望嶽台=横浜市港北区某地
現在の住処を決める時も、とにかく富士山が見えること、富士山との間に邪魔する建物が建つ可能性が小さい事をまずの条件とした。
手前の山は丹沢である。家から見える富士山への入日は10月中旬と
2月末で、この季節の太陽は思ったよりずっと斜めに走る。この日も天辺真ん中に入るかと見えたのに、横すべりして僅かにずれてしまった。
翌16日も良い天気で富士山への入日が見えたが、今度は頂上の南側になっていた。
山頂に太陽が懸かった姿をダイヤモンド富士と云うらしい。私はダイヤモンド富士とは、朝日が光芒を伴って山頂から
出てくる姿だと思う。このような夕陽が沈む姿はダイヤモンドというにふさわしくない。柘榴石位なものである。
太陽が最も南に行く時期、だいたい12月10日ころから1月初めまでそれほど位置が変わらない。
夏は我が家のベランダからは入日は見えないので、太陽と言うのは随分動き回るものである。
雲が富士山から放射状に出ているように見えるが、それは遠近法で言う消失点が富士山近辺にあるためで、
本当は頭上から富士山上空まで雲は平行である。全天を覆うように並ぶロール状の雲は、低気圧の接近の時良く見られる。
雲の写真を撮るのに良く使われる、広角系のレンズによる遠近感の強調、の描写でこのように写る。
周囲が開けているところでは、地平線まで200Kmくらい距離があることがあるので、
観察点の真上と、200Km先の消失点付近の物のみかけの大きさの差は非常に大きい。
地震雲の信奉者のホームページなどで、この「震源地から放射状に出る雲」とか「頭上に出た放射状の雲」といった記述があったら、
そのホームページは信用するに当たらない、管理人は無知蒙昧かルネッサンスの画家以前の遠近感覚しかないと思って良い。
太陽のすぐ左の山は箱根駒ケ岳。右の高台にある変わった形をした資生堂の研究所の建物は今はもう無い。
太陽は12月10日頃から約一ヶ月間、だいたいこの位置に沈む。沈む位置が箱根から離れ始めるとみるみる富士山に近くなっていく。
2010年3月21日。
春分の日の太陽は、丹沢山塊の右の端の方に沈む。冬至の太陽は画面左端の箱根の山の右肩に沈むので角度で約20度北に寄った事になる。
5月の声を聞くと、太陽は丹沢山塊を越えて北に移って行き、我が家のベランダからは見えなくなる。
つまり、我が家は冬は部屋に日が差し込み、夏は逸れてくれるので西日が当たると言う感覚はない。
雪の丹沢
2010年3月。 2014年2月
丹沢山塊も雪をかぶるとなかなかの風格になる。富士山の左に見える三角の山は神々のおわす大山(1252m)、地元で言う雨振山であるが、これは横浜からの角度で一番左に見えるということで、大局の地形では大山は丹沢山塊の海寄りでかつ横浜に寄った(東に寄った)位置にある。
2013年1月。海越しの丹沢。
真鶴から小田原に向かう国道135号線から海越しに見る丹沢山塊は素晴らしい。冬、雪を被った姿などは実に堂々たるものである。
特に一番海沿いに三角に聳える大山の姿は神々しいばかりである。
日本列島とは基本的に違うプレートに乗っている伊豆半島の衝突で出来たという丹沢山塊は、小なりともいえどもインドの衝突でできたヒマラヤ山脈と同じ成因の
褶曲山脈で、地図で見ると基盤の面積は、単発の成層火山である富士山よりかなり大きい。
2013年1月。丹沢主山系の前に聳える大山山系。
上の小田原沖海越し写真で良く分かるが、丹沢の主山系と大山山系の間には大きな鞍部があって、峰が分かれている。この鞍部を越えるのがヤビツ峠である。
大山山系の東側稜線が、丹沢主山系の前に緩く直線状に伸びていて、違う山系である事が良く分かる。
丹沢が、こんな風に見える日もある。
2014年1月10日 2014年2月9日
2009年11月。ヤビツ峠。
相模原の宮ヶ瀬湖から丹沢主山系と大山山系の間を通って秦野に出るヤビツ峠(761m)は曲がりくねり具合、
運転し難さ、景色とも一級品の山岳道路である。秦野側に抜けた時の景色も良い。
右は秦野発のバスの終点、ヤビツ峠頂上バス停と大山への登山道入り口。
2010年2月4日朝。
富士山の南東側に筋状の雲が平行に並んで出ていたためその陰が筋状の模様になって富士山の東斜面に写っている。全体に靄った日ではっきりしとした
筋でないのが残念であるが、あまり見たことが無い珍しい姿である。
複雑な雲
左:2012年6月20日朝。
季節外れの台風4号が上陸し、真夜中に富士山付近を通過して行った。
朝7時50分頃、富士山を成因とした複雑な雲がかかっていた。
台風はまだ仙台沖にあり、強い湿った南風が吹いている。巨大な笠雲の下に何重にもなった笠雲があちこちに懸かっている。
富士山の位置は、大山の西側(右側)が凹んでいる辺りの上に懸っている二重の小さな笠雲の下なので、
超巨大な笠雲は富士山より大分西に寄っている。
手前の丹沢にかかっている孫悟空のきんとん雲状の雲は丹沢起因で富士山とは関係ない。
右;2015年10月27日夕方。
太平洋に湿った高気圧、日本海に優勢な低気圧があって、強い湿った南風が吹いている。富士山起因の笠雲に夕日が当っている。
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大倉山公園
大倉山記念館 2011年1月 雪のあした
東横線大倉山駅脇の丘の上にある大倉山記念館はギリシャ以前の『プレヘレニズム様式』と東洋の様式を組合わせた古典主義建築の第一人者、長野宇平治(1867-1937)の
独創になる建物で、大倉邦彦(1882-1971)により昭和7年(1932)「大倉精神文化研究所」の本館として建設された。銀行建築で名を馳せた長野宇平治の遺作である。
現在は横浜市の所有であるが、この「大倉精神文化研究所」の看板は掲げられていて、付属図書館の蔵書は充実しているらしい。代表的な出版物に神道の精髄を表した書物があり、これは今でも神職必携、いわば神道のバイブルになっているという。
また、大倉山の地名は、ここから来ている。本来の地名は太尾である。建物は、テレビドラマや映画のロケ地としても有名で、大金持ちのお屋敷や、古い時代の役所や学校などを演じたりしている。
建物の裏側は公園になっていて、かなり広い梅園があり、それ巡ってアップダウンの激しい散策路が設置されている。
大倉山公園から夕方の富士 2010年12月
深山幽谷からの景色に見えない事も無い。
実は携帯電話のカメラによる撮影。
大倉山記念館の上層テラスからも富士山が良く見える。大倉邦彦がこの地を選んだのは、富士山が良く見えるからだとも言われている。
紙商で海外旅行も多かったという大倉邦彦のパスポートが展示されているのを見たことがある。日本人がどういう国に入国するにあたっても必ず査証=VISA
が必要な時代であったことを物語るものであった。
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2003年12月。
鶴見川は汚い川ランキングでは日本で三番目には下がらない川である。しかし、多摩丘陵に源を発して東京湾に注ぐとなると、
源流から河口まで両岸に人の営みが絶えることはない上、河口から10Km溯っても潮の加減で水位が大きく異なるくらい流れが緩いとあれば
それもやむを得ないであろう。
実際渇水期には流れている水の殆ど全部が下水処理場や工場からの排水になってしまうらしい。
さらに鶴見川は流域には主に治水を担当としている神々の神社が幾つもおわすという昔から常習的氾濫川である。
洪水の危険は現代に至っても治まっていない。それどころか流域の地面の大部分がコンクリートとアスファルトに覆われた為
雨が降ると文字通りあっというまに増水するようになった。
JR横浜線は雨に弱く、すぐ運休になるが、これは河口から16Km付近の小机−鴨居間が鶴見川に接近しており、増水により警戒水位を越えるから
だそうである。
それでも、流域の治水と水質改善には日本を代表する都市河川として結構頑張っているんじゃないかと思う。日本の端っこの方で何の利用価値も
無いがゆえに何もせずに清流とか言っている川より、身を挺して人間に尽くし、それを人間がケアしている鶴見川の方がずっと偉い。頑張れ鶴見川。
偉いといえば、越すに越されぬと歌われた程の水量があったのに、水力発電のために身を枯らして日本の高度成長のさきがけとなった大井川や天竜川も偉い。
現代日本を全否定する人にとっては悪逆非道の川なのかもしれないが。
横浜市の広報誌によると、流域のアスファルト/コンクリート被覆率は85%、また汚い川ランキングは全国の全河川の中でという訳ではなく、 一級河川(複数の県にまたがる国直轄の河川)の内160余りを選んでのランキングであって、その辺のどぶ川までを入れてのランキングではないのだそうである。
2010年3月30日
この季節珍しく丹沢が真っ白である。
左の写真の画面一番右端に白根山の北岳(3193m)が見えるので一目で日本の山標高1位と2位が見える訳である。
高層ビル
新横浜プリンスホテル42階ラウンジ
2003年6月17日
季節的に夕方の富士山がこれだけ見えるのは珍しい。右は横浜国際競技場(ニッサン・スタジアム)。
この競技場周辺の広い空き地は鶴見川水位調整池で、普段はグラウンド等になっているが、川が増水すると故意に低く設定した堤防を乗り越えた水がなだれ込み
下流の水位を上げない仕掛けになっている。
新横浜にはこのホテル以外に高層建築物がないので42階の高さからの眺めは非常に良い。
反対側の、みなとみらい地区の夜景もなかなかである。
高い所からの夜景と言うのは、真っ暗になってしまってからより、暗くなりつつある、と言う所が良い。これは東京タワーからの夜景でも、
エッフェル塔から眺めるパリも同じである。
それで思い出したが、夜中の夜景が印象的であったのは、シカゴで遅い便の飛行機がミシガン湖上空から市街地上空にさしかかった時の
真っ暗な湖と摩天楼と光の海の対比は素晴らしかった。
勤め先のオフィスから
2005年1月18日(雪の明日)17階のガラス越し。
このオフィスからは白根三山が見える。
勿論北岳(3193m)も見えるので、日本の山の標高一番と二番を同時に見る事
ができる。厳密に言うと、横浜からは農鳥岳が見えないので白根二山である。
白根の北岳の標高は2004年10月15日国土地理院により正式に3193mとされた。これは従来の頂上とされていた
三角点(3192m)が最高点ではなく最高点が別にあったためと発表されている。
この発表後、奥穂高岳頂上(3190m)にあるという
高さ2m以上の大きなケルンが積み増されたかどうかは判らない。
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下り線ホーム、大阪より階段付近
2005年12月。
新横浜駅の新幹線ホームから富士山が見えると云う事を知っている人は少ないのではないかと思う。新幹線に交差する横浜線がほぼ富士山
に向かっているため、その延長線上はビルが切れ、丹沢越しの富士山が見える。その場所は新大阪側の階段からホームに出てすぐの所の右手である。
ビルの隙間は狭いので見えるのは一瞬、通過する電車からではプロボクサー並みの動体視力でも無理であったが、2008年の3月のダイヤ改正で
新横浜駅を通過する列車は無くなったので、理論的には旅人全て見ることが出来るようになった。
新横浜駅は2008年3月に新駅ビルが完成し営業を開始したが、この景色は保存されている。
先日『鉄』ファンの友人に聞いたのであるが、新横浜全列車停車で失われたものは、待避線無の新横浜駅でホームすれすれに通過していく上り下りの『ひかり』や『のぞみ』の風景なのだそうである。新横浜駅はカーブにあるので、時速は180km位に落としているが、
『こだま』に乗る客がたむろしているホームを一気に通過する電車の姿は、「その筋」の人には人気があったのだそうである。
そういえば、2007年6月15日、新横浜駅の上りホーム一番小田原寄りから通過する東京行き『ひかり』に飛び込み自殺という
事故があった。私はその後続の『のぞみ』の次の『こだま』最後尾に乗っていて、一時間遅れくらいで新横浜に着き、ホームに並んだ警官のピケットラインの中を誘導されて、取材陣並ぶ階段方面に向かったのだった。
新横浜駅はJR東海の駅だそうで、新幹線の縄張り内でのJR東日本の線である横浜線利用者への虐待ぶりはなかなかのものがある。
東のスイカは東海の縄張り内にある券売機と新幹線改札では一切使わせないなどの意地悪はまだ可愛いとしてもラッシュアワーや、
スタジアムや横浜アリーナでのイベント時の横浜線ホームの人の波の処理には問題がある。
新幹線駅と、横浜線駅が角度が浅く交わっているため、通路の人の動線のあらゆる曲がり角が直角ではない。従って
鋭角方向への波に停滞が生ずるので誘動員が出ていても。その渋滞は容易にホームにまで達する。運転間隔が狭い時は
まだ前の電車の乗客による渋滞が解消しないうちに次の電車が来る。動線を工夫して、ホームの人間を出来るだけ速やかに改札に誘導する、
逆の流れは速やかに電車に乗せるよう改修しないと、今にホームからの転落などの
重大事故が起きるのではないかと心配である。この駅は、ニッサン・スタジアムや横浜アリーナの観衆という、新横浜駅慣れしてない客だけで
混み合う事があるので、通常の通勤乗り換え駅などとは違う扱いが必要なのではないかと思う。
その横浜線も東急東横線との乗り換え接続駅の菊名駅で快速電車を止めないのでどっちもどっちである。横浜線菊名駅も乗客が交錯し、
ラッシュのギクシャクした不快感を助長する構造である。
(追記;現在は新横浜駅の駅ビル側の自動販売機でもスイカが使え、チャージもできる。また横浜線快速は菊名に止まる。しかしスイカ
で乗った客の新幹線への乗り継ぎは相変わらず手動処理のようである。SUICAで熱海以西の駅の自動改札で脱出失敗すると故意的無賃乗車狙いの犯罪者
扱いをされる)。