歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊 赤坂溜池方面へ 




2.26事件の舞台となった場所

 2.26事件とは何であるかについては、他の書物やウェッブサイトを見て頂く事にして、ここでは蹶起軍の足跡をトレースする事で 帝都を震撼させた大事件が、今の東京のどの辺で起きたのかを見ていく事にする。

 二、三の例外(例えば荻窪の渡邊教育総監邸襲撃、興津や湯河原での元老襲撃未遂)などを除くと事件は現在の港区の北部と千代田区の一部の のごく狭い範囲内で起きた。蹶起軍は衛戍地から徒歩で襲撃地に向かい、襲撃後、やはり徒歩で完成真近の新国会議事堂周辺に集結している。


蹶起軍(叛乱軍)占拠地域

 蹶起軍が約四日間に亘って占拠し、鎮圧軍と対峙した範囲は更に狭く、徒歩でも半日あればその外周を回る事が出来る。
 上の地図の赤紫の囲みが蹶起軍の占領地域で、料亭幸楽と山王ホテルは共に占拠地域最外郭の、外堀通りに面しており、宿舎になった。 蹶起軍主力は新国会議事堂(現国会)の西側に位置した。
 青の鎮圧軍の主力は、当然ではあるが首都圏防衛の任がある第一師団で、蹶起軍を出した第一、第三聯隊と佐倉、甲府の聯隊など師団全兵力、 加えて近衛第一師団、同じく蹶起軍を出した近歩第三含む近衛第二師団であった。まさに一触即発で皇軍相討つと言う状況である。
 加えて、陸軍は更に北関東や東北の師団を東京に呼び、大物退役大将を殺され、あるいは重傷を負わされて怒り心頭の海軍も 陸戦隊を芝に待機させ、九州方面で演習中であった連合艦隊を呼びもどし、東京湾には旗艦『長門』以下戦艦4隻を主力とする第一艦隊を仕向けさせた。 艦隊は、28日の朝にはお台場沖で配置につく。蹶起軍が、主構造が完成したばかりで堅牢な新国会議事堂に籠った場合、 艦砲射撃でこれを攻撃する算段であったと言う。お台場付近から国会議事堂まで10キロも無い。さらに当時は間に高い建物も無かったのでお互い静止状態で目視でき、 戦艦の主砲なら初弾必中の距離であった。ただし、一寸でも右に逸れたら宮城に着弾、長門は絶対に発砲出来なかった、という意見もある。

1936年当時の航空写真

 2.26に蹶起した主力3聯隊の衛戍地は極めて隣接していた。特に歩兵一聯隊と三聯隊の営門は歩いて5分と言われる位近かった。

 歩兵三聯隊は現国立新美術館と政策大学院大学の敷地にあった。
 現在、三聯隊の建物は、中庭を囲んでいた主要部のごくごく一部が国立新美術館の一部として残されているが、これだったら残さない方がまし、 という感じの残し方である。

 対して一聯隊跡は、防衛庁本庁を経て東京ミッドタウンとなっている。ここには昔を偲ぶ片鱗すら残っていない。

 近衛歩兵三聯隊跡の一部はTBSの敷地になっているが、ここでも昔を偲ぶ術はない。。

歩兵第三連隊
 新国立美術館の中に、美術館の一部として歩三の建物の一部が残されている。

 建物の丸みを帯びた部分は航空写真で判るようにオリジナル建物の一部分である。
建物に付いている中庭への通路のスロープもオリジナルである。




新国立美術館ロビーにある模型。

 青囲みが残されている部分。屋上の構造物は残されていない。
 写真の右側の建物の一部が欠けているのはカットモデルになっている部分。

 航空写真通りの構造で、丸みを帯びた長方形の建物の内側に中庭があり、中庭にも長辺方向に建物がある。

 兵舎部分の屋上には洗濯物の物干し場がある。  カットモデル部分は、兵士の宿舎で、緑色部分は窓と平行の方向のベッド、真ん中は机と長椅子。手前の屋上部分は カットした部分の上部と云う趣向で建物の外側の位置に置いてある。


歩兵第三聯隊から歩兵第一聯隊への道
 左写真
 三聯隊を背に一聯隊方面を見る。高いビルは一聯隊-防衛庁跡の東京ミッドタウンのメインビルディング。
 反対側の歩道の団体は我が味方で、三聯隊に向かっている。
 右写真
 フランス料理の『龍土軒』があった場所=茶色のマンション。
 両聯隊の営門からそれぞれ歩いて数分の距離。両聯隊の 若い将校が通った店で、当然2.26事件の関連将校も通い、密談をこらしたという。
 背中側が三聯隊、向うに行くとすぐ外苑東通りに突き当たり、通りの向こうが一聯隊である。こんなところで密談をこらしたら、 そりゃ胡乱な奴らがいる、と評判にもなるだろう。龍土とは当時この辺りの町名である。


 左写真。
 外苑東通り。左に行くと乃木坂・青山方面で、安藤隊、坂井隊が進んだ方向である。望嶽台主人にも勤務先が南青山地番でこの通りに面したビルにあった時代があり、一寸懐かしい。 とはいえ30年前の事、面影は全くないし、あっても記憶がない。
 黒いPの標識の左及び奥側は公園になっているが、それも第一聯隊跡地である。

 右写真。
 東京ミッドタウン前。歩兵第一聯隊の跡地で、その後防衛庁の本庁があった。



檜町公園

 歩兵第一聯隊の裏手にあたり、2月26日早朝、第一聯隊の蹶起軍が集結したところ。

 振り返ると兵舎および営庭があった場所に超高層ビルが聳え立つ。

 警視庁襲撃隊の歩兵三聯隊野中大尉隊500名は歩兵第一聯隊の裏門から入り、ここに集結した。野中隊は新兵教育の為の内務班編成を戦闘用の中隊、すなわち 小隊/機関銃分隊に編成しなおしていた。野中中尉隊を先頭に、首相官邸襲撃の栗原中尉隊300名、陸軍大臣官邸襲撃の丹生中尉隊170名、総勢1000名 近くが、ここから氷川神社前を通り、赤坂溜池方面に向かった。
  丹生中尉の隊には前夜から歩一入りしていた二人の民間人(村中孝次元大尉、磯部浅一元一等主計)と、歩一第一旅団副官の香田清貞大尉が同行していた。



2.26事件と雪。天気図;1936年2月26日正午

 典型的な、南岸低気圧の気圧配置である。この低気圧が関東地方に降水をもたらし、これに北から吹き込む寒気が気温を下げて雪にする。 東京都心に積雪があるのは、この気圧配置の時だけである。低気圧は移動性で、降雪時間はせいぜい半日である。

 2.26事件というと雪である。「降りしきる雪の中、青年将校に率いられて営門を出た蹶起軍はそれぞれの 襲撃目標に向かった…」は決まり文句であるし、中には「前夜から 降り続いた雪は積雪30センチを越え、東京の観測史上三番目の大雪となっていた」などという記述も見られる。

 気象庁の記録によると、東京都心(大手町)では、2月23日の0440〜2045の雪が積雪35.5センチと東京の観測史上三番目の大雪となっていた。
 24日、25日は積雪無しで、23日の残雪は26日朝公式に12センチ(日向の芝生上)であった。
 2月26日には雪は降ったが、都心での降り始めは0808であった。雪は終日降り続け、夜には新雪が10センチあまり積もり、旧雪 と合わせて20センチを越えた。

 蹶起軍は、0400に行動開始、0510頃には襲撃を終えていたので、地上、特に日陰には23日の残雪が相当な深さで残っていた であろうが、営門を出て襲撃を終えるまで、気象庁公式記録では雪は降っていなかった事になっている。  従って、「降りしきる雪の中、青年将校に率いられて営門を出た蹶起軍はそれぞれの 襲撃目標に向かった…」というのは、雪の描写に関しては問題がある。
 襲撃時雪が降っていたという2.26事件の当事者の証言が複数残っているという。複雑な東京の地形であるので気象庁があった大手町より、地形的に雪が降りやすい 場所があり、午前5時には雪が降っていたところもあったかもしれない。しかし、新雪が積もるほど降っていたとは考えられない。 基本的には、雪はあった事はあったが、それは足許であった。それと、2月末のその時間、襲撃は終始真っ暗な中で行われたことになる。無茶苦茶寒い日であったらしい。


第一聯隊を出てすぐの檜坂

 暗闇、おそらく20センチ以上の残雪、いきなりの急坂、40キロの背嚢と小銃ないし機関銃を持った兵隊のスリップダウンが続発したであろう。動員された 兵隊は東京と埼玉出身の兵が大部分で、雪に慣れていたとは思えない。


 檜坂を登りきると左に曲がり、今度は100メートル位の急坂を一気に下る。下りきると、氷川神社へのかなりの登りになる。
 75年前のこの辺り、昼なお暗い感じであったと想像される。午前4時頃、暗闇と深い残雪の中の行軍が続く。    

氷川神社

 この石碑の文字は、昭和9年10月、内閣総理大臣岡田啓介謹書とある。2.26事件の1年一寸前で、 岡田啓介は、2.26事件当時も総理大臣で、襲撃目標の一人であった。
 岡田を狙った栗原隊はこの氷川神社に参拝したという。まだ真新しかった石碑の書の主を知ってか知らずか。



 氷川神社は播州赤穂家浅野内匠頭の夫人瑶泉院の生家である三次浅野土佐守の下屋敷であった。

 討ち入り前日、大石内蔵助は実家に身を寄せていた瑶泉院に暇乞いに行くが、瑶泉院の身の周りにいるスパイから 吉良方に計画が漏れることをおそれて、討ち入りのことは忘れたようにとぼける。 嘆き、なじる瑶泉院を前に、内蔵助は主君の仏前に巻紙を供えて去る。それは明朝の討ち入りを記した連判状であった。
「南部坂 雪の別れ」の一節。



 その南部坂の下り口。小さな坂である。右の土手の上はアメリカ大使館宿舎。アーク森ビルが正面に見える。

 栗原隊は南部坂を右に見て直進し、現在のインターコンチネンタルホテルの前辺りで六本木通りに出、左折して溜池に向かった。
 航空写真からだと、南部坂から先は鬱蒼とした林の中の道だったようである。  連れられている兵隊は、東京に土地勘があったとしても、赤坂六本木付近の出身でもない限りどこを歩いていて、どこに行くのか見当もつかなかったであろう。




六本木通りに出てからの蹶起部隊


 三隊は、溜池まで四列縦隊で進み、当時三叉路だった溜池交差点を右折した。
 先頭の野中隊はそのまま外堀通りを直進して虎ノ門交差点を左折、桜田通りを警視庁に向かった。後続の栗原隊と丹生隊は、外堀通りを出てすぐ特許局手前を左折して永田町台上に向かった。
 栗原隊は、坂を上がると左手にある総理大臣官邸の通用門および、正門から突入した。  丹生隊は総理大臣官邸脇から新国会議事堂の裏側を進み、ドイツ大使館に沿って右折、三宅坂上にある陸軍省、陸軍大臣官邸、参謀本部を占拠した。
 同時に上層部工作担当すなわち事件の首謀者とも言える、村中孝次元大尉、磯部浅一元一等主計、香田清貞大尉も陸軍大臣官邸に入った。

 いずれの部隊も複数の軽機関銃および重機関銃を持った数百名の歩兵という大兵力で、警備側が抵抗したとしても抗しきれるものではなかった。 特に警視庁襲撃隊の野中隊は500名(ほぼ4個中隊=1個大隊分)と言う蹶起軍最大の兵力であった。

 襲撃後、蹶起軍は三宅坂上、赤坂見附、虎ノ門、桜田門に歩哨線を敷き、青山通り、外堀通り、六本木通り、内堀通りに 囲まれた日本の中枢部を占拠する。

昭和11年頃の東京絵葉書から

 左写真;首相官邸から見た新国会議事堂。写真中央の門は、栗原隊が雪崩れ込んだ正門。丹生隊は国会議事堂に沿って直進した。
 右写真;昭和6年完成の警視庁。右に新国会議事堂が写っているので昭和11年以降の撮影である。




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