私は山梨県北部の南側が開けた高台の村に生まれた。富士山(標高3776m)は生家の縁側からも見えるため
私にとって最も親しい山であり、子供の頃は『富士さん』だと思っていたし、
母は縁側からの富士山を「見事な富士山ですね」と誉める客に「いいえさぁ、粗末なもんですが」と謙遜してしまっていた。
方角は富士山から見て北北西、距離は約45Km。
太宰治が「ほうずきのような」と描写した甲府からの富士山より僅かに西側から見ている。
甲府からの富士山同様に、裾を御坂山系に隠されて3合目付近から上しか見えない。
しかし、稜線と山襞の具合は誠に宜しく、美しい富士山である。
冬の富士山。半導体製造装置の大手TE社がこの付近に巨大な工場を作る前の風景。1977年頃。
左;正月頃の日の出。右;桑畑越しの夕富士。かつて、養蚕日本一として天皇杯まで頂いたこの美しい桑畑も、工場敷地になり今は面影すらない。
TE社が進出しなくても、養蚕そのものが滅びたので、桑畑は他に転作するか、密林状態に放置されるかとなってどのみち面影は無いのである。
古い写真。1969年8月、富士山頂
21歳の時。兄26歳、母53歳。
吉田口から登り、360度の完璧なお鉢巡りをした。
三人三様のバラエティに富んだ服装で、1969年(昭和44年)という時代を感ずる。
兄は陸軍中尉姿であるが、この時自衛官であったので趣味で軍装をしている、と云う訳ではない。私はと言うと、
コットンパンツにセーターとジャンパー、バスケットシューズを履いている。母は、完全に野良装束で地下足袋である。
それでも、カメラのみならず大型三脚をも担ぎ上げたため、この写真はなかなかのアングルで撮れている。
母は8合目付近で相当へばり、ここで待っている、とまで言いだしたが、下山ルートは別の道だとして二人でわっせわっせと事実上担ぎあげてしまった。考えてみると、あの時の母は今の私よりも10歳も
若かったのである。