小学校の校歌にいわく
『南の空にそびえたつ 富士の高嶺は麗しく
朝(あした)夕べに窓辺より
強く育てよ少年と 微笑かけるこの胸に』
この小学校も中学校も学校統合で、今は名前も校舎もこの校歌も何もかも跡形も無い。跡地は学校ですらない。
過疎の田舎の宿命とはいえ、母校が消えてしまったというのは寂しい事である。
戦国時代に霧散し去った武田氏を今でも慕う『滅びの美学』の県民性のせいか、山梨県においては、古い建築物や遺構、地名を跡形無く
消し去るに何の抵抗も無い。それは山梨県の市の名前、甲府の町の名前を見れば歴然である。旅人は市名、町名を見て唖然とするであろう。
写真で、向こう側が昭和35年頃新築の小学校、手前側の建物が中学校。占領下の6.3.3学制の新制中学設立時建てられた進駐軍様式の校舎で、
北側に窓が無い暗く恐ろしく風通しの悪い建物だった。
小学校の建築費は当時の費用で2000万円と教わった。同じ頃航空自衛隊が導入を決定したロッキードF104Jは1機4億円と聞かされて
魂消たものである。
私が通った高校は現在でも元の場所に元の名前で残っているが、藩校の流れを汲み、創立当時は甲府のお城の中に校舎があり、旧制高校並に幾つかのオリジナル
のメロディーを持つ固有の応援歌(甲府勤番の城、舞鶴城にちなんで『鶴城に』という応援歌があった)や逍遥歌があるという伝統校も、
学区別総合選抜という入試方法で換骨奪胎され、
一時は校名を口にするのも憚る水準まで落ち込んだと伝えられたが、近年また入試制度が変わって往年の威光を取り戻しつつあるらしい。
その校歌は今でも同じかどうか判らないが、4分の4拍子ながら行進曲にはならない荘重なテンポ、学校の名前が一度も出てこないと言う変ったもの
だったがその三番に富士山が出てきた。
聳え立つ芙蓉の高嶺 清きかな甲斐の山河
諸共に玉と磨きて 賛くべし天地の化育
最後の賛くべしは、たすくべしと歌う。どうです、格調高いでしょう。
地元では武田氏の父祖の地は韮崎であると信じられている。
また、武田氏の人気は他県人には想像もつかない位高いので、ゆめ信玄、勝頼などと呼び捨てにしてはならないし、川中島は語っても良いが、
『天と地と』を熱く語ったり、鞭声粛々などと高吟してはならない。殴られる可能性がある。
新府は1575年、長篠で破れ、人は石垣、人は城の甲斐国を防備せざるを得なくなった武田勝頼公が天正九年(1581年)に真田昌幸を
作事奉行に1年の工期で築いた城で、織田・徳川連合軍の甲斐侵略ルートと想定された諏訪口(南アルプスと八ヶ岳の間。この諏訪口を通して諏訪湖から富士山が見える)から
甲府盆地を守る位置にあり、甲府の古府中に対して新府と名付けられた。単なる山城ではなく、大軍の野戦軍も火力で食い止め、
更には城から出撃して野戦軍に反撃することまで考えられた本格的な城=要塞である。
井上靖の『風林火山』で山本勘介が幼い諏訪四郎勝頼公にあの丘に城を作りなさいませと薦めた場所はここと信じられている。
しかし城(要塞)は、要塞兵による白兵戦での防御を前提にしてこそ城で、城に篭って生き延びようとするには兵隊の頭数が必要である。
いざ織田・徳川連合軍の甲斐侵略を前にして、武田側にはこの城を守るに必要な2000とも3000とも言われる数の要塞兵は既になかった。
防御できないと判っている城に篭ってもその場で殺されるだけなので、勝頼公は自ら城に火を放ち200人の一族郎党、400人の臣下と共に
夫人の縁戚、北条氏の治める相模にも抜けられる大月の要害、岩殿山に向かって落ち延びていく。
しかし、勝沼付近で大月の岩殿山の小山田も裏切った事を知った勝頼公は50名足らずとなった一族ととも笹子峠の北の天目山で自害して果て、
ここに戦国の名門甲斐源氏武田氏は滅び去る。
時に天正十年(1582年)三月十一日。
天目山に入ったのは、死に場所を求めたとも、新府城構築の指揮も執った真田昌幸の上州我妻城を目指したとも言われている。
最後まで勝頼公に従い、追手の前に立ちはだかった土屋惣蔵昌恒の武勇は「土屋の片手斬り」と今でも甲州人に讃えられている。
その兄で長篠の敵陣深くに散った右衛門尉昌次も、信玄公祭の武田二十四将武将行列でなりたい人が一番多いという人気者である。
武田氏滅亡の始まりは長篠の合戦である。この時代、武士は人に仕えるという気風が強く、信玄公時代に武田家に仕えた多くの武将は、亡き主、
信玄公に自分が勝頼公の為に如何に戦うかをご照覧頂くため、兵隊の頭数だけでも3倍の敵を相手に無茶な突撃、後退不可能な深入りを行ったという説がある。
確かに、長篠を織田・徳川ごと
突破すれば、京に手が届くわけで、その戦いにおいて亡き主に怯懦と思われるような振舞いは出来ない。
長篠は500年に亘る武田の恨みの地となり、新府においても長篠に散った将兵の霊が今度は新府を守るために風雲物凄い夜に鬨の声を上げたという。
この霊を慰めるため50年くらい前、長篠から分骨して慰霊碑を建てたが、それでも鬨の声はやまないのだそうで、今でも地元では風の強い夜に
『お新府さん』に行ってそこで見える”__もの__”は見た者に祟ると言われている。
韮崎を過ぎて国道20号線を釜無川に沿って北上して行くと、右側(東側)に高さ100メートル程の崖が延々と続く。
これは八ヶ岳噴火の際の火砕流の西側を釜無川が削り取ってできた崖で、岩肌は脆く、ロック・クライミングなどは出来ない。
崖の上は七里が岩と呼ばれる台地になっており、台地の東側もかなり急な斜面になって国道141号線が走る藤井平という狭い平地を経て塩川が流れ、
茅ガ岳に続く。台地上には先史時代から人が住み、新府城や私の生家もこの台地上にある。
釜無川の流れる面から七里が岩に登る道は古来から要所にあったが、仏坂、ガニ(蟹)坂、野猿返し、などいう凄い名前の付いた登山道に等しい険しいつづら折れの急坂であった。
野猿返しは大武川と釜無川合流点から七里が岩の台地が一部非常に狭くなっている部分に向かって登る坂で、台地を越えて向うに抜けるに良いルートであった。
現在は改修され、トンネルで国道20号線と国道141号線/中央高速を結ぶ道路が出来ている。
大武川と釜無川合流点にかかる釜無川橋は甲斐駒ケ岳の絶好のビュー・ポイントである。
大武川は昭和34年、有名な伊勢湾台風(その年の15号)に先だって本州中部を襲った台風7号により上流で起きた山体崩落の巨岩が襲来し、
釜無川両岸も巻き込んでの大災害を起こした。崩壊した斜面が花崗岩であったため、大武川と合流点から下流の
釜無川の堤体外は勿論、堤体内の田んぼと人間の住む集落も花崗岩の巨石ごろごろの真っ白な河原と化した。
この災害の復旧の為私の生家のある村の西側の里山を削り、その土砂を
七里が岩の崖から落として田んぼに入れると言う工事が、10台余りのブルドーザーを使って随分長い間行われ、村の西側の地形が変わってしまった。
橋の袂の小公園にこの水害(というより岩害である)の被害状況と復旧工事の様子の説明板がある。
釜無川橋から甲斐駒ケ岳。2010年11月。
正面の川は大武川、橋は国道20号線。右から合流しているのが釜無川。
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清里付近からは富士山のみならず、西側の山並みもなかなかである。右写真で、一番右の三角の山容が甲斐駒ケ岳(2966m)、
真ん中が北岳(3193m)と間ノ岳(3189m)、二つの峰の手前~左にかけて地蔵(2764m)、観音(2840m)、薬師(2780)、の鳳凰三山。
日本の山の標高1位と2位が同時に見える場所、というのはそう珍しいというわけではないが(我が望嶽台からも見える)、この場所は、雄大な景色の中に見える
と言う点で、特筆ものである。
北岳(3193m)と間ノ岳(3189m)の標高は4mしか違わないが、間に奥穂高岳(3190m)が割り込んでくるので間ノ岳は標高第4位になる。
富士スバルラインから八ヶ岳と赤石山脈。1978年4月。
右端に浮かんでいるのが八ヶ岳。
中央に白根三山の長大な3000m級の稜線が塩見岳、赤石岳に続く。
北岳の右に鳳凰山、その右に甲斐駒ケ岳が見える。これらは山は青きの私の故郷の山である。
甲斐駒ケ岳の真下の手前の湖は本栖湖。
この写真は今は無きコダクロームで撮ったものである。
栄助一代記の舞台である。
甲府盆地の西の縁にあたり、かっての麦との二毛作田と桑畑は、桃/すもも/ぶどうの大産地になっている。
山梨県の赤石山脈の麓沿い、釜無川/富士川の流域は、北から北巨摩郡、中巨摩郡、南巨摩郡と言った。
生家のある韮崎は北巨摩郡にあたり、中巨摩や南巨摩の親類は我が家の人間には「北巨摩でぇ」と
呼びかけていた。
南アルプス市という無茶な市の名前は、無論赤石山脈の別名から来ているのであるが、
残念ながら南アルプス市の人里からは赤石山脈は見えないのである。
赤石山脈の東側(山梨県側)は、2000〜2800m級の前衛峰に守られているので、甲府付近を限界に、それより近づくと前衛峰
が立ち上がってきて、3000m峰を隠してしまう。白馬山群のように麓の村から白銀の峰が見えるというわけにはいかない。
現在は林道を使って主山脈の麓まで車で行けるが、昭和30年代までは主山脈に登るにはこの前衛峰を徒歩で越えて行かなければならなかった。
白根三山へのメインアプローチルートだった赤薙沢などはそれ自身が高度で辛い登山路だったらしい。
『万智ちゃんを先生と呼ぶ子等がいて神奈川県立橋本高校』;俵万智;サラダ記念日
どうしてもこの歌を思い出す、横浜線橋本駅付近から左車窓に見えつ隠れつしている富士山は終点八王子駅からも見えるが、
中央線で高尾に向かうと隠れてしまい、中央本線からの次の機会としては、大月を過ぎた初狩駅付近からとなる。
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大垂水峠を越え、相模国をかすめて甲斐国に入った甲州街道は、山また山の中を進む。初狩付近も街道の富士山がある南側は屏風のように山が迫っていて、
こんなところから富士山が見えるなどとは想像もできない。実際、この意外性ゆえ江戸の昔から初狩の富士として名所扱いだったらしい。
中央線車窓からも一瞬見える。秒間3コマの連写で2コマに写っていたので、大体1秒間くらいであろう。
山頂が見えるだけであるが、この山頂はかって500円札に採用されていた、最も美しい富士山頂の定評がある、三つ峠/雁ノ腹摺山からと
同角度である事がわかる。
手前の山裾を走る橋梁状の建築物はリニア・モーターカー実験線のドーム;トンネルだそうである。
中央高速下り、初狩PAから
2010年9月19日。 2010年11月2日。
中央高速下りの初狩PAは中央高速随一の有名PAである談合坂SAの次に当るので立ち寄る人は少ない。
本線上のPAの1キロくらい手前で、脇見をすれば、一瞬富士山のほぼ全容が見事に見えるが、PAに入って、
甲府寄りの大型車駐車場前まで行くと、案内板付きの富士山ビューポイントがある。登りの初狩PAからは富士山は見えない。
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甲府盆地の縁の勝沼駅からは富士山は認識出来ない。富士山が富士山らしく見えるようになるのは塩山駅付近からである。
勝沼からは富士山ではなく、甲府盆地越えの白根三山/鳳凰三山/甲斐駒ケ岳の姿を鑑賞すべきであろうが、車窓からは花の季節以外は
汚いだけの桜の木と電線が執拗に邪魔をする。
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