飛行機見聞体験記;


私は飛行機が好きである。何より機械として複雑巧妙で三次元に運動できると言うのが素晴らしい。 見るのも、飛行機の事を調べるのも、乗るもの好きである。この章では飛行機に関する思い出について述べる事にする。


目次

   1.バーゼル空港
     フランスとスイスの国境にあるまたの名をユーロ・エアポート。その構造は結構ユニーク。

   2.SAAB2000 輸送機 ターボシャフト双発;スウェーデン製
     クロスエアの愛称はコンコルディーノ。私が最も乗った回数が多い機体。

   3.SAAB340 輸送機 ターボシャフト双発;スウェーデン製
     約30席のベストセラーコミューター機。SAAB2000の母体の機体。やかましいのが玉に瑕

   4.ABRO-RJ;輸送機;ターボファン4発;英国製
     クロスエアの愛称はジャンボリーノ。ふんわり降りて静かに止まる太めの機体。これに乗るのは好きだった。

   5.BOEING767;輸送機;ターボファン双発;アメリカ製
     現在の日本国内便の主力をなす、双発のワイドボディ大型機。イグアス空港に救援に来たVARIG機。

   6.BOEING757;輸送機;ターボファン双発;アメリカ製
     ナローボディで長い胴体を持つ大型機。イベントの大量客を捌く為にハノーファー空港にやってきた。

   7.DOUGRAS DC8;輸送機;ターボジェット4発;アメリカ製
     ボーイング707と並ぶ第一世代の大型旅客機、日本航空の鶴丸とともに。たった1回だけ乗れた。

   8.L-1011 TRISTAR;輸送機;ターボファン3発;アメリカ製
     世を震撼させロッキード事件。革新的な傑作機と言われたが、結局成功せず。ロンドン-パリ間に就航していた。

   9.DOUGRAS DC-10/MD-11;輸送機;ターボファン3発;アメリカ
     トライスターのライバル機。設計上の欠陥から大事故を起こしたが、MD11として延命、故スイスエアのチューリッヒ便。

   10.EMBREAR EMB120;輸送機;ターボプロップ双発;ブラジル製
     SAAB340よりやや小ぶりの2+1座席配列のコミューター機。故サベナエアが就航させていた。

   11.BOEING747;輸送機;ターボファン4発;アメリカ製
     B747の型番は知らなくてもジャンボの愛称を知らぬ人とて無い大型機。誰でもきっと一度は乗った事がある。

   12.日本航空機製造 YS-11;輸送機;ターボプロップ双発;日本製
     日本の手練の戦闘機設計者たちの集大成。四国便で

   13.デハビランド・カナダDHC−6ツインオター;輸送機;ターボプロップ双発;カナダ製
     コミューター機というより僻地用機。グランドキャニオン上空遊覧飛行。

   14.BOEING737;輸送機;ターボファン双発;アメリカ製
     フラグ・キャリヤのみならずチャーター便専用エアラインにも愛用されている中型機。

   

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バーゼル空港

 ヨーロッパ駐在時代は全ヨーロッパがテリトリーの営業職だったので、最寄空港であったスイスのバーゼル空港をベースにして飛行機にはそれなりの回数を乗った。
 ここでバーゼル空港と簡単に言ったのであるが、この空港は小さいがややこしい空港であった。飛行機の思い出の手始めにこのバーゼル空港から入る。

 バーゼル空港はスイスの北部の都市バーゼルの郊外で国境を越えたフランス領にある。
 バーゼル市街から空港に行くには、スイス領から フランス領へと続く、一本道のスイス領扱いの道路を使うが、この道路は空港専用道路で脇にそれる分岐はない。
 一方、空港そのものはフランス領にあるので、フランス領からは自由に空港にアプローチできる。

(さあ、ややこしくなってきました……)。




GOOGLE EARTHから。

 1.ターミナルビル
 空港は、1999年頃から長い工事期間を経て改修されていった。当初はターミナル・ビルにボーディング・ブリッジは1つしかなく、 2001年始めまで事実上全ての行き先の便が、滑走路から向かって右の低い白い四角い低層の建物のゲートから沖止めの飛行機までバスによる輸送だった。

 2.フランスの高速道路A36;もうすぐスイスとの国境になる辺り。
インターチェンジにゲートが無い事から判るように、アルザス州の二つの県内に於いては高速道路は無料である。 フランス側からはこのインターチェンジを出ると、大きなロータリーを経て空港に直接アプローチできる。

 3.スイス側のバーゼル―空港連結道路。
高速道路の脇をフランス領内の道路を避けたり跨いだりしながら伸びている。 この道路はフェンスで囲まれていて、道路の途中のフランス領には出ることも入ることも出来ない。

 この空港は大都市バーゼルに空港が欲しいものの領内に適地がないスイスが資金を出し、フランスが土地を出してバーゼル北方フランス領に 建設したと言う空港で、EUROAIRPORTと言い、バーゼル(スイス)、ミュールーズ(フランス)、フライブルグ(ドイツ) の最寄空港と言う事になっている。フランスの国内便の時はミュールーズ空港と呼ばれる。

 ということで、この空港は二重国籍で三つの名前(バーゼル空港、ミュールーズ空港、ユーロエアポート)を持ち、利用するには それぞれの特性に応じて正しい方法をとらないと妙な事になったり戸惑ったりする貴重な空港なのである。


バーゼル空港発着の国際線として乗る場合。

 フランス側から乗るとき。

1.フランス国のパスポート・コントロールとセキュリティ・チェックを受ける。
2.このとき、係官の気分によってはフランスの出国スタンプを押す事がある。
3.セキュリティ・チェックを抜けるとそこはドイツ語圏のスイスで、免税店もあり、値段はスイス・フラン表示、アナウンスの第一言語は 『まいねん・だーめん・へーれん』のドイツ語になる。
 免税店の利用方法は普通の空港と全く同じであるが、チューリッヒ、ルガーノ、ジュネーブと言ったスイスの空港がディスティネーションの 搭乗券では、フランス側でチェックインしたのであっても利用できない。店は規模は小さいがドン・ペリニヨンが名だたるアムステルダム・スキポール 空港より安いという評判だった。
4.フランス国内便ロビーとは壁で仕切られ、行き来は出来ない。
5.英国行きのフライトの時は搭乗口で搭乗券と共に再度パスポートの提示を求められる。
6.到着空港では、それがパリであってもEU外からの到着便(当たり前ではあるが)としてアメリカやアジアからの到着客と一緒にパスポートコントロールに並ぶ。
7.どこの国でも日本のパスポートを見せると、ほぼ100%の確率で入国スタンプを押される。そこがパリで俺はフランス領から来たなどと言っても無駄である。
8.従って、セールスマンのパスポートは数年でべたべたになり、査証欄増ページ、さらには査証欄無し、旅券無効と言う事態になる。

 10年間有効の査証欄は48ページある。パスポート有効期限内にこの査証欄が一杯になりそうになったら、発行官署で一回だけ、 査証欄増ページができる。 増えるのは24ページで、本来の査証欄最終ページへ続けて非常に精巧な貼りつけ処理され接合部に割り刻印が打たれる。 これが再び一杯になったら有効期限内であってもそのパスポートは無効となる。

 余りに沢山査証スタンプが押してあるので、普通はスタンプを押さないような場合でも「よし俺も」と押したくなる気になるのか無闇と押された。
 一体職業は何なのかと云う興味津々の調子で聞かれることも多々あった。
 普通 「私はセールスマンである」 「何のセールスマンか」 「XXXである」位で許して貰えたが、 厳しい(うるさい)ので有名な英国の入国審査官はそのくらいでは諦めず(英国では以上の質問は観光目的含む入国者全員に対してする)、 さらに「わが国の顧客に対して良いセールスマンであるか」と聞かれた事がある。 意表を突かれて一寸びっくりしたが「オブコース」の一言で許して貰えた。


バーゼル空港に国際線ないし、スイスの空港から到着してフランス入国の時

1.パゲージ・クレームで荷物を受け取る。
2.並んでいるフランスとスイスのパスポート・コントロールのうちフランス側のコントロールを受ける。(スタンプを押される事がある)
3.フランス税関の荷物チェックを受ける。
4.フランス入国となる。

 スイス入国の時は脇に並んでいるスイスのパスコンに行く。

 当然間違える人も出てくるので、入国すべき国を間違えた事が確実である事が認められると、パスコンの逆行が許される。
 私は経験が無いが、スイス入国の際はパスコンを出るとそこはスイスで、待っているタクシーもスイスの車で、 専用道路内はバーゼル市内同様との事である。

 流石にドイツ国に直接入出国できるゲートは無いので、フランスかスイスかを通過する事になる。
 スイス―ドイツ間には陸路でもかなりうるさいパスコンがあるので、ドイツからこの空港を利用する人は車利用が普通であり、 高速道路が繋がっており、ドイツ国境がフリーパスのフランス通過を選ぶと思われる。
 汽車の場合は、一番近い駅はスイス国鉄でもフランス国鉄でもバーゼルにあるのでバーゼルに行くであろう。


 ただし公衆電話はドイツを含む三カ国の物があった。

 左から何故か取り付け位置が低いフランス、真ん中スイス、右ドイツ。これらは、それぞれの国の通貨かカードを使う国内電話扱いである。


 黄色の点点がある道路が、スイス側のアプローチ道路。
 黄緑色の囲みがスイス扱いの区域で、ターミナルビルの外ではスイス国領扱い、 ターミナルビル内はスイスの国際線空港扱いになる。
 黄色囲みでない所はフランスで、スイス扱い区域との通路は(空港職員は別として)空港内のパスポートコントロールデスクのみである。
 空港ビル内もフランス区域はフランス国内線扱いになる。

 フランス国内便利用の時は全く同じ空港なのにミュールーズ空港となる。

1.フランス国内便専用ゲートでセキュリティチェックを受ける。
2.そこを抜けても依然としてフランスで、フランス語表示、アナウンスもフランス語である。売店はあるが免税店はない。
3.パスポート・コントロールはなく、到着空港でも例えばそこがパリならフランス国内便であるからパスコンはない。

 するとどんな事が起きる可能性があるか。

 パリ往復、行きはエール・フランスの国内便、帰りはクロスエアの国際便、実はパスポートを家に忘れているのに、出国時にはそれに気がついて いない、と言う状況の時。

1.行きでは、パリの空港到着時にはパスポート・コントロールが無いので、バーゼルでのチェックイン時に提示を求められなければ、パスポートを忘れている事に気がつかない。
2.帰りにパリのクロスエアのチェックイン・カウンターで、無い事に気がつく。これは国際線なので必ず提示を求められる。
3.落としたかと真っ青になるが、頭の中をすったもんだしたあげく、朝忘れたのであろうということに考えが行く。
4.しかし、予約のクロスエア国際便には絶対に乗せてくれない。当たり前である。パスポートには日本国政府の名前で このパスポートの保持者(だけ)への保護の要請があるが、逆に必要な時パスポートを持っていない外国人はそれだけで犯罪者である。
5.対応策としてはクロスエアをキャンセルして、エール・フランス便に乗るしかないが満席や便そのものが無くて駄目、シャルル・ドゴールではなく オルリー発になる、ミュールーズ行きは無くてストラスブール行きになる、等々の面倒が生ずる。

 これは私ではないが実際にあった話である。同僚駐在員が日本からの出張者をアテンドして日帰りの旅程でパリ出張した。彼は出張者に、わざわざパリ日帰りにパスポートは 要らない、パリは物騒だから大事なパスポートはホテルのフロントに預けておけとアドバイスした。信じた出張者は、パスポート無しで出かけてしまった。 同僚は駐在員の性として常時パスポート携帯していたが、出張者をパリに置いて一人で帰って来るわけにはいかない。彼等は翌日オルリー発ストラスブール着で帰って来た。






SAAB2000;輸送機;ターボプロップ双発;スウェーデン製

 21世紀に続く航空機、という意味を込めて2000と命名されて、1988年12月15日に計画が発表され、即日に クロスエアから25機の受注を得た。

 前身のSAAB340のストレッチ型であるが、エンジンはアリソンGMA2100Aの4550馬力、プロペラはダウティ社製の 6枚羽の複雑な形状の物に換装されており、飛行時の爆音は低く、アーカイバル音源で聞く大戦中の4発爆撃機を思わせる。

 巡航速度は670Km/hであるが、高度6000mまで11分というパンチの効いた上昇性能で、1000Km以下の都市間の 出発/到着の実所要時間ではターボファンジェットに負けない実用運行性能を誇る。

 SAAB2000は、私が最も沢山の回数乗った機体で、記録によると107回乗った事になっている。
 この種の機体に乗り慣れると、どの席からも外が見え、離陸の時エンジン音が大きくなり、スタートから25秒くらいで脚が地面を 離れる感覚になるのにも慣れる。そして、たまにB747の通路側に座ったりすると、全く外が見えないままスタートから 35秒位経っても脚が地面を離れる感覚が来ないので不安になる。この10秒は長い。

 機体がSAAB340のストレッチであるから長さに比較して直径が小さく、外観は非常にスマートで、この機体のユーザー第1号として 大量運用していたクロスエア(現スイス・インターナショナル)は『コンコルディーノ』と称していた。
 実際クロスエアの真っ白の塗装でチューリッヒなどに駐機しているところを見ると、非常にスマートに見えて乗ってみたい気分にさせた。
 しかし、スマートに見える飛行機は中が狭い。乗り込むとまさに空飛ぶ土管であり、天井は低く、オーバー・ヘッド・コンソールは狭く、相当な圧迫感である。 クロスエアはバーゼル空港が本拠地で、こことチューリッヒ空港をハブにしてヨーロッパ各都市をこうした所謂コミューター機で結んでいた。

 クロスエアは、バルセロナ−バーゼル間くらいでもSAAB2000を使っていた。このフライトはバルセロナ近くで短時間ではあるが、 いったん地中海上空も飛ぶので ヨーロッパ域内線では珍しくライフジャケットのデモンストレーションがある。何故かガラガラ状態だったある時、若いスチュワデスが、 身に着けたライフジャケットの紐の一本を肩先で振り回しながら『さあ、ショウタイムよ、皆んな私を見て』と身をくねらせてにこやかに現れ 『駄目よ、ちゃんと見てなくっちゃ』と色っぽく例の動作をして見せたくれた時は、まばらな乗客が湧きに湧いた。 仕事帰りの私はビジネス席にいたのでまさにかぶりつきでの見物だった。
 日系のエアラインのキャビンアテンダントのきりりとした振る舞いからは一寸想像つかないが、クロスエアのスチュワデスなら この位の事はやるのである。





SAAB340;輸送機;ターボプロップ双発;スウェーデン製

 この機体はかなり売れた機体で、日本やアメリカでも運用されていた事がある。基本的に2+1、10列の33人乗りであるが、アメリカで乗った機体は 最後部の真ん中にもシートがあったので、これは34人乗りであった。

左;世界航空機年鑑1977年版の裏表紙。


 早朝のバーゼル=ユーロエアポートのSAAB340とSAAB2000。
 上写真の奥側2機はSAAB2000である。
 2001年8月31日0645頃。


 アムステルダムのスキポール空港内の飛行機模型専門店で買ったクロスエアのSAAB340。
 SAAB340の1号機は1984年6月6日に納入され、6月14日に本拠バーゼル空港からパリ行きで 営業飛行した。この機体の塗装はその当時の物である。

 YS-11が引退する頃の同好の志との酒場談義で、YS-11は大きさが中途半端なのだ、定員が半分位で巡航速度は同じとし経済性に優れた ターボプロップ双発機を作れば売れると力説した奴がいて、周りからそのコンセプトはまさにSAAB340ではないかと 大受けに受けた事があったが、30人程を乗せて500Kmほどを飛ぶ機体としてはベストの機体である。

 1980年にサーブ・スカニア社とアメリカのフェアチャイルド社の共同開発機として計画発表され、1983年1月25日に 原型初飛行、1984年にクロスエアが1号機を就航させ、SAAB2000導入以前に大量に運航していた。 エンジンはGEのCT-7、1750馬力。巡航速度は470Km。

 9.11前ののどかな時代、クロスエアのSAAB340がオーバーブッキングし、コックピット内の予備席みたいなところに一人 乗せたのに出合った事がある。これは非常に羨ましかった。
 バーゼル発ミュンヘン行きフライトで左のエンジンカウルのネジが外れたか何かでめくれあがった事があった。このときばかりは着陸停止直後に パイロットが飛び出してきた。

 普段のクロスエアのパイロットは極めて愛想が良い。クロスエアは全席統一の紺の革張りシートで、午後の便では、地上に居るうちにこれもまた 極めて愛想の良い、おしなべて若いスチュワデスがクラスを問わずシャンペンを配る。そこへ機長が挨拶に来て歓談したりした。 流石に向こうは飲まなかったが、 がらがら状態だとバランスのためか、歓談のうちにおまえあっち、あんたこっちと客の体重を値踏みして席を指定して分散させ、 主翼の前のビジネスクラスシートは喧しいから後ろに行ったら、などと勧めてくれたりもした。

 全席シートが変わらず、シャンペンが配られ、その上で喧しいシートに座らせられる ビジネスクラスって何だ、とお思いになる方も居られようが、まず、降りる時早い。 降りるのが遅れ、パスポート・コントロールの列に並ぶ順が後ろになった場合、前にこじれにこじれる奴がいないとも限らないのである。
 さらにこちらの方が実利的であるが、便の変更が自由自在でマイレージが余分に付くというメリットがある。 マイレージが余計に付くと、会員としてのグレードがアップするのも早く、プライベートの旅でエコノミーチケットの時でも家族を引き連れて ソフト・ドリンクやスナック・サンドイッチは勿論、アルコール飲料までフリーの ラウンジが使えるようになる。これは子供に対しておとーさんの威厳を示すのに絶好である。

 仕事で日常的に飛行機を使っていると、長い待ち時間を避けて早い便に乗りたい、予約の便が遅れるので、早い便に 変えたい、ミーティングが延びた、などでかなり頻繁に便やルートの変更の 必要性が生ずるので、ビジネスクラスにしておくのはメリットがある。よくある乗り継ぎ便のダイヤの乱れや山猫スト(単一航空会社の単一労組の抜き打ちスト)による キャンセル対応経路変更などにもビジネスクラス客は優先してくれる。
 ロンドン発などでは、シティ・エアポート発便からLHR発便への変更が電話1発で出来た。
 第一、前日とか3日前といったチケットの手配での買い方では、フライト時間が1時間程度のチケットはエコノミーもビジネスも大して値段は 変わらないのである。それでも律儀に展示会など時間的制約のない出張の場合はエコノミー・チケットを使った。

 クロスエアのスチュワデスは概して若く、愛嬌が良いというのはヨーロッパのビジネスマンの間では共通の認識であった。
 ベテラン・スチュワデスは当時の親会社のSR=スイスエアに吸い上げられるからLXは常に若いのだという説があったが、全員 英/仏/独、人によりさらに伊/西を自在に操るお姉さん達は不思議にも客の言語を顔を見ただけで嗅ぎ分け、 一発で当りの言語で話しかけるのであった。 これは会社の同僚の間で不思議がられたものである。もっとも我々日本人には英語と決まっていた。

 それで、席に着くとすぐガラスのフルート・グラス入りのシャンペンを持ってきてくれ、フライト中もそれ飲めやれ飲めで勧めてくれる、 『ミモザ』という素敵な名前のシャンペンとオレンジ・ジュースのカクテルを教えてくれたのもクロスエアのお姉さんであった。 これは、シャンペンが自前なら絶対にオレンジ・ジュースを混ぜるなどという発想は生じないカクテルである。
 ヨーロッパのリゾート・ホテルの朝食にはオレンジ・ジュースは当然であるが、シャンペンと言わずとも地元産の発泡性ワインがさりげなく 隅っこに隠すように冷やしてある事が多く、 これを探し出して『ミモザ』にするのはリゾートの朝の楽しみであった。これにマスカットの数粒とカマンベールの一片があれば 言うことはない。別にそれが高級リゾート・ホテルというのではなくて、一週間売りのプチ・ペンション(朝晩二食付滞在) なら庶民も家族連れで楽しめるバカンスのホテルでもその楽しみはあった。

 さらにクロスエアといえば金貨チョコレートにキャンディである。直径10センチくらいの金貨チョコレートは、非常に甘いミルクチョコレートで 溶けやすく貰ってポケットに入れるのは危険な代物であったが、バスケットに山盛り盛ってきて、2〜3枚取ったのでは「それだけで良いのか、 もっと持って行け」と言うし、キャンディも1個や2個では承知せず、「赤いのより、オレンジ色のほうが美味しいと思う、白いのは一寸ね」といった具合に 個人の趣向によるリコメンドも入るのであった。

機内販売でナイフを買ったのもクロスエアであった。

 勿論、9.11以前の古き良き時代のことである。
 ボールペンとの対比でもお判りのようにそれなりのサイズで、メインブレードはサラミソーセージくらいならすっぱりの刃渡りと切れ味である。
 WENGER製で、爪やすりと鋏がセットになっている。








ABRO-RJ;輸送機;ターボファン4発;英国製


 1970年代のホーカー・シドレー社の開発で、ターボファン4発肩翼97人乗り(CRのRJ−100の時)という極めてユニークなコミューター機で、 珍兵器、珍機の多い英国らしい機体である。

 これもヨーロッパではかなり良く見かけた機体で、クロスエア(CR)も運用していて『ジャンボリーノ』と呼んでいた。
 1994年に駐在として赴任した時、チューリッヒまでSR(旧スイスエア)のMD−11、チューリッヒからバーゼルまでCR(旧クロスエア) のAVRO-RJだった。以降CR運航で当時の親会社SRのフライトナンバーでのCRの機体、BAe146と呼んでいたBA(英国航空)系や LH(ルフトハンザ)系のエアラインなど含めて合計91回乗った。これはSAAB2000に次いで2位である。

 この機体で特筆したいのはスムーズな着陸時で、パイロットによらずドスンという着地のショック無しに、常にふんわりと降りて スラストリバーサなしで静かに減速することである。
 機内は決して広くは無く、特に肩翼なので翼下の座席のオーバーヘッドコンソールは無いに等しい隙間空間のみであったから、 座席番号でここだと判っている場合は、そこらへんの兎に角空いている隙間に荷物を突っ込んでしまうのがコツであった。

 スイスエアではクロスエアの機体を使ったバーゼル発−ロンドン行き(ヒースロー、ロンドンシティとも)に愛用していて、 肩翼の特長で下方の視界が非常に良いため、早朝のヒースロー空港名物の着陸順番待ちの旋回ではロンドンの街がよく見えるので楽しみであった。


ロンドン上空の1980年代の塗装のAVRO-RJ;某webサイトより借用した旧塗装機。

朝のLHRヒースロー空港は混むので、着陸待ちでロンドン上空を旋回することは珍しくない。


 ロンドン上空(以下、私の撮影)

 川は、テムズ河。二つ見える橋の上はウェストミンスター橋でロンドンマラソンのゴール地点である。
 テムズ河は画面左下から右上に向かって流れている。左岸真ん中に英国議会(パーラメンツ)  学校や企業のチャイムでおなじみのウェストミンスターの鐘がある塔ビッグベンも見える。
 画面の左上で上に伸びている通りは首相官邸があるダウニング・ストリートでトラファルガー広場に通じている。
 画面下の橋はランベス橋。

 2000ミレミアムの観覧車が鮮やかなれど異端。


 ロンドン上空

 左手の大きな緑はその名もグリーンパーク。ピカデリー通りをリッツホテル前を過ぎ、日本大使館辺りまで行くと左手に広がる大きな公園である。 公園の一角にバッキンガム宮殿が見えるが、威風堂々のわが皇居に比べると視覚的面白さは乏しい建物である。

   宮殿正面のロータリーから宮殿の反対側に伸びる通りはトラファルガー広場に繋がっているTHE MALL(ザ・モール)で世界屈指のジョギング道路 といわれ、ロンドンマラソンのコースにもなっている。ロンドンマラソンは、THE MALLあたりになると優勝者はほぼ決まり、 バッキンガムのロータリーを左折してパーラメンツの方に向かうウィニングランとなる。

 右手の大きな緑、THE MALLの右手の公園はセント・ジェイムスズ公園。


ロンドン上空

 少しだけ飛行機が進んで、グリーンパーク全景が見える。グリーンパーク沿いに公園に向いて正対して並んでいる建物はピカデリー通りに面しているわけで 日本大使館もここにある。

 右下に写っている主翼前縁際で前に円形の広場(実際は大きなロータリー)を持つ大きな建物がバッキンガム宮殿。


ロンドン上空

 サウスケンジントンの博物館群とハイドパーク。

 ハイドパーク内の小さな塔はアルバートメモリアル
 丸い目立つ建物はロイヤルアルバートホール。
 その下の白い塔があるのが私の大好きな科学博物館。
 更にその下、画面下向きに二つの塔のあるファサードが茶色い建物が自然史博物館。
 それらと通りを隔てて右、ドーム状の塔を持つのは工芸博物館のヴィクトリア&アルバート博物館。
 科学博物館/自然史博物館とヴィクトリア&アルバート博物館の間の道(画面右側でハイドパーク際で 雲がかかっている道)の下には、サウスケンジントン駅からハイドパークに至る長ーーい地下道がある。


 バーゼル空港からのロンドン日帰り仕事の時は、帰りはロンドン発21時30分くらいのバーゼル行きになった。
 LHRの第2ターミナルにあったスイス・エアのラウンジは、二階で手前にマクドナルドがあって判り難い位置であった。
 ラウンジへの通路とラウンジ内には、サン・モリッツ冬季オリンピックのポスターなど古いスイスの観光ポスターがあった。 其の後知ったのであるが、あれらが本物なら骨董品として相当な価値があるものらしい。

 21時30分頃となると流石のヒースロー空港も閑散としてきて 心細くなり、時差の関係でバーゼルに着くのは真夜中過ぎとあって、朝が早いのでロンドン日帰りは、結構つらいものがあった。
 ただ、パリの真上を飛ぶため、パリ上空に来るとパイロットから 下にパリの灯が見える、という意味のアナウンスがあった。やや高度があり過ぎたけれどパリの夜景は美しく、あれはシャンゼリゼであろうと 見当つけられる直線も識別できた。






BOEING767;輸送機;ターボファン双発;アメリカ製

今や日本の空の主役となっている大形機である。


羽田空港のボーディングブリッジに付いて客乗せ待ち中のスカイマークのB767

 B747では大きすぎる路線、用途に向けて、1970年代後半に先行する4発機エアバスA310対抗として ワイドボディに推力20トンのエンジン双発、オールエコノミーで300席級の機体としてB7X7の名で 開発スタートし、1978年7月、ユナイテッド航空で1号機が就航した。
 ヨーロッパの都市間用としては大きすぎるのかあまり見かけず、ヨーロッパでは乗る機会が無かった。

 この機体に初めて乗ったのはなんとブラジルのイグアス-サンパウロ間であった。

B767に入る前に、イグアスでの体験を


イグアスの滝。もの凄い水という意味だそうである。

 ブラジル/アルゼンチン/パラグアイの三国国境が集まるところにあり、滝自身もブラジル滝とアルゼンチン滝に分かれている。
 正面左側の水煙が最大の瀑布であるダイアブロ=悪魔の喉笛。 水は茶色い泥水だったが、これは年中そうらしい。
 空にヘリコプターのメインブレードが写っている。

 左側の建物は、VARIG系例のカタラタスホテル、全木造の重厚な凄い建物である。




 乗っているのはベル206Aの前左席、前はがらんどうで足元までガラス(要するに透明の風防) になっていて、視界はすこぶる良い。

 約30分の遊覧飛行でUSD50、乗客4人で前1人、後ろ3人の乗り合いで席は早い者勝ちであった。
パイロットは何か案内するでもなく、あくびを噛み殺してつまらなそうに飛ばしていた。



ついでにもう一枚。

 これは私の自慢の1枚で、どこあろう、世界最大のサッカー場、リオデジャネイロのマラカナ・スタジアムのピッチの中である。

 何故ここに入れたかは厳重な秘密であるが、兎に角監視係の許可を得て、ビジター用ロッカールームからピッチ内に入ることが出来た。 サッカー専用で陸上トラックは無いが、ピッチはぐるりとかなり広く深い濠に囲まれており、ロッカールームからはトンネルを潜って行く。 即ち、観客席から飛び降りても、ピッチ内に入る事は至難の業である。
 ロッカーのトイレは横に長いステンレス製の溝で、並んで連れシ○ンするようにな構造、ペレが試合前ここでシ○ンしたかと感無量であった。

 1992年8月、Jリーグの発足直前で、その発展を聖地で祈念しているところである。その甲斐あって、今やサッカーは日本でも野球と並ぶ 人気スポーツになっている。

 閑話休題B767に戻る。濃霧で丸1日以上閉鎖されたイグアス空港に乗客が溢れかえったためこの処理に通常運航のB737複数機ではなく、VARIGの国際線用の B767を持って来て溜まった乗客をサンパウロまで一気に運ぼうと言う作戦であった。

 チェックイン時はシートフリーの搭乗券を渡された。搭乗前、初めポルトガル語で次に英語でこのフライトの機体は国際線用のB767で クラス/シートフリーであると言うアナウンスがあった。 何っ!!とゲートに走った時は既にポルトガル語のアナウンスで事態を察知した数十人(に見えた)が前におり、更に通路と機内を走ったが ビジネスクラスシートは確保できたもののファーストクラスでは既に勝利の記念撮影している奴等がいてそれを眺めるのみであった。
 勿論この場合、ファーストのビジネスのと言ってもシートだけの話でフライト時間も2時間弱の事、食事などまで特別であったわけでは勿論ない。







BOEING757;輸送機;ターボファン双発;アメリカ製


 旧世代ジェット並の細く長い胴体に推力20トンのエンジン双発とし、ワイドボディのB7X7のB767と平行して、 経済性重視の大型輸送機B7N7として開発され、1978年8月にBA英国航空で1号機が就航した。
 開発意図通り、細い胴体で空気抵抗が少ない為現在でも最も経済性に優れた旅客機の一つである。しかし胴体は所詮旧世代ジェット と同じ幅、客室が狭いと言う欠点もあり、B767に比べて見る/乗る機会は少ない。

 標準ドイツ語の故郷、ニーダーザクセンの都市、ハノーファーでは毎年世界最大のビジネスショー=CeBIT(セビット)が開かれる。
 約1週間の会期で全ヨーロッパから、オフィスマシンやソフトウェアのメーカー・ディラー・小売り関係者が、70万人というハノーファーの 人口に匹敵するくらい集まってくる。なんでもドイツ国中の英語が話せる若い娘は、全員コンパニオンとして狩り出されてくるという話である。

 宿泊も周辺100キロ圏くらいのホテルなどでは到底足りず、CeBIT事務局の斡旋でハノーファー周辺の民家が予備寝室を提供する ことになる(つまり民宿である)。
 民宿には二回泊ったが、一回は相当金持ちらしい家で、寝室のテレビにケーブル・チャンネルが引いてあり、私は見事日本語放送の受信に 成功してその家の主人に驚かれた。もう一回は凄いばあさんと中位の婆さんの親子の家で、タクシードライバーが住所だけでは 判らず夜中に辿り着くのに大変な思いをした。婆さん達もドイツ語以外一言も話さない親子で、それで良くCeBIT客の民宿希望など出したものであるが、 向こうもまさか外国人、それも日本人が来るとは思わなかったであろう。兎に角面白い体験であった。

CeBIT会場の広さは非人道的ですらあり、1号館というパビリオンは400メートル四方あると聞かされていた。それが22号館くらい まであるのだから凄い。

 1999年のCeBIT会場レイアウト。

 右上の赤丸囲みが一片400mの『花の1号館』。色の塗り分けは同じ建物内で展示ジャンルが異なっている事を示している。この建物のの展示 スぺースはCeBITにしか、即ち年間約一週間しか使われないと聞かされていた。実際に1号館の 各会社の展示ブース(大きなものはスタンドと称する二階建ての壮大な建築物である)は基本的に毎年同じ場所で、年が変わっても 記憶を辿っていけば旧友に会えることになっていた。
 私が属していたフランスの会社は、19号館にあったAIAM(自動認識協会)という業界団体のスタンドの中に屋台店を借り、同業者と並んで出展していた。 従って、お客さんも屋台を端から順に冷やかして歩いている感があり、情報交換も盛んであった。
 我々の御本社筋は1号館に大店を構えていて、ここでは日本から大量の物資と人間が運び込まれるため、カップ麺位なら随時、 運が良いとはるばるデュッセルドルフなどから取り寄せた幕の内弁当などにありつけたのでよくたかりに行った。


左;上の写真で○印の市電停留所からメインエントランス。市電は会期中のみこの停留所に着くと「メッセ・ゲレンデ」という 無愛想なアナウンスがあった。

右;同X印の1号館方面から19号館への通路。

 私はこの会期の長さ/会場の広さ/人混み/天気の悪さ/交通渋滞/町のレストランも含めて食い物のまずさ、と非人道的な事は全部揃った展示会に都合10回くらい参加した。
 初めて日本から出張で行った時は、バブル期で会社主催の50人位の大デレゲーションの一員として準備期間から撤収までフル参加、 当時まだあった東ドイツとの国境の町ウォルスブルグのホテルに泊り、30代で若かったせいもあって仕事の情報収集や売り込みも、 後の駐在時のCeBITのようにさぼらず熱心にこなして一日10000から15000歩き、毎日朝昼晩と肉と脂の豊富な食事で、 時に昼も、晩は必ず大量の独国麦酒も摂って殆ど連日汽車で午前様、 会社が運行していたホテルとのシャトルバスには帰りには乗ったことがないという、ジャパニイズ・ビジネスマンが運動部の合宿をしているような生活で、 帰国した時は体が一回り大きくなったと言われた。

 さて当然ではあるが、このCeBITに来る人で、ハノーファー空港もこの期間は無茶苦茶ごった返す事になった。
 ある年、CeBIT帰りにハノーファーからロンドンにBAで飛んだことがある。渡された搭乗券がいつものB737クラスではありえない大きな座席番号だったので、 機体は何か聞いたらB757との事だった。

 ハノーファー空港の判り難さは突出もので、ユーロ以前には空港でドイツ・マルクへの両替が必要だったのであるが、その銀行が出発側にしかなかったし、 (到着側には自動両替機しかなかった。しかしドイツと謂えどもそこはヨーロッパである。無人の機械に小銭ならともかく何万円分もの 現金を投入するのはあまりに無謀というものである。) チェック・インから搭乗まで普段でも兎に角ギクシャクする空港だった。

 それがCeBITの期間となると拍車がかけられた。
 チェック・イン・カウンターの脇にそれぞれ通路があり、そこから入ると中に必要に応じてパスコン、 そして行き先別出発ロビーがあるという構造は空港として珍しくないが、ハノーファー空港はそのチェック・イン・カウンターと同じ行き先の正しい通路が 隣り合っている場合もあれば全然違う場合もあって、注意を要した。

 さらに中に入ると搭乗ゲートが一つしかない構造なので出発ロビーは同一行き先客専用かと思うとさにあらず、三つくらいの行き先の客が集 まっていて、出発時間別に呼び出される仕組みであった。
 従って、早めに来ている人は自分の行き先では無い場合、アナウンスで判るが、どこそこ行きかの搭乗手続きの真っ最中に来た人は 落ち着いて状況把握しないと自分の番なのか、出発ロビーは正しいが搭乗順番はまだなのか、あるいは違うロビーに来てしまったのかが判らない。

 ドイツ人はあるいはヨーロッパ人は賢いのでこのようなシステムでも間違えないのかと思いきや、搭乗ゲートで搭乗券を突っ返される人が 続出していた事から 彼らにも判りづらいシステムであったと思われる。兎に角、CeBITのハノーファー空港では緊張を要した。






DOUGRAS DC8;輸送機;ターボジェット4発;アメリカ製



 私が生まれて初めて乗った飛行機はDC−8である。路線はJALの福岡-東京線、時代は1975年頃で新入社員に毛が生えたという頃である。
 東京から名古屋に行って一仕事して、翌日その足で福岡に行くという出張で、行きは新幹線、帰りは飛行機であった。 帰りを飛行機にするにつけては課長の特別許可が必要で、一緒に行った先輩社員と結構あれこれ理由を考えたと記憶している。

 座席間隔が恐ろしく狭いというのが第一印象で、一緒だった海外出張経験もあるその先輩に国際線も同じ間隔で、 ここで12時間からもっと過ごすのだと聞いて海外には行きたくないものだと思った。

 2008年5月、成田開港30年のニュースで流れる1番機の映像は鶴丸の垂直尾翼のDC-8であった。







L-1011 TRISTAR;輸送機;ターボファン3発;アメリカ製



 ロッキード伝統の星の名前の愛称は、3発機ということでオリオン座の三ツ星からトライスター。世を震撼せしめたロッキード事件の主役である。
 B747は既に世に出ていたが、渡洋飛行が原則の長距離機B747より短い距離すなわち、各国の国内やヨーロッパ域内短中距離を 大量の旅客を乗せて 飛ぶのを目的とした所謂エアバスの第一世代機でダグラスDC-10とは企画/開発/販売を通じてのライバルであった。

 ロッキードの悲劇は選択したエンジン、ロールスロイスRB211が同じく新規開発品で完成品ではなかった事で、RB211が革命的な設計の 冷却機構の不都合で完成にてこずった事もあり、L-1011生産は注文を呉れた顧客への約束納期に間に合わなくなってしまった。
 このため,ライバルDC-10による予約客切り崩し防止と新規顧客開拓の為に無茶な賄賂販売を世界中で行なわざるをえなくなったのが ロッキード事件である。穿った筋で言われたようにロッキードは欠陥機を賄賂を使って売り込もうとしたわけではない。
 実際に世に出たL-1011はDC−10より完成度は高いと言う評価を受け、機体やエンジンに起因する事故をおこす事もなく期待通りの活躍をした。 フロリダで起きた墜落事故は事故機のコックピットと担当した管制塔にいた人間全員のエラーとされている。

 この機体には1回だけ乗った。1988年頃、BAのロンドン・ヒースロー発-パリ・シャルル・ドゴール行で、 さすがロンパリ、トライスターが飛ぶかと思った。

 L-1011の納期遅れキャンセルで一番シビアだった航空会社は3ヶ月遅れを待ってくれなかったそうである。この頃私はバリバリの若手 エンジニアで新製品開発に携わっていて、製品化の納期を過ぎても 次々と問題が起きるもぐら叩き状態に陥っており、マネジャーに「ロッキードは3ヶ月遅れ、お前達は、んヶ月遅れ」と嫌味を言われ続けた。 更には、新製品用の独自設計の特殊容器に競合会社の試作品が入って実験室に登場したりした。企画部門による開発部門裏切り(見限り?)であった。 幸いにも敵試作品は我が方の到達水準より遥かに下で、要求には全く適合せず、事なきを得た。

 ライバルDC−10がマクダネル・ダグラスMD−11として延命し、長らくスイス航空とJALのコードシエア便で成田−チューリッヒ線 に就航していたので私には結構馴染み深かったのであるが、それに対して、L−1011は乗るのは勿論、ヨーロッパでもまず見る機会は無かった。
 それが、2008年5月に日本で開かれたアフリカ会議にどこかの首脳はL−1011で乗り込んで来た。 テレビのニュース映像をみて『おーーートライスターじゃん』と思わず呻いてしまった。

 ところで、ロールスロイスのエンジン装備の場合、エンジンカウル外側の、客室窓から良く見える位置にRが二つ重なったロールス・ロイスのマークを 付けている。自動車でロールス・ロイスのマークがついているものに乗る機会はまずないので、このマークを見ると一寸良い気分だった。
 ちなみに、とうに全機引退してしまって乗る機会は無いが、国産旅客機YS−11(わいえす-いちいち)もエンジンはダートという、 ロールス・ロイス製の名ターボシャフトエンジンだった。







DOUGRAS DC-10/MD-11;輸送機;ターボファン3発;アメリカ

 欠陥と言うならば、ライバルDC-10の方に有名な後部貨物室ドアの欠陥と、それによる墜落事故というのがあった。
 高空を飛ぶ飛行機は中の人間の安全と快適の為にキャビンを与圧している。飛行機内部の圧力を受け止めるには円で受けるのが一番であるから、 旅客機に於いても、キャビンは円筒の耐圧容器とし、中央を上下に仕切って上が旅客室、下が貨物室として貨物室ごと与圧するのが理にかなっている。
 従って、貨物室と雖も高空では機体内部に圧力がかかっているから何らかの原因で、貨物室だけの圧力が突然抜けると高圧の客室の 床が下向きに爆発するように抜け,床を壊してしまうと言う事になる。その時、客室床下に尾部の昇降舵と方向舵を動かす操縦系統の油圧配管が走っていると、 これらが壊れて飛行機は操縦不能になる。
 油圧系統は故障に備えて多重配管になっているのであるが、配管が一箇所に複数本並んでいる部分が大きく壊れると全油圧系統が一遍に壊れてしまう。 最近の機体は油圧配管をあちこちに分散させていて、機体の一部が大きく壊れても、配管が全部壊れてしまうという事態を避けているようである。

 1985年夏のJL123も圧力隔壁を壊した客室内部空気が昇降舵、方向舵そのものもろとも後部の油圧配管集中部を暴力的に壊し 主翼の補助翼やフラップも含めて完全に操作不能になってしまった、とされている。この事故ではその後パイロットの腕が並外れて良かったらエンジン推力のコントロールは出来たのだから何らかの機体制御ができた筈 というような考察もあった。しかし、JL123はエンジン推力のコントロールは出来たが、水平安定板の大部分を失っていたのである。
 降下する機体が位置エネルギーの放出により速度を増し、それにつれて揚力が増加して頭を上げてきた時、 推力を絞ったままだと上昇しきれず、空中で棒立ちになって失速し、一転頭を下げて再び降下に入る。 失速を防ぐために推力を増すと今度は上昇するが、戦闘機のように推力だけでは機体を支えきれないので結局は失速してしまう。
 水平安定板があれば、それで機体のお尻が押さえられるので、降下も上昇もしない推力というものを探り当てて、 機体を水平に保つ離れ業も可能だったかもしれないが、 水平安定板の大部分を失って、機首上げ下げしつつの高度上げ下げのフゴイドと呼ばれる運動に陥っていたJL123は、 推力の制御だけでは、どんなに凄腕パイロットでも、フゴイドを抑制して直陸に至るまでの姿勢制御をするのは不可能だったとする説が有力である。

 飛行機に乗ったとき、機内のテレビに表示される飛行速度と高度を注意して見ていると、降下の最初の数分間、パイロットは 細かい操縦をせず、位置エネルギーの運動エネルギーへの変換に任せるのか機体が高度を下げるにつれてどんどん増速するのが判る。 降下のある段階からエンジン推力がコントロールされるのが感じられ始め、高度を下げながら速度も落とすと言う物理学的に矛盾した運動に入って やがて無事着陸する。


羽田に向かう千歳発のB767の降下
時刻対地速度(マイル/時)高度(フィート)外気温度(度F) 対地速度(Km/H)高度(M)外気温度(℃)
165648639500−6178212040−52
172947740000−6176812190−52
193543740000−6170012190−52
193846039000−6175011890−52
194047236000−6176010970−48
194148533000−4978110060−45
194248229500−617768992−41
1943475271007648260−36
1945458240007317315−23
194722000−97076706−24
194943919000−6/td>−18
1951160006845791−14
195342514000156844267−9


 DC-10は後部貨物室ドアロック機構の欠陥から、離陸して間もなくの上昇飛行中にその貨物室ドアが外に向かって吹き飛び、気圧が急に下がった (物理学的に言うと、真空になった)貨物室に向けて客室の床が抜けて油圧配管を壊し、上下方向に操縦不能になり、即座に 墜落すると言う事故を起こした。パリで起きたこの事故では某商社研修旅行中の日本人の若者が大勢亡くなった。

DC-10の後部貨物室ドア

1.正しい方法と正しい力の入れ具合で閉めれば何の問題も無くロックされ安全である。
2.ある力以上でドアを押し込むと正しい方法でなくてもドアのロック機構が変形する(壊れる)ため外からは閉まったように見える。
3.このため、パリの事故の前にもロック不完全で離陸してドアが落下ないし吹き飛ぶ事故が複数回起きていた。
4.ダグラス社は正しいドアの閉め方マニュアルと、ドアを閉めるのに何ポンド以上の力を加えてはいけない旨の注意書きをユーザー全社に配布した。
5.同時に、その内容の英語のステッカーを作り世界中のDC-10全機の後部貨物室ドアに貼り付けた。
6.但し、ドアそのものを正しい方法でしか閉まった位置に入らないようにし、大きな力を加えてもロック機構が変形しないようにする改修は行なわなかった。
6.ある日パリのオルリー空港で、配布された注意書きの事は知らされず、貼ってあるステッカーの英語も読めない屈強の作業員が馬鹿力で後部貨物室ドアを押し込んだ。
7.飛行機はそのまま離陸上昇し、機体の内外部で圧力差が増加していった。

この事故は『設計上の欠陥はマニュアルでは決して救えない、必ず破綻する』という工学上の金言を無視した為に起きた事故の 史上最悪の例である。







EMBREAR EMB120;輸送機;ターボプロップ双発;ブラジル製



 ヨーロッパのナショナル・フラグ・キャリヤーの中でいち早く脱落し、これも其の後崩壊する事になるスイスエア(SR)に吸収される形で消滅した サベナ・ベルギー航空(SN)が短距離路線に就航させていたブラジル製のターボプロップ機。

 肩翼で極めて小さな主翼上半角(肩翼の場合下半角の主翼を持つものもある)しかなく、横転性能が良さそうで、初めて見た時は COIN(ゲリラ制圧)の転用なのかなどとも思った。

 30人乗りで、スチュワデスは一人、ヨーロッパでは短距離線でも国境を跨ぐ場合は、国際線なので旬時(しゅんどき)に乗ると何かしら食事が出る。 クロスエア(CR)などは乗客33人/スチュワデス1人のSAAB340や、乗客50人/スチュワデス2人のSAAB2000で1時間程度の フライトの時はサンドイッチを配り、後はスチュワデスの愛嬌と、地上にいる時から飲み放題飲ませてくれるシャンペンでカバーしていたが、 サベナはトレーに乗った食事を配った。
 ある夕方のブラッセル発−バーゼル行きでは満席で、担当は東洋系の小柄なスチュワデスであった。水平飛行は1時間も無いフライトで、 食事を配り/飲み物を注いで回り/お代わり注いで回り/パンのお代わりを配り/トレーを回収する、 という彼女の壮絶な戦いぶりは、飲兵衛の客もワインお代わり3杯目などとは言い出せずただただ見守るのみであった。 着陸後客を送り出す時には明らかに疲労の色濃く肩で息していて、これは凄い肉体労働の職業なんだと認識させられた。

 今でも、サベナ/スチュワデスのお仕事/EMB120の三つのどれかがキーワードになって、これらの言葉を聞くと直ちにこの時の事を思い出す。

 また、別のフライトでは、無茶苦茶揺れたため食べかけのトレーを回収されてしまった事もあった。上半角が小さいEMB120は大揺れしても 不思議ではない。

EMB140

 クロスエアが、SAAB2000の代替機として2000年頃始め頃から導入を始めた同じEMBREAR製のEMB140。
 リアエンジン双発で、静粛性ではSAAB2000の 比ではないが、機内の広さは似たようなもので空飛ぶ土管である。

 2001年9月、ジュネーブ空港にて。






BOEING747;輸送機;ターボファン4発;アメリカ製

 ジャンボの愛称で呼ばれる大形ジェット旅客機。
 1966年に計画がスタート。1970年1月に1号機が今は亡きPANAMで就航したという随分と古い歴史を持つ飛行機である。
 色々なタイプがあるが、総じてB747とした時、間違いなく一番多くの人に飛行機搭乗経験を与えた機体であろう。
 しかし、その大きさが災いして、満席になるのは例外で、ほぼ常に空席がある状態で運用せざるを得ないため、経済性に問題有りとして、 同じBOEING製なら767や787に代替されつつある。


 左;AVERY航空というのはない。
 Avery社はアメリカ本社の文房具及び粘着ラベル製造販売の世界最大手企業である。
 この赤い三角印は文房具屋さんで見て記憶されている方も多いであろう。

飛行中のB747主翼
 長大な主翼は飛行中巨体を支えるため上に大きく反り返っている。
 2001年9月、9.11直後で厳戒のパリCDGから成田に向かう途中のシベリア上空。

 着陸して重荷から開放された主翼は真っ直ぐになるというよりむしろ垂れ下がる。


 これに初めて乗ったのは初めての海外出張の時であった。日本でスタートさせた新規事業のアメリカ進出のプレゼンという任務でのアメリカ出張時で1980年代 半ばの事だった。エコノミーぎっちり満席で隣の席の見ず知らずと肘触れ合って 寝たり、当時エコノミーではアルコール飲料有料でビールが100円だったりしたのを覚えている。
 このときは、初めての外人相手の英語プレゼンとあって日本での準備段階から緊張しまくりで、現地では時差ボケと慣れない 外国のホテル泊に殆ど眠れず、明け方に変に寝入って同行の現地駐在員に叩き起こされたり、ルームキーを閉じ込めたり、 マットレスの間に何だか落として取れなくなったり、バスルームで服を着たまま何かしようとして頭からシャワーを被ったり と色々な事をしたが、仕事そのものはなんとかなって、新規事業のアメリカでのスタートを切ることができたのだった。 (そこから後が大変だったのだけれど)

 其の後担当地域がヨーロッパと言う事になって、出張先がヨーロッパに変わり、ジャンボとはアンカレッジ経由の 長いフライトでの付き合いになった。

 初めてのヨーロッパ出張はルフトハンザ機で、アンカレッジの免税店で愛想の良い売り子の日系のおばちゃん達に (帰りの便の時受け取るシステムの)高い洋酒を売りつけられた後、早朝のハンブルグ空港に着いた。




アンカレッジ空港で給油中のLH701便と、上空からのアラスカ。

 その出張より後で読んだのであるが、ルフト・ハンザ機で早朝のハンブルグ空港への到着は、村上春樹の『ノルウェイの森』の冒頭で、 大人になった主人公がヨーロッパに到着するシーンと同じ状況であり、年齢もその時の主人公とほぼ許容誤差範囲であった。
 その時は、機内にビートルズは流れていなかったので、青春時代の回想に耽っていくこともなく、従ってスチュワデスが 話し掛けて来る事もなかった。しかし、冒頭いきなりのこの場面に『ノルウェイの森』に特別な親しみを感じた。
 特に、湿ったブラジャーの気持ち悪さを力説する本屋の娘は良い。死に満ちたこの物語の救いである。其の後勉強にと英訳本も読んだ。

 国内でジャンボに乗ったことは1回(1往復)しかない。札幌雪祭りで当時札幌に住んでいた兄一家を訪ねて両親と旅した時で、 帰りのフライトが相当揺れ、親父がオーバーヘッド・コンソールががたがたするのを身を固くしてじっと見ていたのを覚えている。

 家族旅行などということとは縁のない山村の百姓で、時代も今より一つ前だったから後にも先にも両親と宿泊を伴う大旅行をしたのは この時一度きりである。両親についてはその後ハワイなどに誘ったこともあるがもう乗って来なくなっていた。

 帰りの羽田空港にて。(1985年2月)。
 B747の沖止め(ターミナルビルから離れた所に止めて乗客をバス輸送する)というのは今でもあるのであろうか。
 同年8月12日のJA8119号機によるJL123便も羽田での搭乗は沖止めバス輸送だったと記録されている。








日本航空機製造 YS-11;輸送機;ターボプロップ双発;日本製

 

1981年10月。伊豆大島空港に着陸する日本近距離航空のYS-11。
 今は死語になってしまった『社員慰安旅行』で伊豆大島に行った時のものであるが、 我々の旅行は熱海から往復とも船であったので、ソフトボールにも飽きて空港に飛行機見物に行ったのだ思われる。 記憶にないが随分と滑走路に近いところで見物しているように見える。当時私はメーカーの開発部門エンジニア として複写印刷用の消耗品開発の仕事をしていた。
 仲間はみんな20代〜30代、バリバリの時代であった。

 日本の航空史上唯一の自主設計生産による旅客機で、設計担当の5人の内の一人 木村秀政氏は後のテレビ番組でYS−11を『ワイエス-イチイチ』 と呼んで欲しい旨言っていたので 「いちいち」 が正しいのだと思うが、ニュースなどでは必ず『じゅういち』と呼ばれていた。
 Yは輸送機、Sは設計、最初の1はYS計画用エンジンの候補1号=ロールス・ロイス/ダート、次の1が設計第1号機体を表すとされている。
 量産1号機は1965年就航。このJA8610機は11,904フライト、21,013時間20分の飛行後1998年に天寿を全うして退役した。

 機体をライセンス生産するか自主設計した機体を生産するかは全然違うものなのだそうである。例えばある角度一つ、寸法一つとってみても、 ライセンス生産では「ああそうですか」というしかないが、自主設計であるとその意味するところ決めた由来が全て判った上で作る事になるのである。

 YS-11に乗ったのは1982年、羽田−高松往復の1回きりである。高松をベースにレンタカー(三菱・ミラージュでブレーキが甘かったのを覚えている) で四国を時計回りに一周する旅だった。後で考えれば当然であるが、泊まる先々の旅館でこれでもか!、の刺身盛り合わせの大皿を出されてしまいには泣きそうになった。
 帰りのフライトが大荒れで、離陸してすぐの飲み物を配る前に「荒れるから揺れる」旨のアナウンスのあとスチュワデスは着席、悪路のバスの揺れに加えて 数十メートル(と感ずる)浮き沈みがあると云うもみくちゃ状態、どこかから「メキッ、ビシッ」音がし、子供は泣き出すわ、オクさんはかじりついてくるわ で当時ターボプロップ機慣れしてなかった私も相当不安だった。
 それでも三河湾上空で揺れは収まり、浜名湖上空では平穏な飛行で下に花火が見えた。ピンポン玉くらいであったが上から見ても花火は丸いと言う 事がわかった。

 高松空港を離陸し、瀬戸内海上空に出たYS-11機主翼。
 YS−11の主翼は長いので有名である。北海道で地上付近での急旋回で主翼端を地面に擦り付けるという事故を起こした事がある。

 ロールス・ロイス・ダートを収めたエンジンナセル。赤いデカール2枚は整備上の注意書きで残念ながらRRのマークではない。

 YS−11の機体設計には軍用機、それも戦闘機の手練設計者が集まっただけあって頑丈かつ運動性が良いとされ、他の飛行機が飛べる天候であるなら YS−11にとっては屁とも思わず飛べるということになるが、それにしても怖かったという思い出である。
 ただし、軍用機の流れを汲むだけあってYS−11の操縦は難しいとされ、特に着陸進入の難しさは天下一品であったという。

 YS-11は、魔の1966年に日本で起きた6件の航空事故の内、松山沖事故の事故機で、 新婚旅行は国内が常識の当時の事、日曜日の大安吉日の夕方の東京からの到着便とあって乗客の約半数が新婚旅行客であった。 結果として婚姻届け前であったため法律上永遠に結ばれない新婚夫婦を多数組発生させて世に衝撃を与えた。






デハビランド・カナダDHC−6ツインオター;輸送機;ターボプロップ双発;カナダ製


 オター=OTTERとは、かわうそ、の意味でツインが付く事から判るように前世代のDHC−2ビーバー の兄貴分として単発機のオターがあった。
 PT6A 652馬力ターボプロップ双発で、1965年5月初飛行。標準座席で乗員2/乗客19。
   STOL(短距離滑走離着陸)に優れ、せいぜい数百Kmまでの距離で空港の滑走路の長さも十分ではなく、乗客数も沢山はいないというような 路線用、すなわちコミューター機の草分けである。DHC−6は日本でも離島路線に投入された。

 この写真はラスベガス空港でのSEANIC(シーニック)エアの機体で、グランド・キャニヨン・ナショナル・パーク空港往復便、 即ちグランド・キャニヨン遊覧飛行用である。ラスベガスのホテルで手配したグランドキャニオンでの昼食付きバスツアー 込みの豪華エクスカーションツアーに入った時のもの。

 ラスベガスからの行きのフライトは地上の眺めの為にかなり低く飛ぶのであるが、この時、グランド・キャニヨン上空は揺れる事になっている。 乗る前に、揺れる時は半端ではなく、その時は乗客の酔い止めに飛行機の冷房を一杯に利かせて寒さで硬直させるという 脅しが入った。我々のフライトはそれ程でもなかったが、それでも三分の一程が青い顔になった。
 帰りは揺れ防止でやや高く飛ぶという事で、なるほどそんなに揺れなかった。

 飛行機の座席が緊急脱出出口に当たった乗客に配られる紙。
 着席するとスチュワデスがやってきて、合図があったら緊急脱出ドアを開けることを依頼する旨と 扉の開け方の簡単な説明、開ける力がありそうか、合図の英語が判るかなど質問される。
 まいざとなった時やる事は、力は必要であっても単純なので『オッケイ、ノープロブレム』と答えておけば宜しい。

 この儀式は日本やヨーロッパでは出合ったことがなく、アメリカでのみ3回あった。アメリカでそんなに飛行機に 乗った事がある訳では無いのでこの確率は相当なものである。
 しかもこのフライトの時は、満席で事前に体重の申告をさせられ、それに従って決められた席が見事大当たりであった。


 標高2000mのグランド・キャニオン・ナショナルパーク空港からの夏場の離陸は高温高所で空気が薄いので飛行機にとって苦手の種目である。
 DHC-6は米海軍機のようにスロットルレバーとプロペラピッチバーが天井のコンソールに付いている。  配置はスロットルレバーとピッチレバーがそれぞれ二つづつ並んでいて、スロットルレバーがパイロット側、ピッチレバーが コーパイ側である。
 パイロットがスロットル開度、コーパイがピッチ調整を担当するのであるが、コーパイの左手がピッチ角適正に保つと共に 腕全体をスロットル全開位置で頑張るお年を召したパイロットの右腕にかぶせて補助している。
 左腕だけ写っているセーター姿のコーパイは若い女性であった。

 プロペラ・ピッチ・レバー=プロペラの捻り角度を調整するレバー。エンジンの回転数は飛行の状況に応じて最大トルク、最大出力、最小燃料消費、 というような領域で定速度回転運転し、それに合ったプロペラの捻り角度(ピッチ)を選択する。これが出来るプロペラを可変ピッチプロペラと云う。 第1次大戦前に発明された技術であるが、実用化されたのは大戦間だった。

 

これは帰りのフライトで、渓谷からの上昇気流の影響を避けて高度を高く取っている。


 グランドキャニオン上空を飛行しましたと言う証明書を発行してくれる。
 シーニック航空社長名でパイロットとコーパイのサイン入り。
 履歴書には書けない証明書で完全に遊びであるが、 楽しい企画である。日本でこの種の証明書を発行するとしたら、同じDHC−6で運行している日本最南端の路線、 石垣島−波照間島間のフライトであろうか?。







ボーイング737;輸送機;ターボファン双発;アメリカ製


 南西航空のB737。沖縄那覇空港にて、1986年8月。
 多分B737−200である。

 B737はB727で大成功を収めたボーイング社がB727より小型で、短距離便やチャーター便で使いやすい 機体として1964年に設計開始した機体である。
 特徴はボーイングB47爆撃機と同じエンジン懸架方法で、パイロンが短く主翼にエンジンが直接取り付けられているように見える。 これにより、脚が短くでき地上での姿勢を低く出来るが、B737ではさらにエンジンカウルをおむすび型にしてエンジンと地面の クリヤランスを得ている。
 これは大きさと全体の印象が極めて良く似ているエアバスA300シリーズとの識別点である。 垂直尾翼付け根付近の後部胴体の形状も異なり、B737は曲線、A300は直線状である。

 この機体は、ヨーロッパでは英国航空(BAW)とルフトハンザ(DLH)、オランダ航空(KLM)が定期便で運用していたほか、チャーター便や、 フラグキャリヤーの系列会社が親会社の便名で定期路線を飛ばしていたりしていたので乗る機会は多かった。
 エール・フランスと国内線専用子会社のエール・アンテール、それに英国航空も運航させていたエアバスの300系(310、319、320、321、322)。 スカンジュナビア航空(SAS)、スイスエア系列(SWR、CRX)、アリタリア(AZA)が運行させていたDC9/MD80系(DC9、MD80、81、82、83、87) も同じような使われ方をされていたように思うが、ツアーに入っての旅で飛行機はというと聞いた事もないようなチャーター便 航空会社のB737が登場した。


 那覇空港を離陸して石垣島に向かう飛行機の窓から海に映る自機の影。
 きれいなさんご礁の海の底に自機の影が映りそれが海底を非常なスピードで移動していくのは印象的な見ものであった。
 この時のスチュワデスのお姉さんたちは花模様の緩い上っ張りを着ていた。リゾートっぽくて良いが緊張感には欠ける。


 B737の有名な事故としては1988年4月、ハワイで前部胴体の上半分が吹き飛んでしまったのに飛行機は生還した、というのがあった。 ハワイ諸島間を結ぶ短距離頻離着陸運行は飛行機にとって過酷で、金属疲労の強制促進テストをやっているようなもので、その結果の カタストロフィーだった。

 1987年8月、オアフ島上空、ホノルル空港を離陸したB737−200の窓から。
 下に見えるのはダイヤモンドヘッド。嘘、と言われるかも知れないが、 ダイヤモンドヘッドは上から見るとこう見える。

 火山の噴火口の中は戦死者および、勲章を受けたような勇敢な兵士、軍人の墓となっている。
 1944年から45年にかけてイタリア/フランスで戦って戦死した442連隊の兵士も多数ここに眠っている。


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