30代半ば、沼津にある工場勤務となった時、同年代の同僚が皆持ち家だったので、では俺もと衝動買いした家が7年の海外赴任後、諸般の事情から期せずして
別荘になってしまった。
愛鷹山(あしたかやま)の東斜面で、標高は350mくらい。気候は静岡県東部であるので、温暖、海から遠くなく標高がある程度あるので
夏は涼しい。ただし梅雨前線が停滞していたりして、湿った南風が吹くと、それが山腹で収束するために霧と湿気が強くなる。
太平洋高気圧がのしかかって来て
本格夏になれば、黄金の季節になる。アブラゼミとクマゼミの混在地域で、その鳴き分けの様子は面白い。
冬や春先の南岸低気圧では標高があるだけに雪になる。沼津市はまず雪が降らないところだけに、沼津の住人から雪深いところだとよく馬鹿にされた。
伊豆から見える富士山同様に左に傾いで見える。この角度の富士山ばかり見ている地元の人は、富士山は傾いていて、山腹に
宝永火口のアクセントがないとつまらないのだという。
富士山は円錐形と言うけれども、勿論数学的に完全な円錐でない。北北西から南南東にかけて溶岩噴出孔が走っているため、この線に沿って長径の
楕円形を基本に東に尖ったおむすび型をしている。
従って、噴火口列線に直角な短径側のこの方向から見る富士山が
一番細く見える。左に傾いているのはこの噴出孔列からの噴出物が西の卓越風で東に流され、西側には落ちにくいため山腹が痩せているせいである。
雪が西風にあまりまくりあげられていない「白きたおやかな嶺」
富士山の噴火は有史以来18回記録されており、その内5回が山頂噴火、あとは山腹の寄生火山の爆発である。18回のうち3回は大規模噴火で、
1707年、宝永4年の宝永火口の爆発は約二ヶ月間に亘り、その間二回の大爆発を起こし、麓は壊滅、江戸にも灰が降ったと、新井白石は冷静に
観察記録をつけている。
富士山がその後300年間静かなのはこの爆発によるガス抜きのせいと言われているが、過去にも430年間の休止期があったこともあるので、
富士山は死んではいないとされている。次の爆発も多分、この南東斜面であろうと言う説が有力である。
新東名高速道路は2012年4月14日に開通した。写真でわかる通り、この公園の真下をトンネルで通過して西に向かっている。
右端に見える切り通しの向うにトヨタの東富士研究所があり、敷地の一部を通過して、御殿場JCTに至る。
同公園から 箱根の連山、この景色も好きである。
向かって右から二番目、肩がある峰が箱根駒ケ岳。岩波から駒ケ岳の左にある鞍部に登り、箱根スカイラインに出る峠道がある。
この道は湖尻に下りて仙石原方面にも出られるので、横浜方面への近道と言えるが、狭いうえ、14%斜度が続く短いがタフな道である。
また、麓から見て稜線が見えない場合は、上にいったらミルクの中に突入するような濃霧は必至なので近づくべきではない。
左;1983年11月。二階の窓から。
右;1987年頃?。玄関から。
私が購入した第三回分譲以降、離れた区域の分譲が続いて周辺の分譲が無く、長い事周辺は空き地だった。
一寸離れた場所に家が建ち始めた。
左;二階の窓から、朝焼けの富士。1986年頃?。
右;同じ窓から。2007年1月。現在もかろうじて富士山は見えている。
裾野市といえども、町の中にはなかなか富士山撮影ポイントは無い。ただ眺めるだけなのと写真を撮って見るのとでは手前の障害物の条件が全く異なる。
眺めるだけなら、電柱看板その他かなりの悪条件でも気にならないが、写真を撮って見るとなると電線1本でも気になる。
裾野市街の高い建物としては市役所が一番であろうが、この写真はその近くのショッピング・センターの屋上から眺めた富士山。向かって右、
東斜面は卓越風の風下で噴火落下物が多かった為、稜線が緩やかに伸びやかに美しい。
手前の稜線は愛鷹山の山裾、家並みとの間に頼朝と義経の伝説が残る黄瀬川の渓谷がある。
国道246号線バイパスから。2010年12月
国道246号線は、三桁番号国道にもかかわらず、東京側の始点の通りの名は青山通りという華の国道で、1号線より陸側を松田まで小田急、
松田からは御殿場線に沿って西に向かい、沼津駅近辺で終点になって消える。
現在は松田から西は全線がバイパス化されていて、旧道はごく一部が残されるのみである。
東名沼津インターの下から北に伸びる246バイパスは1980年代頃から漸次工事が進み、昭和から平成に変わる頃には
裾野−沼津間の車通勤ルートとして使えるようになっていた。それまでは246旧道を使っていたわけであるが、
正当に行くと15Km余りに1時間以上かかる為、よその家の軒先をかすめ、開店前のスーパーの駐車場を横切り、
というような各自それぞれのとんでもないルートを開拓していた。スクール・ゾーンを走りたいばっかりに、
途中にある保育園に子供を入れた奴もいた。
この富士山は、裾野から御殿場に向かう途中の左側に見える姿で、直線片側2車線の部分であるが信号がいくつかあるので脇見運転は危ない。
裾野駅
裾野と言う地名は富士の裾野と言う意味で、お察しの通り古来からの地名ではないが、大正年間の1915年に旧佐野駅の名称変更で付けられた
名前が裾野駅だったという古い歴史があり、ここを裾野(The SUSONO)と呼ぶに当たっては、誰にも文句は言わせないという場所だけに良い名前であると思う。
裾野駅(標高123.7m;旧名;佐野駅)は旧東海道線の足柄越えの基地であった沼津駅との標高差が約120mあり、海辺の沼津で石炭を満載、水はそこそこで出発した
蒸気機関車はここで水を補給し、更に331mの標高差がある御殿場に向かった。元々給水基地として設けられたので長大編成の貨物列車も
停車できるよう盛り土や整地、スイッチバックの土手などにより、
現在でも長さだけはめのこ1Km近い構内を持ち東海道新幹線だって止まれそうなホームもある。
ここに二両編成のワンマンカーが停車するのが現代の御殿場線である。
左;裾野駅の無意味に長いホーム。はるか向こうで左に曲がっているホームの手前側直線部分は全然使われていない。
右;ホームの沼津側外れから、信号機の下の白く写っている部分は海(駿河湾)。左右にスイッチバックの引込み線土手跡が残る。
裾野駅のホームからも古風な袴線橋からも富士山が見えるが、建物と電線にスポイルされていてとても鑑賞には堪えられない。
富士の麓に広がる広大なススキの草原で、大縮尺地形図で見ると等高線が富士山を中心にしたきれいな同心円を描いているがその姿が良く判る。
東名裾野インターから十里木・日本ランド方面に登って行く20年位前に作られた観光用道路から北に望む富士山。
東名高速道路が大野原の裾を横切る辺りは、有事の際高速道路上の車を外に出せる唯一の場所でその為の設備もあるという。
南北縦貫道路が出来た頃の大野原。1988年11月。
新車購入記念写真である。
車は1988年カーオブザイヤー、グッドデザイン賞大賞受賞のS-13日産Silvia K'sで、CA18DET 1800CC 175馬力というかなり
過激なエンジン付。CAエンジンはチェリー、パルサーといったFFのファミリーカー用に開発され一時の日産を支えたエンジンである。
CA18DETは、CAエンジンの最後の型で、オリジナルの1200CC SOHCキャブレター から1800CC DOHC電子制御燃料噴射インタークーラーターボ過給にまで
行き着いたもので、発売してすぐフライホイールの強度不足でリコールがかかった。
FRで5速マニュアルミッション、オプションの、HicasII4輪操舵、ABS、HUD速度計(ヘッドアップディスプレイ)、電動ガラスサンルーフ、
エアスポイラーとハイマウントストップランプ、小口径ハロゲンメインビームと何でもありの楽しい遊び車。
時代はバブルだった。しかし、同じ車が今でもあれば多分また買う。この後、ヨーロッパ赴任でBMW525iに乗り換えたが、
シートポジションの違いによる目線の高さの違いから、初めの頃トラックを運転している気分だった。
雪の明日;1989年1月
大野原に雪が降るのは、関東地方と同じ南岸低気圧の時なので、低気圧が行ってしまうと、真っ晴れになる。
この南北縦貫道路を富士山に向かって登って行き、右に曲がると御殿場方面、まっすぐ行くと別荘地や遊園地や動物園脇を経て、
愛鷹山をぐるりと回って富士に出られる。
夏姿二景;1990年6月と2003年9月
厳冬;2011年2月
東富士演習場
1991年9月 総合火力演習
大野原から少し御殿場寄りの東富士演習場にて、国民の前に初披露目の時の90式戦車。
ドイツ・ラインメタル社製120mm滑腔砲の発射音でよい子達をパニックに陥らせた後の展示では監視員付ながら、
ロープも張らず車体に自由に触らせていた。
設計は東西冷戦時代の真っ最中、設計コンセプトは「北海道でソ連の戦車と撃ち合って勝つ」である。従って、大きく重すぎて
北海道以外では身動きもならない戦車と悪口を言われた。