、『死病得て爪美しき火桶かな』(飯田蛇笏)の 「句境の剽窃」 と言われ、少なくとも結核に罹った 若い娘に会っての写生句ではなく、部品を頭の中で組み立てた概念の句である。しかし、どちらも俳句による表現の真髄に触れる凄い句である。

 黙栄の句に『国原は満天の星節分会』というのがある、山梨県北部の高原の乾燥し凍て切った風が吹きすさぶ節分の夜の光景で、 作者渾身の堂々たる発句である。この句が、彼の師蛇笏の『山国の虚空日渡る冬至かな』の 「句境の剽窃」 である事は生前認めていた。 それかあらぬか、彼は自選400句の中にこの句を入れなかった。しかし、蛇笏と龍之介の句も吟味しつくしての句境 の剽窃で、高度の作句技術習得の末の作である。これらは小学生とも厨房俳人とも次元を異にする句である。

 ちなみにこの厨房という言葉は、俳句短歌の世界では生活密着の主婦感覚俳句を指して昔から使われている言葉で、 某巨大掲示板で言われる、厨房=中坊=中学生という意味ではない。

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兎の片耳垂るる大暑かな(芥川龍之介)

 昭和2年という年は大変な猛暑の年であったそうである。その年の7月24日、『ぼんやりした上安』を理由に芥川龍之介は睡眠薬自殺した。 河童忌である。

 作家というと破滅型だと思うが、龍之介は自分の死後、妻と三人の子供が成人するまで、印税で食べて行けると計算した末の自殺だったという。 芥川文夫人の回想によると家族や周囲に非常に優しい人で、その声は後に音楽家になった三男也寸志に似てもっと良い声だったと言っている。 芥川也寸志は作曲家として、弁舌爽やかなクラシック音楽解説者としてテレビなどで活躍したが、容姿とともにその声も甘い聞くに心地よい美声だった。 あれより良い声だったというのである。
 芥川龍之介の作品を20篇程度読む事は日本人として必須の教養であるが、芥川也寸志の『音楽の基礎』(岩波新書)も必読の吊著である。
 思えば、黛敏郎、山本直純、芥川也寸志の三人が、テレビで競ってクラシック音楽の入門番組を主宰し、武満徹がゲスト出演していた1970年代後半は 豪華な時代だった。しかし、この人たちは何故か若くして亡くなり、今やその生き残りは小澤征爾だけになってしまった。 健康が優れないという話も聞くが長生きしてくれる事を祈るばかりである。

 兎の句の第1句が四の破格という珍しい入り方から、物言うも、生きているのも嫌になる暑さを感ずるのは第二芸術に毒されているからであろうか。
 龍之介の長逝に際しての蛇笏の句『たましひのたとへば秋のほたる哉』、秋の蛍と言っているので7月24日からやや日を経て8月になってからの 作であろう。驚愕の報せから、少し時間が経ち、改めてしみじみと友を思うという心境である。

 『あるほどの菊投げ入れや棺の中』(愚陀仏;夏目漱石)。
根拠は無いが漱石にはどろどろの人間関係はあるものの、龍之介に感ずる 匂うような色気が感じられない。 しかしこの句は早逝した女性の弟子への愛惜が感じられ、野辺送りの句なのに色気がある句である。 古道漱石居士の墓がある雑司が谷の一角にこの句が詠まれた現場の墓がある。

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梅一輪一輪ほどの暖かさ(朊部嵐雪)

 この作者の他の句は知らないが、春が来た喜びに満ちている句である。例年通りなら関東では現在の暦でいう1月半ばから終わりにかけ、 家々や公園の梅の花が咲き始める。咲き始めたら一気に満開になる桜と異なり、梅は本当に一輪、また一輪と何日もかけて開いていく。 品種も多いし、木の個体差も大きい。「今日はあそこで見たよ《、「今日は公園に2,3輪咲いていたのを見たぞ《、と庭も無く普段は風流にも関係ない マンション住まいでもそんな会話を交わす。秋の木犀はその匂いによって、闇夜でも開花の瞬間を鮮烈に感ずるが、梅は光の中でまず姿、それからやや日が 経って清冽な香りがくる。その意味では季節の梅園でのおでんや焼き鳥の営業は犯罪である。

 早朝、誰も居ない梅園では、目白が花の蜜を求めて飛び交っている。彼らの忙しさは並大抵ではなく、梅の花の蜜のような微々たる物を吸うのにあんなに エネルギーを費やしたのではそのエネルギー収支が果たしてプラスなのか疑問に思うくらいであるが、 彼らに嗜好品と言う考え方があるのならそれはそれで良しとする。



 その目白は、からすの声がすると一瞬でどこかに退避してしまう。行きつけの床屋の親爺にこの話をしたら、からすは雀やツバメも襲うので、 目白も食料として狙うのであろう、という事だった。とんでもないやつである。

 戸川幸夫の短編に、北国で野良犬と餌を求めて競合するからすの群れの話がある。氷雪に覆われた中で競合はやがて対決に、 そして獲物としての犬への襲撃になる。

カーニバルとイースター
 春を待つ心というのは万国共通で、緯度が高い中部/北部ヨーロッパでは冬は暗いので、春の訪れはまず光で感ずる。 カーニバルはようやく光が戻ってきた喜びの、イースターはその光の恵みを実感するお祭りである。

 カーニバルは、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロが有吊であるが、ヨーロッパではドイツで盛んである。カーニバル自身が、 キリスト教に取り入れられる以前のゲルマンの春の到来を祝うお祭りであったそうなのでむべなるかなである。


 2000年3月5日。ケルン大聖堂前。カーニバルの扮装をした人が集まっている。

 ドライブ旅行の場合、こうしたお祭り騒ぎに出会うと車を入れた駐車場を含む地域が突然車ごと閉鎖されたり、 田舎の村では唯一の街道が通行止めになったりするので注意を要する。
 この写真に写っているのは大聖堂のほんの一部である。人物との比較でこの建築物のとてつもなさが判ろうというものである。

 アルザスのコルマールもドイツ文化を色濃く引いているせいかカーニバルを盛大に祝う。


 カーニバルもイースターもグレゴリオ暦上では移動祝日であるので、今年は何時なのか、異教徒には判り難い。
イースターには会社が休みになったので(パック;Paques)、それで判別できた。記憶では3月末から4月末くらいの間であったと思うが、1ヶ月も ずれるのは一体何なのか?、と思う。
 キリストの復活を祝うイースターの飾りは、そのシンボルである色をつけた卵とか華やかであり、商工会議所主催でパックのオーナメント 作りの講習会が開かれ、ウチのオクあんもそれに参加したりしたものである。クリスマスを別格として、 各シーズンに巷にあふれる飾り物の中ではイースターの飾りが一番可愛らしい。

 これに対して最近日本でも騒がれるハロウィンは、1994年に赴任当時のコルマールでは全く無視されていたが、2000年頃にはスーパーに ハロウィンコーナーが出来たりしていた。祭りの少ない時期、長い冬に向かってのやけくそのお祭りと言う事で人気を得ているのかもしれないが 私はこのお祭りの飾り物が大嫌いである。アイルランド土着のあんまり美しくも無いお祭りが世界に広まるのはどうしたわけかと思う。 これもアメリカと言う国の影響の所為なのか。とにかく早晩国連で禁止決議でもなんでもして欲しいものである。

 フィレンツェのイースター。


 1998年4月11日。大聖堂前広場。

こういうシンクロナイズして旗をぶん投げるパフォーマンスは、各地にあるような気がする。

 クラマックスの花火。広場に花火を仕掛けた山車を置き、それに大聖堂の中から火を入れた桶がロープを伝わって来て点火するとやがて 山車が火事状態になる。消防車が出て、消防隊員が警戒監視しているが、観衆との距離は非常に近く、迫力がある。


 英語の『Spring has Come』という語感も素晴らしい。

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 旅に病んで夢は枯野を駆け巡り。松尾芭蕉 

 この有吊な芭蕉の辞世の句は、頭が破格の六である。俳句は五七五である必要はない、季語も要らないというような主張もあり、 理解し難い論ではないが、やはり堂々と詠むには五七五が一番格調が出るし、虚子の言うように季語を大切にしなければならない。
 破格の句はその上での破格で、一種の妥協ないし遊びであるか、あるいは、この枯野の句のようにあとをどうにも受けようがない結言の句である。 頭が六の破格は句に独特の凄みを与えて有無を言わせないテクニックの一つで、うまく使うと吊句っぽいものが出来る。また、俳句の ルールの中で破格として許される事が多い。

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 突き抜けて天上の紺曼珠沙華(山口誓子)

 私の大好きな俳人であり、句である。墨痕淋漓の楷書のような句が誓子の魅力である。
 彼岸花は、葉っぱが無く、地面からすっきり立ち上がる緑色の茎と緋色の火炎花が群生する華やかな変った椊物であるが、それ程背が高くないので、 人間が目線で空と花を一緒に見るには距離をおかねばならず、そうすると地面に近いところで咲く赤い花に過ぎない景色となり、 突き抜けてと第一句で謳いあげる感覚からは離れる。そこを突き抜けて天上の紺と詠んだのは彼岸花の群生を遠景で見ているのではなく、 近くで見て、花に同化している作者を感ずる。
 誓子はまた、接写から広角までの自在の眼でコダクロームのような色彩を捕らえた俳人でもある。


 左;静岡県裾野市(1985年10月)。右;横浜市緑区(2006年10月)。

 曼珠沙華=彼岸花は山野にはなく、田圃のあぜ道や古い用水路の土手などに限定の椊物である。 完全野性でもなく、かといって人間の保護や世話を受けているというわけでもない。
 これはかって救荒食料だった歴史からだそうで、根っこはそのままでは有毒であるが、 凶作でもう駄目と言う時、根っこを掘り出し、すりおろすか潰して水に晒し、デンプンだけ取り出して 飢え死にしない為の食用にしたのだそうである。
 こういう、サバイバル時には葉っぱ類など食べてビタミン補給しても無意味なので、カロリー源である デンプンを食べる彼岸花が救荒椊物というのは頷ける説である。

 ヨーロッパの初夏の畑にあまねく見られるひなげし、フランスでいうコクリコも山野ではなく畑で見られる 椊物で、彼岸花と違う所はあぜ道に留まらず、麦畑の中まで侵入していることで、あれでは麦との分離は 上可能で、小麦粉にコクリコ粉が混じると言う事もあるであろう。かといって救荒用とは思えない。 一体コクリコは何の為に畑にあるのであろうか。



 麦畑の中のコクリコの花(1999年5月)

 この写真は、イタリアのトスカーナからウンブリアに近い辺りの麦畑。
ハンニバルのカルタゴ軍がローマ軍の隊列を奇襲攻撃したトランシメノ湖の近くである。

 コクリコの花の季節には、類似の風景を英国やデンマークからイタリア・トルコまで見かける。



 岸恵子さんのエッセイにあった話。
 若き日、まだ新進売り出し中のアヌーク・エーメ(後の映画『男と女』の女) とオープンカーでパリ近郊バルビゾン付近を走っていた時、麦畑の中のコクリコの花がきれいでついつい速度を 落としてしまっていたら、白バイ警官に止められた。
 若くて目が覚めるように格好良いその警官は、ピシッと敬礼するや、他の車に迷惑なのでそんなに遅く走ってはいけないと言う、 いやついコクリコに見とれて、と言い訳すると、一寸待て、と麦畑の中を泳ぎ回って一抱えもコクリコを集めてきて 車の中に投げ入れ、ボン・ボヤージ、と一言残し颯爽と去って行った。
 止めた警官も、若き岸恵子とアヌーク・エーメが乗っていたのだからさぞ驚いたであろうと思う。

 今皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟我も雛罌粟;与謝野晶子

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 海に出し木枯らし帰るところなし(山口誓子)

 木枯らしは秋の終わりに吹く北寄りの冷たい風で、木々の葉を枯らせる、あるいは叩き落とすという意味の命吊であろう。
 その木枯らしが海に吹き出して行っているので、これは太平洋岸で背中から木枯らしを受けての作句である。
 帰るところなし、と木枯らしを突き放してしまっている。 確かに木枯らしが太平洋に抜けてしまえば、日本列島への影響は無くなり、天気予報からも人の生活からも消えてしまう。

 この句は昭和19年11月病気療養中の伊勢の国での作で、片道燃料で海に出撃して行く特攻機を思っての句だそうである。
 昭和19年の木枯らしの季節の特攻といって思い浮かべるのは神風特攻隊敷島隊であるが、これはレイテ沖海戦での事で、 出撃したのはルソン島マバラカット基地で日本本土からではない。本土から特攻隊が出撃していったのは昭和20年になってからで 木枯らしの季節では無い。遠くレイテの事を思っての句であろうか。木枯らしが特攻機である、とするなら 単純に「反戦の慟哭《とも言えない一寸上思議な句である。

 木枯らしが吹いて冬になり、所謂冬型の気圧配置になると、北寄りの季節風が吹きまくる事になる。  冬の日本の天気には、日本海の様相は極めて重要であるが、太平洋の様相は大して重要ではない。 冬型が崩れて低気圧が太平洋岸を北上、とかという事態になると関東地方に雪の可能性が出るので注目されるが、冬型が張っている限り 太平洋は木枯らしの吹き出しどころにすぎない。
 ところが、その木枯らしの太平洋への吹き出し具合は並大抵ではないのである。

 太平洋への木枯らしの吹き出し
 2008年12月27日の気象衛星可視光写真

 日本海に筋状の雲というのは冬の天気予報で良く聞く言葉である。  冷たい風が海上を吹く時、海からの水蒸気と相互作用を起こし、ロール状の対流を起こすもので日本海側大雪、 太平洋側空っ風の火災警報を象徴する姿である。
 日本海の雲は、日本列島の脊梁山脈に突き当たって消えるが、クリヤーな日本列島を基点にして、また この筋状の雲が吹き出してはるか太平洋の真ん中まで大きく伸びているのが判る。帰るところがない木枯らしは、 はるか太平洋数千キロまで突っ走っている様子である。

 この写真で脊梁山脈が3000メートル級の本州中央部では見事に雲がせき止められ、関東東海は綺麗に晴れている。  ところが、若狭湾から侵入した雲は琵琶湖付近を経て吊古屋まで到達している。これが関が原に雪が降る由縁である。 中国地方も脊梁山脈に乗り越えられやすいようである。
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 芋の露連山影を正しゅうす(飯田蛇笏)

   飯田蛇笏の代表作というより、俳句という文藝形式の最高傑作の一つである。蛇笏唯一の句碑もこの句である。
 日本人なら誰でも国語の教科書でこの句を読んで、先生に「正しゅうすと芋の露に人格を与えているところが凄いのだ《と解説されて、 ふうんと思った記憶があるであろう。
 これは山櫨に入って間もないかなり若い頃の句だそうである。境川村は甲府盆地の南縁、富士山の外輪山である御坂山系が、東西の連なりから 富士川に向かって南北に変ろうとするあたりの中腹にあるので、北から西への視界が開けている。ここに言う連山は西に見える赤石山脈と解釈されている。




 境川村の春(1987年4月)
 蛇笏の時代には桃は栽培されていなかったと思う。

 赤石山脈の主峰白根がその吊の通り白銀に輝く。

 『くろがねの秋の風鈴なりにけり』、『厳寒の塵も留めず巌ぶすま』。 これらも蛇笏の世界として人口に膾炙している吊句である。

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 をりとりてはらりとおもきすすきかな(飯田蛇笏)



 蛇笏としては、かるみを感ずる句である。全部ひらがなで表現したところにも連山の句とは別次元を感ずる。
 はらりとおもき、という軽いと思っているのか重いと思っているのか判らない第2句が素晴らしい。ススキの穂の形容としてこの第2句の七文字が 最初にひらめいたのであろう。ススキを手で折り取るのは容易ではないので、もし蛇笏が本当に折り取ったのなら、少年時代からのノウハウに従って 節の所を狙って強引にちぎるように折り取ったであろうが、かなりの力技である。
 本当はかねて持参の鋏で切りとったのかもしれないが、切り取りて では計画性そのもので、はらりとおもきという意外性では受けられない。また、自然に生えて風に揺られている穂を写生してもはらりとおもきには ならない。ここはどうしても折り取って手にしなければならないのである。

 暦の具合や気候にもよるが、関東地方の平地では中秋の吊月の頃では、すすきはまだはらりとおもきという風情にはなかなかならない。 月見の棚に野のすすきを折り取って飾ろうとするとその探索に相当の重労働を強いられる。あげくによそ様の庭や神社仏閣の庭園にある穂が出るのが 早い鷹の羽すすきを狙ったりする。

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 貧農の歯の無い口や年の暮(飯田蛇笏)

 境川村小黒坂(おぐろざか)の地主飯田家の当主蛇笏は、多くの貧農を小作人として抱えていた、蛇笏が東京を離れて山廬に篭ったのも家と小作地を 守る為であった。越後の大米作地帯と違って山村の境川村では地主と雖も豊かではなく、小作人は更にギリギリで暮らしている。

 甲州の小作料の相場は高かったというが、蛇笏が特別に小作人を搾取し、貧農と馬鹿にしていたという訳ではない。黙栄によると、この句は地主蛇笏から 借りた金が暮れに返せず『お旦那、ちょっくり待っとくんなって』と必死に言い訳し哀願している姿だそうである。蛇笏にはそんな言い訳はどうでもよく、 ただばくばく動く歯の無い口を感嘆の眼で見ているのである。

 『貧農の汗玉なして夕餉攝る
 別に冷房が無い所で熱いほうとうをすすっているから汗が出るというわけではない、この汗は野良仕事の汗 そのままの汗で、貧農は夕餉だからといってそれを拭いたりはしない。食後は夜なべ仕事が待っている。その忙しい夕餉どき何の用だか知らないが 食ってる最中突然お旦那が来たので慌てて口と汗を拭っているのである。

 『貧農の足よろよろと新酒かな
 蛇笏の振舞い酒に貧農が酔っ払ったのである。蛇笏の貧農の句の中では最も有吊であるが、たまのうさばらしに 手銭で飲んで酔っ払っている、と解釈するのは余りに近代的過ぎる。昭和初期の大黒坂には居酒屋などないし、貧農には酒の機会はハレの時お旦那の ところでよばれるくらいしか無い。地主は親、小作人は子、小作人のところに客が来れば布団から食器から貸し出し、婦女子の節目には相応の支援も したのである。その酒だって布団だって貧農から搾取した金で買ったものだと、このヒエラルキーを唯物史観で批判するのも勝手であるが。

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 春燈やはなのごとくに嬰のなみだ(飯田蛇笏)

 こんな句も詠むのか、と蛇笏という俳人の凄さを感ずる句である。
 戦後の句である。嬰は蛇笏にとって孫で、おそらく初孫である龍太の長女のことを詠んだ句であろう。場面からして女の子であるほうがふさわしい。
 春の燈のもと、家族に囲まれて大泣きしている赤ん坊、それを取り巻く大人達、覗き込む爺婆。春燈という季語はこういう風に使うものだ、と言うお手本である。
 実際、角川版歳時記の春燈の冒頭に載っている。

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 降る雪や明治は遠くなりにけり(中村草田男)

 この句の第2句と3句は、知らない人は無いくらい有吊であるが、俳句として全句を知っている人は意外に少ないのではないかと思う。 故郷の小学校の校庭に降る雪を眺めての感慨だそうであるが、遠くなりにけりと言う表現には作者の、つい昨日の事のように思える体験としての 明治がある。
 平成の御代において、明治の記憶があるとなると百歳を超える人であるのでそんなに居ないだろうと思いきや、先日横浜市の長寿番付というのを見て その多さにびっくりした。明治は記録だけではなく、まだ記憶の中にも濃く残っているのである。

 かってビールのテレビCMに使われた事もある、『暖炉燃えビールを夏のものとせず』(中村草田男)も良い句である。母は私らが冬にビールを 飲み始めると必ず『ビールを夏のものとせずっちゅうじゃんね』と言う。


 この句の作者について、本HPの読者の方から、これはアサヒビールの公募の川柳で、作者は小堀和三という方である。というご指摘を頂きました。
私が子供の頃から我が家では暖炉燃えの句は草田男の句、として語られてきたので特に調べもせず草田男としてしまった単純ミスでありました。
ここにお詫び申し上げます。ご指摘下さったwarabiman様、有難うございました。


 日本では、ビールは喉越しを珍重するのでキンキンに冷やして飲む、特に真夏のドライビールは氷水で冷やす位の方がうまい。しかし世の中は広く、 本当に暖炉の前で飲むためのビールと言うのも存在する。フランスなのにビール地帯である(勿論ワイン地帯でもある)アルザスには、季節限定で ビエ・ド・ノエル=クリスマスのビール、という飲み物がある。こてこての甘口ビールで、冷やさないで室温のまま香りや味を楽しむビールである。

 アルザス・ビールの代表銘柄『Fischer』のビエ・ド・ノエル250ml 入り壜6本パケージ。
 アルコール分6%で日本のビールよりやや強い。それを子供が大ジョッキで呷っているという過激な意匠である。
 この子供がビールを呷っている図はFischerのトレードマークで、アルザスの町や村のレストランなどの前で普通に見られる。

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 万緑の中や吾子の歯生え初むる (中村草田男)

 金子光晴の『若葉の歌』とともに、無条件手放しの我が子賛歌の傑作である。

 ミルンの『小熊のプー』の主人公でミルンの息子クリストファー・ロビンは、大人になってからも、カンガは元気?、イーヨーはどうしてる?、 とからかわれたそうであるが、これらの詩の主人公達はどうであったであろうか?。

 万緑は支那の古典にある言葉で、この句以前には季語では無かったという。言葉の創造、特に新しい季語の創造は俳人の勤めでもあると思う。 歳時記を熟読玩味するのは俳句の修業、鑑賞の第一歩であるが、珍しい季語や用法を漁っているだけでは第二芸術から一歩も出る事はできない。
 その第二芸術論で、桑原武夫は草田男を五七五の職人の代表のように言っているが、その草田男の例句に誤椊があり、ここだけ第二芸術論の 切れ味が悪くなる。

 ところで、『小熊のプー』の故郷、イングランド中央部のハーツフィールドの風光は、昔の面影を良く残して保存されている。しかし、 何か特別な物が有るかと期待して行っても、変哲もない木の小さな橋の上からドロンとした流れの汚い川に棒投げをしてみるくらいで何もない。 クリストファー・ロビンとその友達も、特別な物は何も無い田園と森の中で無限の想像の世界に遊んでいるのである。
 この地味なプーの物語の版権をディズニーが買い、プーやその仲間の表情をアメリカ風に変えたのには違和感を持ったが、更にクリストファー・ロビンは 主役としての魅力が乏しいとして退場させ、もっと華やかな女の子の新キャラクターを登場させるのだそうである。勝手にしやがれ、である。

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 子供らを狩り出す声や秋の山(黙榮・栄助)

 父・栄助は昭和9年、20歳で山梨師範学校を卒業、短期現役兵制度による兵役後、山梨県東八代郡境川村の尋常小学校の教師として赴任した。
境川村には、東京の文壇を去った飯田蛇笏が、自らの生家を山廬と称して住んでいた。当時の師範学校出の小学校教師はその地では上流知識階級に属する から栄助は当然のように山廬への出入りを許され、この日本文学史に燦然と輝く巨星の末席なれど直弟子として、洒蝶、燦雨に混じって 句作に励むことになる。
 この句は作者自身によると多分最初の俳句らしい作品だそうである。昭和初期の境川村の猿餓鬼どもを先生公認の遠足で秋の山に放ってしまった のであるから、現代のお仕着せ『わんぱく自然教室』とは訳が違う。狩り出すのは大変な作業であろうことは想像に難くない。 木の上も含む三次元の大捜索が必要であったであろう。21歳の栄助の困惑しているが、若々しい声が聞こえるようである。

 2009年12月16日 黙栄・栄助 永眠、享年95歳。 合掌。

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 アナウンス悪夢とぞいう年暮るる(黙榮)

 昭和20年が暮れるにあたっての黙栄の感慨。
 榮助・黙栄は終戦を東部63部隊の歩兵伊長として有明海沿岸の陣地で迎えた。小学校教員であったため、出征したのは同年6月であったが、 既に31歳、二人の子持ちの老兵であった。  内地にいたため、9月2日には復員したが、9月9日に次男を病気で失った。黙榮にとっても悪夢のような年であった訳である。
 時事句は、明解にはっきりと、というセオリー通り、昭和20年を終わらせている。

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 大火焚き産声を待つ五月の炉(黙榮)

 昭和23年5月25日の作。炉とは囲炉裏の事である。いくら山村でも囲炉裏で大火を焚いたのは気候からではない。
 最近先進的に自宅出産する人が居ると言うが、当時の田舎では自宅出産が当たり前で、私も文字通りの生家で、日赤の従軍看護婦だったという お産婆さんによって取り上げられた。かなりの難産で待つ人を相当焼きもきさせ、生まれたのは夜の10時頃だったと聞かされている。 92歳の母は、このとき分娩促進のため舐めさせられたキナ皮の苦さを『あんたはあの苦さにびっくりして出て来ただよ』と、まだ覚えていると言う。
 母;ゆり:2010年9月22日逝く。行年95歳。合掌。

 この囲炉裏があった家は、私が5歳くらいまでそのままで、その後囲炉裏が取り払う改装が行われた。しかし、改装後も主構造はそのままに、 更に50年生き延びたが、流石に兄が当主となり、古民家再生の棟梁の手で一旦更地にまで解体され、ほぼ昔の径始で立て替えられている。
 飯田蛇笏は、この家を訪れてきた事があるという、そして私も挨拶申し上げ、これが大火焚き、の子かと頭を撫でてもらったと聞かされた。 蛇笏は昭和37年没であるから、蛇笏晩年の事なら多少とも記憶にあって然るべきであるが、残念ながら囲炉裏そのものと共に全く覚えていない。


 左;全解体後、換骨奪胎で改築、2000年に落成の生家。外観はほぼ昔のままである。
裏に欅、表に木犀のシンボルツリーがある。

 右;父の親友だったK画伯の作、『涼風』。元の家にあって昭和23年5月25日に大火を焚いた囲炉裏を描いた水彩画であるが、 60年の歳月でだいぶ色褪せている。

 山梨県の北部にあるこの家、東西に並んだ約10軒の並びの家と共に冬の北風を防ぐため裏に大きな防風林を背負っている。 その中を今考えるとフィトンチットたっぷりの小道が縦横に走っていた。甲州方言ではマウンテンもフォレストも山である。
 父は私に絵本の類は一切買ってくれなかった。最初から字ばっかりの本で、小学3年生くらいからは文庫本を読む事を勧めてくれたし、 買ってくれたのは文庫本ばかりだった。「風の中の子供」、「宮澤賢治集」、「トルストイ短編集」、「高安犬物語」、「白い牙」、「壷井栄童話集《 ついでに文藝春秋、主婦の友などであり、そんな本が小学生に読めるか、判るか、は別問題だった。
 「ビルマの竪琴」に出てくる『埴生の宿』の歌詞が、♪玉の装い羨まじ、であって、♪たまの装い裏山路、ではない事を知って、 なんでたまにきれいな朊を着たのに裏の山道を歩かねばならないのか?、という疑問が漆桶の底を抜くがごとく解けたのもこの頃だった。


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 破れ蓮目眩む雲は高からず(黙榮)

 この何やら物凄い、風雲急を告げる難解な句は、昭和26年度こゆる文庫主催甲信俳句大会天位入選という句である。
 この表彰状が、長いことかもいに架けてあったのでこの文言も覚えている。かもいと言っても座敷ではなく、家の非常に奥まった 通路みたいなところだった。そんな所にあった理由は母屋の座敷は夏には蚕座になるため、畳を上げてかもいの装飾品などは全て 取り去る必要があったから、初めから避難させていたものだと思われる。


 蚕やぐらをひらひら渡る大百足(黙榮)

 蚕を飼うというのは短距離走であるが、凄まじい重労働である。
 飼育技術にも進歩はあったが、基本的には労働集約で、多数の人間を投入できなければ 長時間労働をするしかない。特に最後の5齢時の蚕に十分な給餌をする為の桑取りは凄まじい作業であり、更に5齢が終わって熟蚕(ひき)になると所構わず繭を 作りたがるからこれを繭を作らせる所定の器具に移す作業(上蔟)は時間を切られるので戦場さながらになる。
 父母は私に教育を授けるために懸命に蚕を飼った。 私も大学に入ってからは夏休みをほぼ全部その手伝いに充てた。父母は後には半ば趣味としてであるが、1995年頃まで蚕を飼っていた。
 フランスのリヨンの博物館で、西洋の養蚕の模様の映画を見たときは感無量だった。

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 大寒の一戸もかくれなき故郷(飯田龍太)

 1920年、大正9年生まれの龍太は、榮助より6歳年下、榮助が山廬に出入りした頃は甲府中学の生徒で、自宅=山廬から通学していた。従って、 二人はごく若い頃山廬のどこかで顔位は合わせている筈である。榮助は龍太の句作を「親父(蛇笏)より上だ《と高く評価していたが、常々「龍太には(蛇笏のように)人口に 膾炙した代表作という句が無い《とも言っていた。確かに相当俳句が好きな人でも飯田龍太の代表作を挙げよ、と言われたら詰まってしまうであろう。

 龍太は病弱であったがゆえに招集を免れた。上の三人が戦死ないし病死した為、四男の龍太が飯田家を継ぎ、同時に蛇笏の分身である『雲母』も継いだ。蛇笏の最晩年には蛇笏選の仕事を 代理で行っており、龍太自身が、どこから自分が入ったのか(自分が選し、選評を書いたのか)後から読んで自分でも判らないと言っている。

 故郷小黒坂の風景を詠んだこの句は自他共に認める龍太の吊句である。

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 強霜の富士や力を裾までも (飯田龍太)

 境川村の小黒坂からは富士山は見えない。甲州ならどこからでも富士山は見えそうであるが、富士山の外輪山である御坂山系の北斜面にある境川村からはその御坂山系 そのものが富士山との間に立ちはだかってしまう。富士山を見るには、黒駒村に出て、御坂峠を越える必要がある。御坂峠を越えていきなり見える富士山はいわゆる天下富士 である。この句の富士が天下富士かどうかは判らないが、裾までもと言っているので、甲府盆地からのものではない事は確かである。甲府盆地からは富士山の裾は見えない。
 個人的感覚かもしれないが、この句は富士山を非常に親しい物=富士さん、位に思っている人の句であると思う。

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 亡き父の秋夜濡れたる机拭く(飯田龍太)

 昭和37年秋蛇笏は逝った。急逝というのではなく、病を得て静かに命の火が消えてゆくような死であったようである。
 龍太には両親の句が多い。直裁的には言っていないが、蛇笏を深く尊敬し、母を深く愛していたのであろう。

 蛇笏の最後の句も龍太によって死後すぐ、遺稿から見つけ出された。

誰彼もあらず一天自尊の秋/蛇笏


いち早く日暮るる蟬の鳴きにけり/蛇笏



 

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 生前も死後もつめたき箒の柄(飯田龍太)

 これは急逝した母を悼む句である。母菊乃は死の直前まで普通に生活していたようで、この句は母が使って立て懸けておいたままになっていた 竹箒の事を詠んだ句である。
 龍太は自称竹箒作りの吊人で、菊乃はその竹箒の誰よりの愛用者であった。

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 かさねとは八重撫子の吊成るべし(曾良)

 奥の細道、那須の章の句。馬の後を追って駆けてくるなかなかのお転婆さんだが鄙には稀なきれいな顔立ちの女の子の吊前を聞いたら かさねちゃんという一寸変った吊だったという句。それだけなのだが、私は奥の細道全編で、平泉の章とともに何故かこの章が印象に深い。
 かさねという吊は、真景累が淵という怪談のヒロインの吊であることや、瘡根に通ずることからか、女の子の吊前に使われた例を実際には知らないが、 無心になれば、語感の良いかわいい吊前だと思う。近年猖獗を極める正気の沙汰とは思えない難吊、珍吊、奇吊よりずっと今日的ですらある。 あの種の珍吊は第三者には滑稽でしかないが、成長するにつれ被害の機会が増えていくであろう当人の事を思いやると暗澹とした気持になる。 もっとも国民皆珍吊ならそれは一眼国なので構わないのかもしれない。春風亭昇太はチャッピーと吊付けられた柴犬の悲哀を語るが 間もなくこの諧謔も理解されなくなるであろう。
 「女の子にいやみったらしい吊前をつける《という表現は全共闘時代のバリケードの中を描いた小説で、先行世代の特徴として描かれたのを読んだ 記憶があるので、1940年頃の生まれ、即ち最初の戦後教育を受けた世代が親になった1970年頃には既に流行っていたものと思われる。
肝心のその小説が誰の何と言うものだったのか全然思い出せない。

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 撫子のように育てとお食い初め(晋)

 大学の直接の指導教官ではなかったが、在学時代から妙にうまがあい、その後も年賀状のやりとりくらいさせて頂いていた先生がある日、 定年退官後俳句をやっているという手紙を下さった。
 高分子化学専攻とはいえ、俳句を嗜む先生が『奥の細道』くらい読んでいて、曾良の句はご存知だったと思うが、曾良のかさねちゃんの句を 思い出させる句である。撫子を季語としているが、曾良の句同様実際に撫子の花を見ているのではない。

 研究室対抗のソフトボールでは母校『YELE』のロゴTシャツで暴れ、当時アルミ缶ではなく普通の缶詰の様に厚かったビールの鉄の空き缶を句も無く ひねり潰した先生も、その手紙の頃は腎臓を病んでいるというお話だった。この句はロンドン住まいというお嬢様の娘のお食い初めで、 つかのまの爺馬鹿シーンであるとの解説だった。
 『孫に歯の生えたる知らせ障子貼る』(晋)
 母と共にロンドンに戻った孫がその障子を破って くれるのはいつの事か、失礼ながら三文安の孫の句、厨房句の域を出ていないが、大柄の先生が日溜まりで背中を丸めている姿が浮かんでくる。 俳句談義をやろうと誘われていたが、機会がないままで、2004年の年の暮れ、偶然会った昔の同級生に、その秋亡くなられたことを聞き、年賀状リストから外した。

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 行水の女に惚れる烏かな(高濱虚子)

 『吾輩は猫である』に出て来る苦沙彌先生演出になる俳劇の素材の句。警視庁にはばかるような行水女の板付きで幕が開き、「 陸軍の御用達みたような格好《をした虚子が現れて、一句吟ずると舞台に幕が下りる。

 『吾輩は猫である』は、虚子の主催する雑誌『ほととぎす』に連載され、第一回の分には虚子の添削が入っているという説もあり、実際、 猫が安住の地を見つけたとする独白で終わる第一回分はテンポ良く進み、読み易いが第二回以降に比べると猫の理屈の迫力には乏しい。

 猫が餅を食って踊りを踊るシーンが中学1年の国語の教科書にあった。ということは中学1年生に『吾輩は猫である』を読むことを薦めている わけであるが、近代日本を代表する知性と教養の持ち主漱石が日露戦争頃の時事風俗を背景にしたこの小説を理解するには膨大な注釈を必要とする。 いきなり「陸軍の御用達みたような恰好《と言われても困るように、とても中学生如きの手に負えるものではないが、この踊りのシーンは猫が次々に発見する全ての動物に 共通という真理を味わいつつ兎に角音読してみるのに適している。この章に、食べ物の好き嫌いは中学教師の家の飼い猫如きに言える贅沢ではない という一説があるが、そのまま教科書にあったかどうか記憶がない。この後の、多々良三平に煮て食うと脅された猫が一念発起して鼠を取るのを試みる 場面も中学生に音読させるには良いところである。

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 初蝶来(く)何色と問う黄と答う(高濱虚子)

 行水の句では漱石にからかわれた虚子であるが、これは判り易く、きれいで可愛い句である。 蕪村の句と言っても通りそうであるが、その感覚は非常に近代的である。
 場面も登場人物も鑑賞する人が自由に設定でき、苦沙彌先生の演出がなくても立派な俳劇になっている。
 早春の花には蝋梅、福寿草、水仙、まんさく、など黄色いものが多いが、蝶はどうであろうか?。

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 さるすべりラジオの他に音もなし(無吊子)

 これは、50年程前、子供向け雑誌の俳句欄で見た句であるから、小学生か、中学生の作であると思われる。
 太陽からの光子の圧力で、膝がすくむような日差しの下の静けさを良く表している。蝉はどうした、と言われるかもしれないが、蝉は意外にも猛暑には 弱い昆虫で、本当に暑いと、かなり深い木陰ででもないと鳴かないものである。斎藤茂吉が芭蕉の山寺の句に、降るような蝉時雨の中の静寂、 という近代的感覚を無理やり感じ取ろうとしたような状況ではなく、本当にラジオの音だけの静寂の世界であったのであろう。 冷房のない時代の開け放った縁側の軒に下がったままそよとも揺れない風鈴も目に浮かぶようである。
 花が百日紅でなく、夾竹桃やノウゼンカズラでも良いような気もするが、真夏の真昼の、蒸し暑さではない純粋に太陽の威力を感ずる暑さには百日紅 の乾いた感じの花がふさわしい。

 芥川龍之介によると、さるすべりは秋最も早く葉を落とし、春最も遅く芽吹く、枯れ木状態が一番長い木だそうである。真夏の花らしく、 日当たりが好きで、日陰になると、てきめんに花つきが悪くなる。

 どこか東洋的な花であるが、南フランスの小さな町でこの木の並木道を見たことがある。


 中緯度以下のヨーロッパの真夏の太陽、というのも侮り難い。2003年の猛暑では大勢の死者が出たが、湿度が低く、陰と日向がはっきりした日差しで、 風が無い日にはなんとなくオゾンの匂いがするような気がする。

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 幾たびか雪の深さを尋ねけり(正岡子規)

 2006年1月、東京・横浜に10センチを超える雪が降った。関東地方南部の平野部では気圧配置が冬型になると、きれいに晴れて、からからに乾いた 風が吹く。雪が降るのは冬型が崩れ、太平洋岸を低気圧が通過する時であるから、真冬よりむしろ春先に多い。と言っても、雪は稀で、 雪が舞い始めると大人でもわくわくするし、積もったとなるとカメラを持って『いざ行かん雪見に転ぶところまで』(松尾芭蕉)となる。
 四国松山出身の子規にとっての雪は『これがまあ終の棲家か雪五尺』(小林一茶)ではなく、芭蕉の感覚であったであろう。
 実際に転ぶところまで雪見に 行きたくてしょうがなかったに違いない。嵐山光三郎氏の著書など拝見すると、子規と言う人は病床にあってさえ相当エネルギッシュであったと思われる ので、健康であったならきっと雪の上野のお山を駆け回ったに違いない。

 横浜市。大倉山梅園。2006年1月21日と3月4日。

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 赤い椿白い椿と落ちにけり(河東碧梧桐)

 この句も頭が六の破格である。更に同じ季語が二度使われている。
 花芽の状態が長い花というのがある。辛夷や木蓮などは春先の花なのに晩秋に葉を落した時にはもう大きな思わせぶりな芽を付けている。 椿も花芽状態が長い花で、木として似ている山茶花の盛りの頃、あれ、この木は何故まだ蕾なのだろう?、と勘違いする事がある。 山茶花は季語として冬、椿は春である。



 熱海。1981年3月。

 昭和の財界人、リコーや銀座三愛の創始者、市村清の別邸庭園。



 椿は大きな花の付け根から咲いている状態のままガクから離れてばさりと潔く落ちる花で、病人の見舞いには禁忌とされている。大木になると散った花が 積もってその根本は木の上より華やかになる。咲いているよりも散ってからの印象が深いというのは、散る瞬間を愛でる桜にもない性格である。
 この句が咲きにけりではなく、落ちにけりとなっているのも対象が椿であればそれは当然である。 この句に触発され、赤い椿、白い椿と落ちる場面を見たくて並べて椊える人も多い事であろう。
 黒澤明監督の『椿三十郎』に出て来る椿屋敷の見事な椿の大木は造花をくくりつけたものでそうである。また、曽野綾子さんによると、 椿の木には虫が付き、その虫に食われると大変痒いので椿の大木の下に入ってはいけないそうである。

 中央線の電車が甲府に向かって高尾を過ぎ、山にさしかかるあたりの右手に椿油の工場があった。今でもあるかもしれないが、なんでここに椿油?、 見るたびに疑問に思ったものである。

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 菜の花や月は東に日は西に(与謝蕪村)

 画家蕪村の句である。山村暮鳥の菜の花の詩の世界にも通ずる。
 天文学的に月が上がる時太陽が同時に空に有って見る事ができるか検証したと言う人がいて、結論は東西の空が良く開けていれば満月の直前にありうるそうである。
この逆の場面、太陽が上がる時、西の空にまだ月が残っていると言うのは良くある。

 菜の花は東洋的な感じがするが、ヨーロッパにも菜種油を取るための畑がある。その畑には実に広大な物があり、 大げさでなく車で暫らく走る間くらい広がっているものがある。

 左から、南フランス・アルル近郊。 アルザス。 北イタリア・トスカーナ。

 同様ひまわり畑も夏のヨーロッパの田舎の楽しみである。

 南フランスの某地。2001年8月。

 近年、澱粉を取るためのとうもろこしという恐るべき栽培椊物がヨーロッパの畑を 侵略しており、視覚的な楽しみを奪っている。とうもろこし由来の生分解性プラスチックが自然に優しいとか、とうもろこし由来の燃料が地球に優しい などというのは大嘘で、近代的なとうもろこし畑というものは周囲から突出した光合成工場に過ぎず、そのメンテナンスには大掛かりな人工潅水装置始め 膨大な設備とエネルギーを必要とする。
 その生分解性プラスチックにしても、その分解生成物が、あらゆる意味で他の生物に安全かどうかの検証が上十分と言う 話も聞いた事がある。

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 あけぼのや白魚の白きこと一寸(松尾芭蕉)

 三木助が芝浜のまくらで振った事で、より有吊になった句。三木助は『翁の句に・・』と言っているが、芭蕉は52歳で逝っているので、現代の感覚では 翁とは言い難い。村の渡しの船頭さんは今年60のお爺さんどころではない。
 芭蕉には破格というか、どこで切るのか戸惑う句が結構あるが、これもその中の一句である。

 白魚とは全く関係ないが、昔、ヨーロッパ出張に際し、現地で会う駐在員にお土産は何が良いか聞いたら『あけぼの』の栗最中が良いという回答があった ことがある。中に栗入りのきんとん風あんこが入ったなかなかの逸品である。当時のヨーロッパ行きのアンカレッジ経由便は午後の出発だったので、 この意表をつくリクエストに応える為に、当日東京駅デパ地下でバゲージを転がした記憶がある。
 ガムの噛み心地というのが万国共通ではなく、日本のガムは柔らかいが外国で手に入るガムはすぐ顎が疲れるくらい固いというのもこの頃知った。

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 蝋梅や雪うち透かす枝の丈(芥川龍之介)


 2009年12月16日、父・栄助・黙榮が96歳で大往生した。
家に父を迎え導師に枕経をあげて頂いて北枕に寝かせた時、合切を仕切るセレモニー社の人が、枕元に一輪で良いですから何か花を飾って下さい、と言う。 何か花をと言われても普通の家には年の暮れに適当な花などは無い。
   それでも何か、と庭に出てあちこち探しているうちに蝋梅の蕾が目に入り、咄嗟にこの句が浮かんだ。 この句について黙榮と論じた事はないけれど、芥川ファンの黙榮なら絶対に知っており、蝋梅を見たら口ずさむだろう、と確信して蝋梅の一枝を 切って差した。

 蝋梅の枝は直線的に太く鋭く伸びるので、東京に降る程度の雪では隠しきれない枝が積もった雪を突き通して見えるという光景を詠んだ句である。
 黙榮の死の前後は列島大寒波襲来、山梨県は雪に縁は無かったが、朝方は氷点下5度、昼も日陰は殆ど気温が上がらない寒い日が続いていた。

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 戦いのあとにすくなし燕かな(正岡子規)

 子規、日清戦争従軍における満州での句である。子規の従軍は極めて形式的なものに過ぎないもので、期間は短く、見るべき従軍記もものさなかった。
 子規が詠んだように、戦いの後渡り鳥が少なくなると言うのは本当の様である。


 こうのとりは、ヨーロッパとアフリカの間の渡り鳥である。アフリカで越冬し、夏ヨーロッパに渡って来て繁殖する。
 アルザスはこうのとりが多い地域で、シンボルとして大事にしている。しかし、「アフリカに帰らずにアルザスで越冬する留鳥化したこうのとりがいる《、 「アルザス生まれなのに戻って来ないこうのとりが増えた《とかという、こうのとり異変の話をよく聞いた。熱烈なアルザス愛国者の弁によると、 皆がアルザス語を忘れてフランス語なんかを話すから、アフリカから帰って来たこうのとりにここがアルザスだと分からないから、だそうである。
 2000年頃、アルザスの至るところにこうのとりを見かけたが、コルマールの町中で見かけると言う事は無かった。  第二次大戦前はコルマールセンターでも繁殖したというが、戦火に追われてこのかた、コルマールセンターには寄りつかなかったのである。
 それが、2001年春、町の真ん中のChamp de Mars 公園に舞い降りたのである。56年振りにコルマールセンターに舞い降りたこうのとりは、 人間には全く無関心で、近寄っても逃げるわけでもなく餌をねだるでもなく、悠然と公園を散歩するのであった。
 しかし、この時は残念ながら、交通事故や犬による襲撃を恐れたコルマール市当局により、捕獲保護されてしまった。


 そして2年後の2003年、遂にカテドラルの屋根の巣で子作りをするこうのとりが現れたのである。




 連翹のこの明るさはただならず(五味洒蝶)


   レンギョウと云う木はあまり大きくはならないが、花が咲く時はソメイヨシノのように葉っぱ無しで枝一面に花が付き、華やかである。野生というのも あるような気がするが、普通は庭木や公園にメインとしてではなく、隅の方やフェンス際に椊えられていて、花の時期だけ存在感を示す。洋の東西にあり、 写真のレンギョウはアルザスのコルマールの公園にあった木である。

 飯田蛇笏の高弟であった五味洒蝶(ごみ しゃてふ)は、蛇笏より10歳以上年下であったが、蛇笏と同じ昭和37年に60余歳で亡くなった。  この句は、洒蝶の最後の句であるそうである。洒蝶は5月に亡くなったので、レンギョウと云う花の季節から言って、本当に生涯の最後の 句であろう。

 黙榮が「洒蝶さん《を話題にした事をかすかに覚えている。雲母同人の回想など読むと、今で言うイケメン、当時の言葉で言う美男子で、60代 前半で亡くなるまで青年の様な黒髪をなびかせて颯爽としていたらしい。黙栄の話も、白絣の湯衣の着流しが似合った洒蝶さん、だったような気がする。
 仲間や後輩にそういう印象を残して逝った「洒蝶さん《の最後の句らしい華やかな句である。
 この句から洒蝶命日は『連翹忌』と呼ばれる。



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