御殿場線は東海道線国府津駅から酒匂川沿いに御殿場まで登り、ここから箱根山の西側を沼津に向かって駆け下るという、海辺の
駅から海辺の町の駅を結ぶ全長60.2kmの路線であるが、国府津から35.5kmの御殿場の標高が455mであるから凄い山岳鉄道でもある。
特に難所であった山北−御殿場間は19.6kmで標高差345mを登る。平均斜度は17.6‰、山北駅を出て暫くと途中の小山駅辺りには
ほぼ平坦路線部分もあるので、この区間の登りの大部分は国鉄幹線の最大勾配である25‰(1000m行って25m登る)であると思われる。
スイス山岳鉄道の雄、レーティッシュ・バーンは電化されているが、機関車牽引の粘着運転の列車が70‰の勾配を登る。
これに比べたら、御殿場線など大した勾配では無いように思える。しかし、御殿場線は只の山岳鉄道では無い。
昭和9年の丹那トンネル開通まで、まだトラック輸送など微々たる時代の東国と西国を結ぶ大動脈として日本の産業を支えてい
た東海道本線だったのである。実際、鉄道唱歌オリジナル版は、国府津から御殿場線に入って沼津まで行き、沼津で現在の東海道線に戻っていく。
現在、御殿場線と呼ばれている区間が開通したのは1889年(明治22年)2月1日、東海道線の東京-神戸間が完全開通したのが同年の7月1日、
これにより、東京-神戸間は20時間余りで結ばれる事になった。開通から5年後に起きた日清戦争では兵員と物資を東から西に運ぶ軍事鉄道として活躍した。
さらに1901年6月11日には全線が複線化され(一部長大橋梁は単線のままであったが)、3年後の日露戦争では飛躍的に輸送力を増していた御殿場線は、
日本の勝利に貢献したのであった。
東海道本線の名残は、全線が複線の線路敷地を保ち、路線の各駅は広大な駅構内を保っている事からも窺がえる。
現在は半分は捨てられ、雑草に埋もれている煉瓦造りの堂々たる鉄橋の橋げたなど、成り上がり者ニューマネーには無い風格がある。
左富士 2009年2月。
国府津駅を出て間もなく富士山が左手に見えてくる。
基本的に西に向かっているのに、左手に富士山が見えるというのは不思議であるが、
この辺り、御殿場線は北西に向かって走るので、富士山は左手に見える事になる。
手前の山は総称で足柄山、金太郎のホームグラウンドである。左の丸い山は矢倉岳。
山北−駿河小山間。 旧東海道本線の橋梁と半分廃線の橋梁跡。
御殿場線が単線になったきっかけは戦争中の金属供出で、まあ真っ先に狙われたであろう事は想像に難くないが、全線が単線になったのは
昭和19年7月11日の事だった。外したレールは東海道本線用の最高品質であったため、そのままレールとして他所で使われたという。
先日、ある方に、このレールは同年に横須賀から久里浜まで延長された軍用鉄道に転用されたのだと伺った。
旧東海道本線の遺構は全線に色濃く残っているが、鉄道唱歌に歌われた山北と小山の間の線路と酒匂川とその支流が交錯する難所に残る
複線時代のトンネルや鉄橋の廃墟が一番見ごたえがある。
急勾配でカーブとトンネルが続くこの区間は、蒸気機関車殺しの大変な難所で、特に重い長大編成の貨物列車は
沼津と国府津で箱根越え用に列車編成を整え、途中の山北駅で停車して後部補助機関車を付け加えるという運転を行った。
使われた機関車は9800型、9850型、マーレー式(ベビー・マーレーではあったが)の9750型、C51型、9600型、D50型などであった。
『お山の中行くきしゃぽっぽ』という童謡には前後に蒸気機関車が付いた列車編成が登場するので東海道本線として華やかりし頃の御殿場線ゆかりかもしれない。
(東北地方のとある峠越えでも、機関車が前引き/後押しの運転をしたらしいのでどっちかであろう)。
1930年(昭和5年)10月1日運転開始の日本の看板列車『超特急;燕』は電化されていなかった現御殿場線区間をいかに早く通過
するかの工夫の為、電化されている区間を含めて全線を蒸気機関車のC51(後に編成を長くしてC53)が牽引、国府津と沼津で停車して後部補助機関車のC53を素早く連結、
上り列車、下り列車とも御殿場を過ぎたところで走行中に補助機関車の切り離しを行った。
この文字通りの離れ業により、国府津ー沼津間60.2kmで補助機関車無しの時の87分を64分に短縮できたというから劇的な効果といえよう。
この蒸気機関車の運転はタイムマシンが出来たら見に行きたい光景の一つである。特に最後部の展望一等車から、補助機関車の連結に始まり、走行中の
切り離しまでを眺めるのは素晴らしいスペクタクルであったという。それはそうであろう、C53の連結、フルパワーで頑張る姿、
そして御殿場を過ぎて切り離して遠ざかっていく姿の一部始終を、展望台から眼の前に直に見るわけである。
この「マイテ37020形一等展望車」に乗るには東京ー大阪片道で24円18銭かかった。
物価指数を1800位とすると、43,500円となり、現在の新幹線グリーン料金の約2.3倍となる。勿論当時でも金を出せば誰でも乗れる訳であったが、身分社会の中、
一等車で旅するには、現在の豪華客船一等船室同様に服装格式も必要で、一寸気晴らしに散財して乗ってみる、というわけにもいかなかったようである。
この大スペクタクルは丹那トンネルの開通により、昭和9年12月1日のダイヤ改正で消えた。『超特急;燕』は東京から沼津まで電気機関車のEF53が牽引する事になった。
これに拠り、東京ー大阪間の所要時間は8時間20分から20分短縮して8時間になったという。この丹那トンネル効果と比較しても、蒸気機関車の「前引き/後押し」による
国府津ー沼津間23分短縮という効果の絶大さが判る。
山北駅に保存されているD5270
昭和19年4月 川崎車両製
貨物列車用の補助機関車の基地であった山北駅は現在でも山の中に忽然と現れる広大な面積の駅である。古くはお召し列車も止まった格式高い駅であった。
駅構内に展示してあるD52型蒸気機関車は、昭和19年から投入された牽引力日本最強の蒸気機関車で、元は東海道線という
御殿場線の強固な路線だからこそ運転が可能であった超重量級機関車である。この機関車は昭和43年に御殿場線が全線電化されるまで
働き続けた。
山北−小山(現;駿河小山)間は距離8.7Km、この間にトンネルが7本あり、その内5本がカーブしたトンネルである。鉄橋は列車1両にも満たない物を
含めると8本ある。この区間は1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で大打撃を受け、復旧工事の際路線の一部付け替えが行われたと言うが、
そこは大動脈、2ヶ月足らずで復旧された。
駿河小山駅、山北駅側から。
小田急線乗り入れの特急『あさぎり』が止まっている。
『あさぎり』は新宿−松田−御殿場−沼津を結んで走る。
グリーン車に二階建て車両があるが、カーブが多いので揺れが非常に堪える。逆にグリーン車の下の普通席は揺れが少なく狙い目である。
小田急線のホームの面が視線ぎりぎりの高さで、途中の駅のホームの人はまさかそんな位置に他人の目があるとは思っていないというスリリング(?)さ。
本来複線の線路用地を持つので、非常に余裕がある線路の敷設。駅の敷地も大きくホームは
どの駅も非常に長くとにかくどこもかしこも矢鱈余裕がある。
足柄駅−御殿場間の御殿場駅近く。2009年2月。
御殿場という土地は標高がそれなりだけに結構寒いのであるが、茶畑が広がる。
裾野の大体標高300mから上の土地から御殿場にかけては梅雨から夏の始め、小笠原気団が前線を押し上げると前線に向かっての湿った南風が
冷えた山体に触れて濃い霧が発生し湿った嫌な天気が続く。
本格的な夏の気圧配置になって日本列島が高気圧にすっぽり覆われてしまえば炎熱の下界を他所に爽やかな夏になるのである。
♪遥かに見えし 富士が峰
♪早や我が傍に来たりけり
♪雪の冠 雲の帯
♪いつも気高き姿にて
我が傍に来たりけり、とここで相対性理論が適用されている。
御殿場−富士岡駅間の車窓から。2009年2月。
富士山南東麓のススキの原=大野原が枯野として広がっている。
現在でも大野原のかなりの部分は自衛隊の演習場であり、御殿場線から富士山に向かっても濃密に自衛隊と米軍の施設が存在する。
想像に難くないが、戦前においてはこの付近はべた一面軍事施設で、富士岡駅も軍専用として開設されたのが始まりだった。
富士岡駅ホームから。2009年2月。
単線運転の御殿場線は、そんなに本数が多くない筈なのに、上下線のすれ違いの為、乗客の感覚では駅毎にと思われる位頻繁に待ち合わせる。
富士岡駅は御殿場線全線中でホームから遮る物無く富士山が見える唯一の駅である。
ただし、第2東名高速の高架が完成して風景を大いにスポイルしてしまっている。
単線の路線の輸送力を上げるには、対向する列車がすれ違える場所を増やすのが手っ取り早い。駅を作っても乗客はたいして望めない、というような場所では
簡易的な建物と人員をおき、列車のすれ違いを主で、その間乗客が来たら乗せてあげる、という施設を作った。これが信号所である。
先の大戦中にはたくさんの信号所が全国各地に作られた。反戦平和団体に言わせると、これらは戦争遺跡で負の遺産なのだそうである。
駅のすぐ南に旧スイッチバック線路の土手を利用した富士見台という展望台がある。
ここは、自称で、日本に数ある『富士見台』中最高の富士見台であり、近所の人に聞いたのであるが、古い時代の国鉄総裁がこよなく愛した
場所なのだそうである。
この土手からはるか沼津方面に海(駿河湾)が見えるが、現在の御殿場線はこの土手の下を通過するのでここからでは車窓から海は見えない。
右は今は線路も無いスイッチバック引込み線跡、海は画面中央の黒い林のラインが少し窪んでいるあたり。
綺麗な夏富士である。
この辺りの田植えは5月の連休頃であるので、水田なら田植えが終わっている筈であるが、水が入っている様子が無いのは稲作を休止中の田んぼであろうか。
風景としては水田が欲しい所である。
富士岡−裾野間は、富士山との間に林や家が続くが、そのごちゃごちゃの前景が切れると富士山の全容がこのように見える。
カメラを構えて、シャッターを半押ししながら、電柱と前景の木、建物をやり過ごしチャンスを伺う。
岩波−裾野間車窓から海(駿河湾)。2009年4月。
御殿場線車窓からは、国府津駅付近を除くと海が見えないが、岩波から裾野に向かう途中で一瞬だけ、それもなんと右側の車窓からだけ見える。
写真の真ん中大きな屋根の右側に僅かに白く写っているのが駿河湾、背景は駿河湾を隔てた伊豆の山々、手前は沼津の香貫山(かぬきやま)。
♪沼津の海に聞こえたる
♪里は牛伏・我入道
♪春は花咲く桃の里
♪夏は涼しき海のそば