歩兵第三聯隊 坂井中尉隊 斎藤實邸へ 




決起部隊の行軍コース




 移動距離が長い坂井中尉隊は、歩兵三聯隊を0420に出発した。
 北に向かうには青山墓地沿いに行くのが近いのであるが、途中に第一師団司令部があるので、これを避け、安藤大尉隊を追うように、いったん乃木坂方面に出て 外苑東通りを北上したに違いない。
 さらに斎藤邸に向かうには信濃町駅の手前で右に曲がり、学習院初等科を目指して行くのが近いのであるが、この道は当時貞明皇后がおられた大宮御所 、現在の東宮御所に延々と沿って行かなければならない。武装集団が早朝にこれは畏れ多いとし、外苑東通りを北上、 中央線線路を越えて四谷左門町で右折、路地沿いのコースを選んだ。
 外苑東通りから右折してしばらくは緩く下って行くが、斎藤邸は小高い所にあるので、最後の500メートルくらいは鉄砲坂などと名付けられた 急坂等を曲がりくねりながら登っていく必要がある。この複雑な小路伝いの道と、斎藤邸近くの北向き斜面の積雪の状況について、 坂井直中尉は麦屋清済少尉に命じて24日に地形偵察させてあった。
 三聯隊のからの距離は大凡3.5Km、襲撃は0500であるので、行軍速度は時速5.3Kmと言う事になる。機関銃まで装備した完全武装で 暗い雪道であった事を考えると相当な強行軍といえるであろう。




左門町から斎藤邸に向かう

 外苑東通りの左門町交差点から路地に入る。
 お寺が多い地区で、"最後の剣客" 榊原健吉の墓などがある。
 『吾輩は猫である』に「榊原健吉の弟子のような格好」という意味不明な引用がある。

 斎藤邸に近づくと行く手である東/南が高くなり、アプローチして行く行軍部隊にとってはきつい登りになり、鉄砲坂などいうのも現れる。
 北向き斜面では23日の残雪は相当深く、完全武装の兵隊は難儀したであろう。それも平均時速5.3キロの強行軍の最後の行程である。
 指揮官坂井中尉は雪の翌日の24日に麦屋少尉に地形偵察をさせているが、実際に道路の様子をみると、偵察せずいきなり行くのは無理だっただろうと思う。

 斎藤邸は現在はマンションになっている。その前身は専売公社の敷地であったため、斎藤邸の敷地そのものは分断されずそのままだそうである。北向き斜面で 急な坂道に面している。

襲撃を終えて

 襲撃は0500に始まった。大宮御所に近いため、流れ弾防止で御所方面に銃口を向けないよう注意を払ったと言う。 斎藤實内大臣は40発以上の弾丸を受けて即死した。坂井隊は0515には斎藤邸を離れた。

 引き上げは、往路を戻るのではなく、学習院初等科の塀沿いに四谷見附の交差点に向かうコースをとった。

 陸軍中尉坂井直、新婚17日目の蹶起であった。

渡邊錠太郎教育総監襲撃隊の乗車

 斎藤邸を0515に引き上げた坂井隊は四谷見附、現在の若葉東公園のところで、荻窪の渡邊錠太郎教育総監襲撃隊を分離出発させる。真崎甚三郎の後任 である渡邊教育総監は天皇機関説をも容認するととれるリベラルな思想が皇道派青年将校の反感憎悪を買っていた。
 分遣隊は高橋太郎少尉と安田優少尉指揮する兵員三十数名内小銃手10名、、機関銃四丁で、車両は千葉県国府台の第一師団野戦重砲兵第7連隊の 田中勝大尉が靖国神社に向かうとして、12名の運転兵もろとも連れ出したトラック3台であった。
 四谷見附から渡邊邸まで約12キロ、当時の車両性能や道路状況、残雪の影響などは不明であるが、渡邊邸襲撃時刻は0600前だったというのが正しい であろう。0700説は遅すぎる。渡邊邸襲撃は、畳んだ蒲団を盾に自慢の腕の拳銃で応戦する渡邊総監に軽機関銃の斉射を浴びせる、 と言う凄惨なものであった。警備の警官隊との銃撃戦もあり、襲撃側も安田少尉を含む何人かが負傷している。

 坂井中尉指揮する本隊は、四谷見附から徒歩で三宅坂に向かう。高橋少尉隊も渡邊総監殺害後、乗車して三宅坂に戻る。




中橋隊 高橋邸へもどる目次に戻る 三宅坂方面へ