歩兵第一聯隊 丹生中尉隊 三宅坂 陸相官邸 陸軍省 参謀本部へ




丹生隊の行軍コース

 檜町を出た、栗原、丹生、野中の三隊は、溜池まで縦列で行軍してきたが、溜池交差点を右折して間もなく、警視庁に向かう先頭の野中隊(青)を見送った 栗原隊(赤紫)は永田町台上に上り、首相官邸の襲撃に入る。外堀通り近くにあった首相官邸通用門と , 国会脇を回り込んだ所にある正門から首相官邸に侵入して行く。丹生隊(赤)はそれを横目に新国会議事堂裏を前進、、 ドイツ大使館前を右に回り込み、桜田濠に面した高台にある陸軍省、陸軍大臣官邸、参謀本部のある、所謂「三宅坂上」に雪崩込んでいく。


憲政記念館

 三宅坂上は現在、日本憲政の父、尾先行雄を顕彰する憲政記念館になっている。


三宅坂上の建物群


 勿論、私の想像であるが、残された写真や、今回のツアーのガイドさんの説明などから総合して置いてみた。
 正面が陸軍省、右が参謀本部、間の小さな建物が陸軍大臣官邸である。陸軍大臣官邸には、村中、磯部、香田の決起首謀者も入り、このあと蹶起軍と  陸軍高官との間の文字通り国の命運を懸けた駆け引きの舞台となる。


 左写真;三宅坂から「三宅坂上」に上がった所に広がる憲政記念館脇の公園、国会見学団体の弁当適所。時計塔と噴水池。公園は尾崎翁顕彰一色である。
 中写真;現在憲政記念館脇公園と国会の間にある道。2.26当時この道は無く、陸軍省と国会は隣接していた。
 右写真;憲政記念館前から国会議事堂、当時このあたりは、陸軍大臣官邸前庭にあたる。磯部大尉が片倉衷少佐を撃ったのはこの辺りか。


大日本帝國水準原点標庫

 明治24年に建てられた小さいながらも本格的なローマ様式の建築物で、中に標高24.3900メートルの日本の標高原点がある。その高さは 明治6年から18年間に亘る東京湾の海面の観測値から得られた。近代日本を作ろうと言う先人の心が偲ばれる。


お弁当

 ここで我々の部隊は昼食、宮内庁御用達だという豪華な幕の内弁当。
 蹶起部隊の将校たちは、帝國陸軍の伝統に従って(?)部隊の補給の事は何も考えていなかった。この為、決起部隊は26日のうち から兵隊の食事(食糧補給)が問題になり、最後は兵糧攻めに遭ってしまう。


三宅坂上から桜田門方面  右は、昭和20年11月

 陸軍省の正面入り口は三宅坂側にあったので、まさにこの位置が「三宅坂上」に上がる正面である。
 濠の突き当たりの白い建物は桜田門。右のアンテナがある大きな建物が警視庁。警視庁の建物は勿論2.26事件当時と違っている。
 警視庁をほぼ一個大隊の兵力、約500名の兵士を率いて襲撃したのは歩兵三聯隊第5中隊中隊長で、蹶起趣意書の草稿を書いた野中四郎であった。 週番司令安藤輝三大尉の采配で大量の兵を動員出来た歩兵三聯隊蹶起軍の主力である。この中には、後の人間国宝五代目柳家小さん、当時の 小林盛夫二等兵もいた。
 この大部隊は、警視庁には現在で言う機動隊に相当する軍隊並の集団武力部隊があったためこれへの対応と、宮城警備控将校である中橋中尉指揮する近歩三 第七中隊の約62名が坂下門から入ってこれを開き、野中隊の大部隊を宮城に入れ、宮城の全ての門を占拠する計画があった為だという。しかし、2.26蹶起軍全体に言える事であるが、 これも事前に綿密に練った計画ではなく、「話がつくはず」「うまくいくはず」と「たられば」であって、実際は中橋中尉は坂下門前から追い返され、宮城は蹶起軍に対しては 固く閉ざされたままであった。 野中大尉は2月29日、事破れたりとなった時自決してしまう。

 野中四郎大尉の弟は海軍の野中五郎少佐(出撃時)である。自他共に許す、海軍一の一式陸攻隊指揮官(自身パイロット)だった。
 彼は、特攻機『桜花』について「俺がやってもうまく行かない兵器」と完全否定していた。しかし、昭和20年3月21日、 18機の一式陸上攻撃機に『桜花』を抱いた第一神風特別攻撃隊神雷部隊の隊長として鹿屋基地を出撃した。出撃前、野中少佐は「湊川だよ」と 批判し、以降『桜花』は出さないでくれ、と言い残しての出撃であった。出撃後間もなく米第58機動部隊の グラマンF6Fにつかまり、護衛の零戦隊から引き剥がされた陸攻隊は20分間で全機が桜花を抱いたまま撃墜され、野中五郎も戦死する (戦死で二階級特進して大佐)。  第一神風特別攻撃隊神雷部隊の出撃の場面は遊就館にジオラマ展示がある。

 兄が陸軍、弟が海軍というと、日露戦争の秋山兄弟を連想させる。功なり名遂げた秋山兄弟に対し、悲劇そのものの野中兄弟、 時代と言ってしまえばそれまでであるが。   




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