富士山は諏訪湖上からも諏訪口を通して見えるので霧が峰から見えても不思議はないが、遠くで見るほど高いところに見える富士をよく現している。
左から緩やかに伸びているのは八ヶ岳の裾で、八ヶ岳山麓は武田の長槍騎馬隊の軍馬を育んだ地とされている。
現在は清里という悪夢のような場所で有名になっているが、昭和40年代でも、清里・八ヶ岳高原は実に文字通りの牧歌的な
場所で、牧場と野菜畑の間の道路は殆ど舗装されてなく、清里から野辺山に向かう国道141号線もとてつもない悪路だった。
1968年3月。
鉄道最高地点の踏切脇から野辺山方面を見る。
突き当りが野辺山駅付近である。
文部省唱歌『故郷(ふるさと)』の作詩者、高野辰之は信州の生まれだそうである。私は何故か勝手に佐久の人と思い込んでいた。
佐久は霧が峰からは麦草峠を越えたところにあたる。
麦草峠は車で通過出来る峠道としては日本屈指の標高の峠で、途中の縞枯山の不思議な風景は勿論であるが、佐久側に下り始めから
佐久方面と浅間山の眺めも素晴らしい。
左の写真のどこかに写っている、小諸懐古園に富士見台という展望台がある。ここから富士山が見えるのか!、と驚いたのであるが、
地図で見ると直線で110km余りにすぎないので、気象条件さえ良ければ(例えば左の写真を撮ったような日なら)
比較的容易に見えるであろう。
ただし、間に八ヶ岳から続く標高1000m以上の稜線があるので、見えたとしても頂上だけかもしれない。
私が懐古園行った日は晴れてはいたが、どう目を凝らしても見えなかった。
『故郷』は私の大好きな歌で、特に三番の最後『山は蒼きふるさと 水は清きふるさと』はたまらない。以前から
この蒼き『山』は、八ヶ岳か浅間山、浅間山を蒼きと歌うのは変だから八ヶ岳に違いないと思っていたが、残念ながら作者は信州でも
信越国境の出身で、この『山』は八ヶ岳ではないか?、という推定は間違っていた。
兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷
如何にいます父母 恙がなきや友がき
雨に風につけても 思い出る故郷
こころざしを果たして いつの日にか帰らん
山はあおき故郷 水は清き故郷
アルザスの某地で、非常にレベルが高いという評判の少年合唱団による日本の俳句に題材を取った現代合唱曲の演奏というのを聞いた事がある。
在ストラスブール日本領事館の後援だか何かがあって、地元日本人会経由のチケット領布があり、会場にはかなり大勢の日本人がいた。
日本でもレベルの高い現代合唱曲を連続して聞くのは、なまやさしい学問では駄目で、旦那の義太夫の会並の決意が必要であるが、
それがフランス語となると想像を絶する。
とあるワイン村の教会で行われたそのつらい演奏会の最後、故郷を遠く離れた日本人聴衆に贈る歌として『ふるさと』が日本語で歌われた。
この涙腺直撃狙いの不意打ちには降参するしか無かった。
富士山頂の角度から富士五湖で云うと山中湖と河口湖の間で、成田からシベリア経由のヨーロッパ便が日本海に抜ける航空路との交点を求めると
群馬県の館林市の上空辺りではないかと思われる。画面右に見える山脈は赤石山脈であろう。間の中低層の山々は秩父、下に見える川は利根川か?。
この直前、2000年の夏から秋は猛烈なユーロ安旋風が吹き荒れ、1ユーロが一時80円台になるという物凄さで、
ユーロ圏内に工場は持ったものの原材料の現地化までは完了しておらず、日本から主要原材料を輸入していた日系製造業としてはそのコスト
アップで損益分岐点売上高も何もない
状況に追い込まれ、
その対応に御本社に呼び返されての帰りである。従って、この時も一番安い変更不能エコノミー・チーパー・チケットで乗っている。
このユーロ安は12月始め、日本行きの飛行機に乗らんとするその頃から劇的にユーロ上昇に転じたため、
御本社での会議の空気はそれ程深刻ではなかったと記憶している。
飛行機から見る富士山というと、魔の1966年、一説では富士山が良く見えるようにと富士山に近づき過ぎ晴天乱気流に巻き込まれたという
BOAC機(英国海外航空;当時)の空中分解事故を思い出すが、
国内線で羽田を出て西に向かう航空路には横浜上空を通って富士山に向かい、山梨県の甲府盆地南側上空を飛ぶものもあるので機上から
富士山を見たことがある方は多いと思う。
九州からの団体旅行で、片側に富士山が見えるという声に一同どっとそちら側に寄った為飛行機が傾いたという冗談がある。
実際富士山が見えない所の人が地理的に富士山が見える筈の位置に来た時の富士山への憧憬は凄い物があり、
アジアからの観光客は日程に富士山が入っている場合はその日が土砂降りであろうと台風が来ようと富士山に向かわないと承知しないそうである。
私の経験でも外国からの客人を案内して雨の三島駅に着いた時、『この方向に富士山がこーんな大きさで非常に美しく見えるの事よ』と申し上げた瞬間、
客人がその方向を見て固まってしまって、傘をさしたまま動かなくなったという事が二回ある。
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サラリーマン時代、アルザスの元の勤務先会社であった関連会社から業務システム統合の作業の為に、先方の担当の女性二人を新横浜のオフィスに招き
二週間くらい仕事をしてもらったことがある。女性二人を異国にほったらかす訳にはいかないのでアフター・ファイブと休日には関係者交替で面倒を見なければならない。
休日のアテンドを引き受け、江の島/鎌倉に連れて行った。見る物聞くもの感激してくれたが、最も感激してくれたのは、彼女らが目の前の海が太平洋だと
気付いた時で、「私は、今、太平洋を見ている。こんな日がくるなんて……」と涙を流さんばかりであった。
アルザスと言うのは大陸の内部で、大西洋、地中海、北海のいずれを見るにしても1000キロ近い旅をしなければならない。
太平洋の海岸に立つなどは夢のまた夢であったのであろう。
ページの目次に戻る。 旭市飯岡は房総半島の外れにある銚子の手前で銚子の外川と接する漁港で少し回り込むと屏風ヶ浦/犬吠崎に辿り着く。
富士山からの直線距離約185Km、富士山が見える距離として最大級に近い。
2010年1月1日の入日。富士山の角度は正確に横浜市港北区の我が望嶽台からの角度に等しい。
距離185Kmは横浜からのほぼ倍、東京湾、千葉市、北総台地の上空を経ている。
飯岡は天保水滸伝の飯岡助五郎親分の地元である。
2010年1月2日朝、月齢16日。
初漁の漁船。岸ぎりぎりで操業している。
千葉県旭市飯岡
富士山から185Kmというと、北ならほぼ日本海に届くし、西なら伊勢湾に達するが、
この付近には富士山を御神体とする浅間神社が散見されるので昔はかなりの確率で富士山が見えたのであろう。
飯岡浜の脇にある『飯岡荘』の部屋から。
伝によると、元々地元民ではなく流れてきた人で、腕っ節で縄張りを分取ったということらしい。
六尺豊かで体中傷だらけのあばた面、数十貫の石も軽々と抱え上げるとんでもない男であったという。
飯岡荘は、2011年3月11日の地震にともなう津波で大きな被害を受け、長期休業中である。
シンボルの『明日のジョー』のように、一日も早く立ちあがって貰いたい。
飯岡荘ロビーのジョーの人形に違和感を覚える人が多いようであるが、飯岡は、ちばてつや氏ゆかりの地で、
初期の少女漫画『ユカを呼ぶ海』の海は飯岡の海の事である。作品には飯岡駅と共にこの海も何度か出てくる。
聞くところによると、飯岡荘再開には累積返済分含めて10億円近い資金が必要で、自力での営業再開は無理だと言う。近くの簡保施設は
12月から営業を再開する。
頑張れ飯岡荘、「立て、立つんだジョー」。
2016年3月、温泉ガイド雑誌を見ていた連れ合いが「これ、飯岡荘じゃない」と写真を見せた。名前は違っていたが、確かに飯岡荘であった。
紆余曲折はあったが、再開したらしい。飯岡荘の風呂は、海の香り豊かな真黒な湯で野趣豊かである。
刑部岬から飯岡漁港。
画面の左端にある茶色の飯岡漁協の建物の真上の水平線(地平線)との交点にかすかに富士山。
刑部岬というのは、飯岡の一番東端にある岬で飯岡灯台がある。
視界は360度で内水平線は180度くらい、富士山、筑波山などが見えることになっている。
飯岡漁港外。
船の舳先付近が右裾という位置でかすかに富士山が見える。
鰯などの小魚と白魚がこのあたりの海の幸である。
海蝕が激しく故人が詩歌に歌い地元の言い伝えにあった海岸の名所などが失われたが、テトラポットの投入などで砂浜化、
九十九里浜の名前を取り戻している。ただし、荒波時代に獲れたわたり蟹は獲れなくなったという。その代わり、テトラポットに
付く岩牡蠣が名物になっている。夏が旬で生で食べる。
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