飛行機事始め




キーワードエピソード キーワードエピソード
天駆けるからくり空へ ライト兄弟飛行機ドーバーを越える ドーバー海峡とブレリオ浜
飛行機アルプスを越える シャベスのシンプロン峠越え飛行機大西洋に消える ナンジェッセ・コリの飛行
シュナイダー・トロフィー スーパーマリンS6B永遠に破られない速度記録 マッキ・カストルディMC72



飛行機ページ目次へ







天駈けるからくり 空へ

 人類最初の有人動力飛行は1903年12月20日のライト兄弟のフライヤー1号による飛行であるとされている。

 こういう話は沢山の諸説異説伝説珍説を伴うもので、ライト兄弟以前の飛行機/飛行話は山ほどあり、 実際アメリカ政府公認の航空博物館の設立母体である スミソニアン協会はフライヤー1号以前に飛行可能な飛行機があった、即ちフライヤー1号は最初の飛行機ではない、という決定を下してライト兄弟の 弟の方で最初の飛行のパイロットであった オービル・ライトその人と揉めたことがある。 この決定は後に撤回され、現在はフライヤー1号が最初の飛行機であるという事で落ち着いている。

 ライト兄弟初飛行の非常に有名な写真。

 矢張りこれが無いと、飛行機は事始めにならないので、ここに某ウェッブサイトから拝借して掲載する事にする。

 この写真は、12月20日の4回の飛行の内の2回目、公式に人類初とされている飛行の時のもので、パイロットはオービル、主翼の脇で 並走するのがウィルバーである。ではこの写真は誰が撮ったのかという疑問が当然起きる。

 ライト兄弟は自分たちの技術を盗まれるのを用心して極端な秘密主義をとったが、同時に 人類初飛行を記録するための証拠写真の重要性を十分認識していて、飛行経路を眺めわたせる場所にカメラを固定し、その辺で屋外作業をしていた 人夫にシャッターを切らせた。

 この人類飛行史上最初で最高にして最も有名な航空機飛行写真は生まれて初めてカメラのシャッターを切るという男によって撮られたのである。

 ライト兄弟が機密漏れを用心したように1903年という時点では科学や工学の発展史ではよくある事であるが、周辺知識や技術の進歩から 殆ど同じくらいの技術的水準に達し、同じくらいの情熱を持って空を動力を使って飛ぼうという夢想家、技術者、学者、好事家はアメリカとヨーロッパに確かに 複数存在した。欧米のみならず日本にもいて、どこから飛行機が飛び立っても不思議ではない状況にあった。
 半万年の歴史を誇り物事の起源が大好きで、何でも起源はおらが物であるとする朝鮮の航空史研究者は、他の文明がまだ石器時代であった頃、 朝鮮では既に動力飛行に成功していたと主張している。この動力は流石にガソリンで動く内燃機関であったとは主張しておらず、ゼンマイであったと言っているようである。 このゼンマイが鯨の骨だったら、これこそ人類の怪挙である。

 そこで、ここで飛行機が空を飛ぶと言う事について考えてみる。
 人力だけで飛行するところの所謂人力飛行に対して最初に『飛行』に成功した飛行機に与えられるクレーマー賞という 懸賞が掛かっていた頃、クレーマー賞獲得に必要とされた条件は、 『静止した状態から自力で離陸して900ヤード離れた2点間を8の字を描いて回り、離陸地点に戻って静止すること』であった。 この短い言葉は『飛行』を定義して簡潔にして完璧である。 これが出来る飛行機はあとは後続距離と到達高度さえ得られれば理論上どこへでも飛んで行ける。 クレーマー賞はMIT(マサチューセッツ工科大学)にデュポンが素材提供で全面協力した『ゴッサマー・コンドル』が1977年に獲得した。

 共に風(気流)が頼りのたんぽぽの綿毛や紙飛行機と、人間が乗る無動力グライダーの決定的な違いは操縦可能か否かである。動力飛行機においても パイロットが操縦できなければ飛行機とは言えず、たとえそれが空を飛んだとしてもそれは『跳んだ』だけであって『飛んだ』すなわち飛行したとは言えない。

 飛行機を機体にも乗っている人にも無理が掛からないように空気力学的に安全に安定して操縦するには、 推力/重力/揚力が吊り合った状態で運動させなければならない。
 飛行機が旋回する時、機体を水平を保ったままカーブしようとすると飛行機は機体長線方向中心線と飛行方向がずれて、飛行機は斜め方向に飛ぶという事になる。 この為主翼に気流が正対して当らなくなり、翼断面に作用する空気の量も速度も減るので、ベルヌーイの定理により揚力が減少して高度を失う。 同時に飛行機に対して斜めに気流が当たる事になるので、空気抵抗も増大して速度を失う。飛行機にとって高度と速度を失うのは飛行できなくなってしまう 致命的な事態である。さらに、F−1の高速コーナーリングの ように乗っている人に強い横Gが懸かるので、高速の場合首の骨を折りかねないし、少なくとも体の自由が拘束されて操縦がしにくくなりそうである。
 この運動を横滑り=サイド・スリップと称し、アクロバット飛行や戦闘機のドッグファイト時、また輸送機(旅客機)やグライダーでも高度と速度を意識的 に一気に下げたい時などは使う事があるらしいが一般には禁じ手である。

 推力/重力/揚力が吊り合った旋回をするにはまず機体を旋回する内側に傾けて (機体を傾ける事をロール=横転と呼ぶ、 飛行機にとって基本中の基本の運動動作である)、 方向舵で進行方向を変えて円運動に入り、機体の長線が遠心力と推力のベクトル和の 方向即ち円運動の接線方向になるように保たなければなければならない。
 それでも主翼の重力方向の投影面積が減って空力的に主翼が小さくなった事になるので揚力は減り、姿勢が変った機体への空気抵抗も増えるので スピード(速さ)が落ち、それによってさらに揚力が落ちるので、機体を横転させたらスピードと高度は下がるにまかすか、それらを維持するなら 推力を増さなければならない。高度が落ちるとそれにつれて失われる位置エネルギーによって機体は増速するので、これへの対処も必要となる。 このように飛行機が方向を変えるというのは容易な事ではないのである。

 20世紀の始め、推力/重力/揚力が吊り合った旋回が構造的に可能であったのはライト兄弟の飛行機だけで、あとのライバル達は 構造から見て真っ直ぐのみの弾道飛行か、横滑り旋回しか出来なかった筈であると言われている。
 ライト兄弟は其の後、この推力/重力/揚力が吊り合った旋回そのものを特許化しようとして空しい戦いをする事になる。
 この三つが吊り合った旋回は飛行の原理そのもので、鳥の飛行は基本的にこれを満たしている。アメリカの特許法 においても特許は原理に対してではなく、それを達成する手段に対して与えられる。ライト兄弟は特許法のそこのところを理解していなかったのである。


 ライトフライヤー1号(これはレプリカ;科学博物館/ロンドン)

 この飛行機の形式は先尾翼推進式単発双プロペラ機で、現代の常識からいうとバックで飛んでいるように見えるはずである。
 腹ばいになっているパイロットは後ろ向きに乗っている訳ではない、彼の頭の方が前である。

 エンジンは当時の超ハイテク技術であった4サイクルガソリンエンジンで、兄弟の自転車製作修理会社の技師長が製作した 水冷4気筒4000CC、11馬力。 このエンジンから動力をチェーンで2方向に取り出し、後ろ向きに取り付けた逆方向に回転する2基のプロペラを回した。

 自転車製作修理会社を経営していたウィルバーとオービルのライト兄弟はフライヤー1号以降も長い間 この手慣れたチェーン駆動プロペラに固執した。これはライト兄弟が飛行機の発達史の中で後続に 追い越されていく一つの要因ともされている。
 ライト兄弟に好意的でない見方をすると 「所詮は学も何も無い自転車屋のわざ」 ということになる。

 ライト兄弟はまた、フライヤーに載んだハイテクエンジンの販売もした。ライトの名前は航空史の中の機体篇ではかなり早くに消えてしまうが、 航空機用エンジンとしては生き残り、傑作輸送機ダグラスDC−3を飛ばしたり、『究極の航空機用ガソリンエンジ=ライト/デュプレックス・サイクロン・ターボコンパウンド』 を産むに至ったが、タービンエンジン時代になって航空史エンジン篇からも消えてしまった。


 ライト・フライヤー1号の平面図と側面図。

 平面図では左半身が上面から、右半身は底から見た図になっている。
 飛行方向は、平面図では上方向、側面図では右方向である。

 ライト機の場合、操縦の基本である横転は腹ばいのパイロットが腰を左右に振る事でワイヤーを引いて複葉の主翼を撓ませ揚力の 左右アンバランスを作り出すことで行い、機体最後部の全動式の方向舵兼垂直尾翼が撓み翼に連動して舵を切って旋回した。
 上昇下降は手で操作する全動式の機体の最先端にある先尾翼で行なった。フライヤー1号のこの構造には水平安定板がないので、 位置エネルギーと速度のエネルギーの交換である上下運動時の頭上げ下げの姿勢制御に難があったであろうと言われており、 実際ライト機は非常に操縦が難しかったと言われている。
 それでもパイロットの意思通りに三次元で空気力学的に矛盾のない運動ができる構造を持っていた。
さらに、クラッシュ時に重いエンジンが前のパイロットを押しつぶさないようにエンジンとパイロットをオフセット配置するという 安全性考慮もされていた。

 それにしてもこの姿、飛行機というより大和言葉で『天駈けるからくり』と言った方がふさわしい。

 ウィルバーとオービルのライト兄弟は牧師の父、元教師の母のもと総勢5人の子供の上から3番目と4番目で、上の二人は大学に行って高等教育を受けて いるが、この二人は高卒である。工学的才能に恵まれ、伝記によっては天才という形容もされる兄のウィルバーが大学に行かなかったのは ハイスクール時代にスポーツで受けた重傷のせい、オービルの場合は徹底的な体育会系筋肉頭であったせい、とされている。

 二人は当時の花形乗り物である自転車の修理を手がけたが、そこは工学の天才ウィルバー、修理だけではあきたらず、母方の祖母の姓である バン・クリーブのブランドで製造販売を始めてたちまち成功、飛行機の開発の資金もこの自転車製造修理会社の収益で賄った。

 フライヤー1号以降のライト兄弟の毀誉褒貶も興味深い物語であるが、それは別に伝記を読んで頂きたい。
 それらにきっと出てくる、聡明な理科系頭脳を持った母の事、兄二人の木と帆布でできた飛行機製造を手伝い、後のヨーロッパ遠征にも 参加した『第3のライト兄弟』末妹キャサリンの事なども好きになるであろう。 そして、兄弟の発明に冷たい態度を取り続けたアメリカ政府とスミソニアン協会に立腹するであろう。両者は飛行機そのものの意義 は認めていたのに何故かライト兄弟には冷たかったのである。

 フライヤー1号の本物はかってロンドンの科学博物館にあった。そのいきさつはライト兄弟のフライヤー1号以前に動力飛行が可能な 機体があった、従ってフライヤー1号は最初の飛行機ではないとしたスミソニアン協会と揉めたことにあり、怒ったオービルがイギリスに 貸与してしまった事による。
 其の後の仲直りでフライヤー1号は里帰りし、ロンドンにはレプリカは展示される事になった。

 2003年12月、飛行100年を記念して、フライヤー1号と全く同じ設計、材料でレプリカを作って、ゆかりのキティホークの海岸で飛ばそうという イベントがあったが、結局ライト兄弟の飛行記録には遠く及ばなかった。しかし、ライト兄弟のフライヤー1号が飛んだ事は証拠写真から 明らかである。


目次に戻る。




飛行機 ドーバー海峡を越える

 ドーバー海峡とはフランス即ちヨーロッパ大陸とブリテン諸島の間の海で一番狭い北フランスとイングランド南東部の間の海峡を指す。


ミシュラン 100万分の1

 一番狭い部分は34Km位しかなく、晴れていれば対岸が見えるこの海峡は今でも泳いで渡りたい人が絶えないように 『横断したい・・、渡りたい・・・』意欲を駆る海峡である。
 黎明期の飛行機にとってこのドーバー海峡横断は渡洋飛行という実用化の第一歩であったとともに、兎に角渡りたい目標であった。

 現在は日本の技術で(資金もそうだったという説もある)掘ったドーバートンネルの他、船のフェリーも日がな往復している。
 ドーバーを渡るなら船がお薦めである。自動車を汽車に乗せて運ぶトンネルは面白くもおかしくも無い。しかし、残念な事に、 現在は、観光客が乗れるようなドーバー海峡横断フェリーは廃止されてしまったようである。



 左;フランス、カレー港からのフェリーへの乗船。フェリーに乗ると言うのはどこであっても胸高まるものである。

 右;フェリー船上から英国ドーバーの白亜の崖。



 ドーバーの入国スタンプ

 ドーバー港にはパスポートコントロールがあり、車に乗ったまま乗車している全員のパスポートを渡してチェックを受ける。 左ハンドル車対応の窓口もある。
 イミグレーション・オフィサーは空港におけるパスポート・コントロールと同じような質問をしてくる。OKとなると、 ポン、とスタンプを押し、左側をドライブするよう一言注意してくれる。


 ドーバートンネルのフランス側カレー基地。駐車場の車は大げさにいうと半分はイギリスナンバーである。後ろの建物はショッピングモールで 日本の都市郊外にある大規模ショッピングモールにそっくりのものである。

 右;ドーバートンネルを掘ったシールドマシンの先端。


 ドーバートンネルのイギリス側フォルクストン基地の乗車待ち列。完全に閉鎖型の車両の列車(スイスのトンネルの 汽車フェリーのようなオープントップではない)に脇から斜めに入り込み、係員の誘導に従って 自走し、指定の位置に付く。

 海底を疾走中の列車内。車の乗客は車の外に出ても良いが、別にデッキやサロンがあるわけではない。電光掲示板に現在の速度などが表示されるが 何のアミューズメントもない。

 この海はまた舌平目の産地であって、ドーバーソールは舌平目の銘柄品で、フランスのレストランでもメニューに載るときは必ず、 ドーバー産と銘打たれる。





 Calais=カレーの北のDankergue=ダンケルクは1940年5月のドイツ軍大攻勢の時追い詰められた連合軍兵士37万人が 海に浮かぶ物なら何でも利用して、ヨーロッパ大陸から脱出したところである。

 また、連合軍の大陸反攻に当っても英国に一番近いここは、ドイツ軍が連合軍大陸反攻上陸作戦の本命と考えていた所で、 ドイツ軍の防御陣地も堅固であった。地図で北西に尖った形で見える Gap Gris-Nez gris(灰色の鼻岬)はその防御陣地の中心だった。

 ところが実際には連合軍は英仏間が一番広いノルマンディのカルバドス地方にやってきたのはご存知の通りである。

ミシュラン 20万分の1


 CALAISの文字の下に小さくBleriot-Plage(ブレリオ浜)の文字が見える。

 赤いアンダーラインは、ミシュランガイドの赤本(ホテル・レストランガイド)か名所旧跡案内の緑本を参照のことを 示している。この場合は緑本を指していて、では、と緑本を開くと、ブレリオのドーバー海峡横断飛行の事が載っている。


ブレリオ浜にあるルイ・ブレリオのドーバー海峡横断飛行モニュメント

 1909年7月25日 自社のブレリオXI機を操縦してこの場所を飛び立った飛行機製作会社オーナーであり飛行家であったルイ・ブレリオは40Km、 32分間の飛行でドーバー海峡横断に成功した。

 ブレリオはこの飛行に先立つ7月13日にクラッシュ炎上して火傷と怪我を負い、この日の段階でも松葉杖使用中であった。夜も明けやらぬ頃 絶好の飛行日和である事を知ったブレリオは、松葉杖を放り投げて飛行機に走ったと言われている。

 ロンドン・ヒースロー空港を離陸して大陸に向かうABRO-RJの洋上飛行時間は目測9分半であった。

2009年発行の海峡横断100年記念切手。




 ブレリオXI機 平面図と側面図。

 木製スペースフレーム羽布張牽引式単発単プロペラ単葉単座機と分類される。
 牽引式単発単プロペラ単葉単座機というのはこれだけなら 零式艦上戦闘機と同じ形式である。ただし零式艦上戦闘機は全金属製モノコック構造である。

 全長=8m、全幅=7.8m、全備重量300Kg。

 上写真;科学博物館/ロンドンのブレリオXI機


 ブレリオ機のエンジン(科学博物館/ロンドン)

 アブロニ・アンザニ3気筒2800CC、24馬力。

 写真の角度で後ろに別の大きなエンジンが重なって写ってしまって巨大なエンジンに見えるが、 アンザニエンジンは一番手前の三気筒のバイクのエンジン風の部分のみである。
 ドーバー海峡横断飛行の時の機体とエンジンそのものはパリにあるというが、私は見たことがない。

 横断飛行時、そのエンジンはオーバーヒートで出力低下し、ブレリオは不時着水のピンチに陥ったがイギリスに近づいた時、突然の雨に遭い、 その雨がエンジンを冷やしてくれた為何とか飛び続けたという伝説がある。





目次に戻る。





飛行機 アルプスを越える

 飛行機が生まれたのはアメリカであったが、揺り篭から出て実用化目指しての改良とその結果を試す冒険の舞台はヨーロッパそれもフランスであった。
 1908年8月8日のル・マン飛行大会でのユーノディエール競馬場上空で行なったウィルバー・ライトが操縦するライトA型機の完璧な旋回による 8の字飛行はヨーロッパの飛行家にとってまさに黒船となり、 それを機としてヨーロッパの飛行機熱は高まり、競争への参加者の増加とその相乗効果による爆発的な進化が始まった。
 その中で、ライト兄弟自身の工学的袋小路でのもたつき、天才ウィルバーの病死もあるが、飛行機はライト兄弟の手から離れた ところで進化していく事になる。

 フランスの平原(例えばパリ)から陸路でアルプスの南に行くには、現在のパリ市民のバカンスシーズンにおけるエクソダスのメインルートであるセーヌ沿いに 南東に向かい、さらにローヌ川沿いに南下し、コートダジュールに出て海岸沿いにモナコを経てイタリアに向かう方法と、ローヌ川を下らずに溯って ラク・レマンに出、さらにスイスのローヌ谷(ヴァリス谷)に出てどこか峠でアルプスを越える方法がある。
 黎明期の飛行機でアルプスの南に行くには現在陸路で行くのと同じ感覚であるが、前者では単に『飛行機アルプスの南に行く』 に過ぎず、面白くもおかしくもない。飛行機がイタリアに行くにあたってはどうしてもアルプスを越える必要があったのである。

 ローヌ谷までは当時としては長距離飛行ではあっても大きな山岳を越える必要もなく、謂わば平地の感覚で飛ぶ事ができる。
 アルプスを越えた北イタリアの平原には大河ポー河が流れ、カエサルの名前と共にあるルビコン川のような小河川、湿原が張り巡らされていて、 艱難辛苦の末アルプスを越えたハンニバルの戦象の生き残り達は、折角出た北イタリアで哀れ潰え去ってしまったが、飛行機にとってはそんなものは何の障害でもない。
 飛行機は前年の1909年7月にドーバー海峡横断に成功して既にロンドンと繋がっていたので、アルプスを越えられれば、ここにロンドンから パリを経由してミラノどころか、ローマまでの内陸空路が開けることになる。

 かくして、アルプスを避けて飛ぶ南ルートでミラノに26機の飛行機が集まった1910年9月に開かれたミラノ飛行大会の最大の呼び物は、 ブリーグ−ミラノ間のアルプス越えレースであった。しかし、ローヌ谷の南、スイス/イタリアを遮っているのはアルプスでも有数の高さと険しさの山、 典型的にはマッターホルンやスイスの最高峰モンテローサ山群などである。

アルプス

 ロンドン発でジュネーブ空港にアプローチ中の、今は亡きスイスエア(SR)のエアバス321からのアルプス。

 真ん中の大きな雪山がモンブラン、その左にグランドジョラスが見える。さらに画面左奥にマッターホルンの姿と雲がまとわりついたモンテローザ山群。
 これらの山の画面手前側がスイスのローヌ谷で山の向こうがイタリアである。

 モンブラン山群の左グランドジョラスのさらに左の方にグラン・サンベルナール峠。マッターホルン/モンテローザの向こうにシンプロン峠がある。

 ジュネーブはラク・レマンからローヌ河が流れ出す部分にあり、湖の長線方向反対側、モントルーやシオン城の方にヴァリス谷から出たローヌ河 が流れ込んでいる。




 勿論当時の飛行機はここにあるような4000m峰の上は越えられないのであるが、 山脈には幸いにも低いコル(鞍部)の部分もあり、そこには陸路アルプス越えが可能な峠道が通っている。その峠道付近で山越え飛行すればアルプスの 向こうに行ける。
 一発でアルプスの南に行ける峠道はグラン・サンベルナール(2469m)、シンプロン(2005m)、ヌフェネン(2478m)の3本、 このうち最も低いのはシンプロン峠であるから当然この峠越えが狙われた。
 シンプロン峠麓のスイス側の町はブリーグ、南のイタリア側の町はドモドッソーラ。 ブリーグは急斜面の町で、南側斜面からの再々の土砂崩れ被害で有名であるが其れはこの際関係無い。


シンプロン峠;ミシュラン20万分の1

 シンプロン峠は標高や険しさから考えるとフランス/イタリア国境の峠やグランサンベルナール峠に対して越え易い峠である。

 しかし、ローヌ谷の奥深くに位置してアプローチが長いのを嫌われてか、歴史の中ではカエサルも愛用したはるかに手強い グラン・サンベルナール峠に比べると華やかな脚光を浴びていない。
 シンプロン峠は、ダビッドの絵『グランサンベルナール峠を越えるナポレオン』で軍隊のアルプス越え指揮官としても有名なナポレオンによって 1805年重装備の砲兵隊がアルプス越えができる峠として整備された。という歴史を持つ峠である。

 この峠の下のシンプロントンネルは長さ19.8Km、かって世界最長の鉄道トンネルだった。
 1905年の開通であるからシャヴェスの飛行の時は既に鉄道が定常的にシンプロンの南北を行き来していた。

 イアンフレミングの007シリーズ『ロシアから愛をこめて』の原作では ボンドとタチアナ・ロマノーヴァを乗せてイスタンブールを出発したオリエント急行の列車はシンプロントンネルに入って行き、 トンネル内でスメルシュの殺し屋ナッシュとの対決になる。

 オリエント急行の全部がシンプロントンネルを通る路線と言うわけでは無いようであるが、パリ/ジュネーブ/ロザンヌ/モントルー/ミラノ/ベニス と結ぼうとしたらシンプロントンネルの登場となる。



 ミラノ飛行大会附属の水平距離150Kmシンプロン峠越え飛行レースへのエントリーは9機あったが、審査やテスト飛行その他の結果、 結局飛ぶのはチリ人の24歳の若き飛行家ジオ・シャヴェスのブレリオXIが1機のみと言う事になってしまった。
 この飛行大会はミラノ主催であったせいか、スイス側は非協力的で、シャヴェスの飛行の成功を願っての支援と言うよりも観光立国スイスらしく、 人寄せパンダとしてのシャヴェスの利用に走り、むしろシャヴェスをブリーグにできるだけ長く足止めしようとしたのではないかというような 仕打ちもあったという。

 実際にシャヴェスの飛行当日の1910年9月23日にも、スイス側主催者にシャヴェスの成功を願う気持があれば、峠に気象観測班を置きそこから無線で 状況を知らせるという支援態勢を取るのは時代からして十分に可能であったのに、シャヴェス自身が自動車を駆ってシンプロン峠 まで偵察に行くという前振りがあった。当時の自動車の動力性能、道路事情から考えてこれは相当の負担であったであろうと思われる。


 30年くらい前の航空雑誌に載っていた、アルプス越えレースに参加したブレリオXT機、というキャプションがある写真。

 機上の人は常識的に考えると、シャベスその人であろうと思われる。
 出発日であろうか?、だとしたら前方の山の斜面には霧が沸いており風雲急である。

 しかし、兎にも角にも1910年9月23日午後1時29分29秒にシャヴェスはブリーグを離陸した。

 シンプロン峠コルの標高は2005m、この時点での飛行機の高度到達世界記録は9月8日にシャヴェス自身が記録した2587mであるから、 シンプロン峠のコルを安全に越えるということは単純に到達高度の点だけでも飛行機の性能一杯の挑戦であった。
 標高870mのブリーグからの高度差1130mを3回転の螺旋飛行でよじ登ったシャベスのブレリオXIはシンプロン峠に向かった。
 シャヴェスのオリジナル計画では峠のコルよりもう少し高い尾根をショートカットするつもりであったというが、実際にはシャヴェス機は コルの自動車道路通過部即ちシンプロンの一番低い部分を越え、道路に沿って谷間を下ると言うコースを取った。


シンプロン峠のコル部。

 非常に広々とした峠で、シャベスは万一の時の不時着場所に考えていたという。

 マリア像がイタリアに向かって建っているコルは国境ではなく峠全部スイス領である。

 シンプロン峠は国境の峠ではなく、峠のほぼ全域がスイス領である。従って、シャベスの飛行の為の気象情報収集をやるならスイスがやって シャヴェスに提供すべきであったが、そのサポートは行なわれなかった。 スイス側にしてみれば所詮はミラノ主催の飛行大会、協力する必要などない、と言う事であったのであろうか?。


ブレリオXI機の操縦席;科学博物館/ロンドン

 この吹きさらしの籐椅子に腰掛けたシャヴェスの真の苦闘はシンプロンの長い下りにあった。
 コル通過から当面の目標で、着陸できる場所はそこしかないドモドッソーラまでは、飛行機の性能から谷間を通る全行程約45Kmの 自動車道路沿いに這って飛ぶしかない。ブレリオXIの水平飛行での最高速度は58Km/hであったから、45Kmくらいは 一瞬で飛んでしまう現代の飛行機による飛行を思ってはならない。


ブレリオXI機の側面拡大図

 上部の四角の枠A、下部の三角の枠Bは主翼の張索兼操縦索の支持枠。上の支持枠が四角なのはその下に操縦席があるからという 理由もある。
 薄い主翼にはフラップは勿論、補助翼も無く、ゴム動力の模型飛行機同様にのっぺりしている。
 当然このままでは横転=操縦できないので、主翼に張った操縦索で翼面を撓ませて揚力の左右アンバランスを発生させて横転した。
 従って、撓み翼は後の飛行機の補助翼がある主翼のように剛体ではないので悪気流の中では鳥の翼の様に羽ばたく事になり、その外力による 撓みで飛行機は左右の安定を失う他、撓み翼の勝手な動きは操縦索を介して操縦桿に反動として伝わり、これを修正し押さえ込む必要がある。

 離陸時から芳しくなかった天候は悪化し、ドモドッソーラへの下降の飛行でシャヴェス機はアルプスの悪気流に遭遇する。 撓み翼ゆえに剛性と強度に問題があるブレリオXIはよろめきまくり、揺さぶりまくられ、勝手に動く操縦桿と共にシャヴェスを 痛めつけたに違いない。

<注>  補助翼;補助翼というと何か特別な翼が主翼の脇に付いていそうな感じがするが、主翼の後縁の外側(翼端側)で主翼の一部を成す 小さな可動部分で、右横転なら右補助翼は上がり、左補助翼は下がるという左右逆の動きをする。 旅客機でもこの補助翼の動きは判るが、フラップ作動が翼が壊れたかと思うくらい派手で判りやすいのに対して非常に僅かで微妙である。


 ブリーグ離陸から40分後、イタリア領ドモドッソーラの着陸予定地点の真上に来た時はシャヴェスの精魂は尽き果て、 歓迎の人々が見守る中、機体強度限界を越えるような急降下後、地上寸前で空中分解して着陸と言うより墜落してしまった。
 着陸後もシャヴェスの息はあり、病院に担ぎ込まれたが、そのまま回復に至らず9月27日息を引き取ってしまう。享年24歳。

ブリーグにあるシャヴェスの記念碑。イカルスが翼を広げ、シンプロン峠を向いて羽ばたかんとしている。


 ローヌ谷は言語的に微妙な地域で、スイス言語地図ではドイツ語圏となっているが、ブリーグ駅のアナウンスの第一言語 はフランス語であり、この碑文もフランス語である。『シンプロンを最初に飛び越えたペルー人の 飛行家ゲオ・シャベスを記念して』 シャベスの墜死については述べられていない。




目次に戻る。





飛行機 エトルタ上空を通過、大西洋に消える。


 絵葉書に見るエトルタ。

 真ん中の岬が有名な海蝕洞がある岬。

 画面の中央の上部で、少し傾いて見える白い小さい建造物が、
ナンジェッセ/コリの飛行記念碑。


この物語に出てくる飛行機達、同型機ではなく実際の機体

左:ビッカース・ビミー双発爆撃機改造長距離飛行機。全備重量4900Kg、360馬力X2。
中:ルヴァッソールPL8、L'Oiseau Blanc(白い鳥)号。全備重量5000Kg、500馬力。黒いハートに髑髏は、撃墜王ナンジェッセの個人マーク。
右:ライアンNYP、スピリット・オブ・セントルイス号。全備重量2380Kg、238馬力。

 人類最初の大西洋無着陸横断飛行は、英空軍の軍人ジョン・ウィリアム・オールコックとアーサー・ブラウンによって1919年6月14日、 ビッカース・ビミー双発爆撃機の改造機により、カナダのニューファウンドランドとアイルランド間で成し遂げられた。所要時間は16時間12分、飛行距離3,186Kmであった。
 というと、嘘!、と思われる方が大部分であろう。と、かように大西洋横断飛行はチャールス・リンドバーグの名前と密接になっている。

 リンドバーグの飛行の偉大なところは
  1.単独飛行=33時間30分の飛行の操縦と航法を一人でやってのけた。
  2.パリ/ニューヨーク間飛行=大西洋の一番狭いところではなく、大都市の空港を結んで飛んだ。
   ニューヨーク;ルーズベルト飛行場とパリ;ル・ブルージュ空港を結んで5,810Kmを飛び、航空輸送の実用化に繋げた。
  3.更に付け加えるなら、これだけの大飛行を単発エンジン機でやった。

 ところにあるのであって、けっして人類最初の大西洋横断飛行にあると言うのではない。

   大西洋横断飛行はオールコック等によって一応成し遂げられてから、長距離飛行家の目標は大西洋の両岸の大都市空港間を無着陸で飛ぶことに切り替えられた。 大西洋の両岸にはこの目標を成し遂げようとする飛行家がそれぞれ複数いて機会を狙っていて、その競争の勝者がリンドバーグだったというわけである。


 リンドバーグの飛行に先立つ12日前の1927年5月8日の早朝、フランスのノルマンディン北部エトルタの上空を高度200mで大西洋に向かって飛ぶ 白い飛行機があった。
 第一次大戦でニューポールを駆って45機撃墜のフランスの空の英雄シャルル・ナンジェッセが操縦、当時の機上航法士の第一人者フランソワ・コリの乗った ルヴァッソールPL8、L'Oiseau Blanc(白い鳥)号の、大西洋両岸の都市間の無着陸飛行を目指して、 パリ;ル・ブルージュ空港からニューヨーク;カ―チス飛行場に向かう飛行であった。

 ルヴァッソールPL8は、複葉ということもあって、12日後に逆方向で成功するリンドバーグの ライアンNYPに比べると重量もエンジン馬力も2倍の機体である。大西洋をヨーロッパからアメリカに向かう飛行は高空は勿論、低空でも偏西風の影響で 基本的に向かい風の飛行になるのでリンドバーグの飛行より難しい。実際、事前にナンジェッセ/コリは無風換算で6,500Km以上の航続距離が必要と していた。ルヴァッソールPL8の航続力はこれに応えるだけあると計算されていたが、それが本当かどうかは勿論やってみなければ判らないわけで、 ナンジェッセの操縦術とコリの航法技術に賭けたギャンブル飛行であった。ただし、リンドバーグとは違ってナンジェッセは冷静な長距離飛行家ではなく、結構「熱い」戦闘機乗りであった。
フランス人でやたら「熱い」パイロットといえば、サン・テクジュペリを思い出す。


 エトルタの岬。ナンジェッセ/コリの飛行記念碑。

 オリジナルは大戦中にドイツ軍の手で破壊され、1962年に再建された碑で、そばに小さな博物館があるが、私が行った時は閉館していた。

 ナンジェッセ/コリのルヴァッソールPL8は1927年5月8日の午前5時21分にパリを離陸、6時4分にここエトルタの上空を高度200mで通過、大西洋を碑の矢印が指す 方向ニューヨークに向かって飛んで行った。
 ナンジェッセとコリは、燃料の切れる38時間後になってもニューヨークには現れず、その後の捜索でも機体の破片すら発見されなかった。
 エトルタで目撃されたまま、大西洋に消え去ったのである。

 パリからニューヨークに向かう大西洋横断無着陸飛行が成功したのは1930年9月1日のことであった。

 パリ;ル・ブルージュ空港=パリの北東にあるシャルル・ド・ゴール空港と同方向で、パリ市からいうと手前にある空港で、 現在でも現役でパリ航空ショウの会場である。
 ニューヨーク;ルーズベルト飛行場=ニューヨーク中心から約35Km東。現在は廃止され空港ではない。
 ニューヨーク;カ―チス飛行場=ニューヨーク州の北部に現在もある空港。


目次に戻る。





飛行機 時速650Kmを越える。シュナイダー・トロフィー・レース

 現在の飛行機はごくごく特殊な例外を除いて陸上を基地とし陸上の滑走路に離着陸している。
 航空母艦搭載機といえども様々な離着陸支援装置の助けを借りつつ母艦での離着艦を可能にしているだけで基本的には陸上機である。
 巨大で重たいが一旦離陸すると高速で飛行できる飛行機がその存在をまあ許容できる程度の規模の陸上基地(空港)で運用できるのは、 飛行機の主翼に備える高揚力発生装置=フラップの発明の賜物である。
 即ち、離着陸の時はフラップ展開で主翼面積を広く低速適合の翼型にし、空気抵抗は無視して兎に角低速で高揚力を得、 一旦離陸したらフラップを畳み、空気抵抗を小さくして高速適合の翼型で飛行する。 フラップの発明以前の飛行機は離陸時も飛行時も同じ面積と形の主翼であったから目的によりどっちかを重視し、 もう片方は切り捨てなければならなかった。

 その典型が飛行機の発達史の中で非常に特異な発達を遂げ、進化の袋小路に入り込んでしまった故にその時代だけで後継なしに終った水上競速機である。
 空中での高速の為の翼面積も空気抵抗も小さい主翼は離陸にも非常な高速を必要とし、当時陸上にそんなに加速できるほど長い滑走路を備えるのは 無理であった事からフロートを着けて無限に長い水面を離陸滑走に利用することで離陸(離水)した。
 この水上競速機の異様な発達の原動力となったシュナイダートロフィーレースは本来水上機の実用的なかつ健全な発達を願って国対抗レースとして 創設されたものであったが、二つの大戦間の平和な時代にあっての国家間の代理戦争の様相を呈するようになり、 軍の予算と人員、それに人命をも費やしての国家威信発揚の場=戦場となっていった。

 このシュナイダートロフィーレースに特に熱心であったのが、イギリス、アメリカ、それにイタリアであった。 シュナイダートロフィーレースそのものは、資金不足などから開催がだんだん怪しげになっていき、最後はすっきりしないまま、 1931年の第12回レースでイギリスのスーパーマリンS6Bが最終勝者、英国三連勝でシュナイダートロフィーは永遠に英国 のものということになって決着してしまった。
 S6Bはさらに速度記録に挑戦、1931年9月28日、当時の世界記録である時速654.9Kmを樹立し、シュナイダートロフィー勝者は 当時世界で最も速い航空機でもある事を証明した。

 今、ロンドンの科学博物館にはこのスーパーマリンS6B、そのエンジンだったロールス・ロイス”R”、それらによって英国が永久保持する事になった シュナイダートロフィーが展示されている。

スーパーマリンS6B;科学博物館/ロンドン



 両方の写真とも右翼の後方(画面で上)に壁の中の展示室に収められたシュナイダートロフィーが見える。




シュナイダートロフィー。科学博物館/ロンドン





 相当大きな物である。台座には海の生物が彫られており、12回それぞれのレースで獲得した『戦勝国』の国名が刻まれている。
 上記のプレートは、最後のレースの戦勝碑部分で、シュナイダー・トロフィーが英国にある由縁、英国の3連勝、完勝( outright )を謳っている。
 トロフィー本体は海の波から生まれた若者の勝者が空の女神の接吻を受けると言う素晴らしいデザイン。



ロールス・ロイス”R”=RRR。科学博物館/ロンドン


 スーパーマリンS6Bの展示説明板の一部
 機体の諸元と動力(パワープラント)はロールス・ロイス”R”V型12気筒エンジンである事、 そのRエンジンがどれだけのパワーを出したかが示されている。シュナイダー・トロフィー・レースの後で行われた速度記録への挑戦時は、 よりパワーアップされていたようである。但し、燃料は今日言う ”ガソリン” とは成分が異なっていた。


 ロールス・ロイス”R”エンジン。
 遠心式スーパー・チャージャーとその給排気管の引き回しが強烈な印象である。写真一番手前で上向きに開口している吸気ダクトはS6B装着時には エンジンの上を機首付近(写真向こう側)まで伸びて、プロペラ後流での流入空気圧縮効果を期待する延長ダクトに繋がっていた。
 このエンジンは後のロールス・ロイス社の戦闘機用エンジン "マーリン=鷹” の母体となったと言われている。
 写真では判り難いが、V-12のレイアウトは当然として、ダブルの点火系、ベベルギア駆動ののSOHC4バルブなどはマーリンに 受け継がれている。ダブル・イグニッション、DOHC4バルブの過給器付きエンジンを市販の高性能スポーツカーが載せたのは これから50年後であった。但し、このくらいの大馬力の飛行機のエンジンは自動車のエンジンと違って定速回転運転が原則で あるから、自動車のエンジンにとって重要な過渡特性はたいして重要ではないので、こと過給についてはやり易かったのである。

付録;S6Bの遺産

 RRRエンジンを先祖に持つ英国の戦闘機用エンジン

 左;ロールス・ロイス/マーリン(ロンドン科学博物館)。カットモデルである。
 零式艦上戦闘機の設計者である堀越二郎曰く『マーリンを載せた戦闘機を設計する事は全ての戦闘機設計者の夢』

 中;マーリンの動弁機構。べべルギア駆動のSOHCでタペットを介してシリンダー当り4バルブを駆動する。
 タペットの取り付け軸のフレームにカムシャフトから動力を取っている回転軸があり、カバーの外に取り付けた 何か補機を回している。カムシャフトで色々な補機を駆動するのはOHCエンジンの常套手段で、ホンダS500/600/800の DOHCエンジンもカムシャフトでディストリビューターを駆動していた。
 約27000CCで、1000馬力級エンジンとしてスタートしたが、米陸軍航空隊のP−51用のパッカード社ライセンス生産モデルで 典型的に1700馬力、最終的には実験的にではあるが2780馬力を発生した。

 右;ロールス・ロイス/グリフォン(マンチェスター科学博物館)
 実戦において、ドイツのダイムラー・ベンツやBMWの航空機用エンジンの発達に対抗していく上でいずれ重量増加や基本設計からの限界がくること が予想されたマーリンの後継者として、対独戦開戦後にV-12で1500馬力を発生するエンジンというコンセプトで開発がスタートした。 マーリンよりはるかにすっきりしたレイアウトで36700CCと大きな排気量なのにエンジンの体積は マーリンより小さい。マーリン発展型ではなく完全な新設計で、驚いた事にエンジンの回転方向がマーリンとは逆であった。
 このためマーリンからグリフォンへのエンジン交替はプロペラ反動が逆になる事を意味し、それまで離陸時に左へ頭を振っていたのが グリフォンでは右に振ることになった。しかもその頭の振り方が尋常ではなく、グリフォン・スピットファイヤーはかなりのじゃじゃ馬だったらしい。
 この癖はロートル製二重反転プロペラ装備で解消された。

   グリフォン・エンジンは、 グリフォン85以降は航空機搭載時で、最終的に離昇出力2540馬力、高度6000mで2000馬力を発生し、 ロートル製3枚羽根二重反転プロペラを付け、イスパノスイザ20mm機関砲4門た空母搭載型シーファイヤFR MK47に搭載され、 空母から朝鮮の空に出撃した(ただし、地上攻撃が主任務だったが)。
 1000馬力級エンジン、武装7.7mm8門の戦闘機として、零戦/栄エンジンなどのライバルだったスピット・ファイヤーが大戦中進化を続け、最終的には グリフォン搭載で我が疾風/誉(ハ-45)やF-6-F/ダブルワスプを上回る性能を得て、戦後も生き延びたのである。

 グリフォン以降、航空機用水冷ピストンエンジンは開発生産されず、グリフォンは現在でも最高出力の直列シリンダーのピストンエンジンとして 航空機レースやホットロッド、速度記録用航空機や自動車、馬鹿力を競う特殊トラクターなどの動力用に使われている。
 地上ないし低空で特殊燃料を使った場合は冷却さえ十分なら連続3400馬力、瞬間4000馬力が出せるらしい。
 グリフォン搭載のP-51改造機『レッド・バロン』は1979年8月14日、ネバダ州トーノッパで時速803.069Kmを記録し、ピストンエンジン機として最初の時速800Km越えを 果たした。ただし、この記録はその丁度10年後の1989年8月にライトR-3350デュプレックスサイクロンを搭載したF-8Fベアキャットに破られた。 その時速850.24Kmは現在のピストンエンジン駆動の飛行機の速度記録になっている。

 ただし、地上で馬鹿力競争する競技用途には空冷星型エンジンの搭載は冷却やレイアウト上困難であるから、デュプレックスサイクロンやワスプ・メージャーではなく、 グリフォンないしマーリンが選ばれる事になる。

S6Bと同じメーカー、同じ設計者による戦闘機 ”スピット・ファイヤー Mk I”

 スーパーマリン/スピット・ファイヤー MkT(帝国戦争博物館/ロンドン)   この飛行機がこの博物館に展示されていなくてどうする。という飛行機と博物館の組み合わせである。

 本HPとリンクさせて頂いている『野戦病院』の軍医HAWKEYE大尉殿のご研究によると、1946年5月から1948年3月まで、 中国四国地方の占領統治を担当した英連邦軍は、旧海軍美保飛行場で合計36機のスピットファイヤを運用した。
 そして大尉殿の見解だとそれは戦争末期にインド極東方面に展開したMk[で、スピットファイヤが日本本土上空で任務飛行をした唯一の 例であろうとのことである。

 スピットファイヤー Mk[は最良のスピットファイヤの評価もあるマーリンエンジン搭載の事実上最後の型である。
 写真のMkTなどとの識別は5枚羽根プロペラとエンジン下に延長されたエアフィルター付き空気取り入れ口、それに飛行時は引き込める尾輪でできる。




スーパーマリン・シーファイヤFR Mk47

 スピットファイヤの空母搭載型であるシーファイヤの決定版。
 グリフォン88、2145馬力にロートル三枚羽根の二重反転プロペラを付けている。
 二重反転プロペラによってプロペラ反動が消えタキシング中、離陸時、旋回時などでプロペラ反動によるパイロットが 意図しない飛行機の異常な挙動がなくなった事で、 特に狭い飛行甲板上で運用する空母では危険度が劇的に下がって運用しやすくなったと言われている。

 この写真は自重4トンのシーファイヤMk47が着艦でアレスティングフックがワイヤを捕まえた瞬間である。スピットファイヤーMk1から 20年余りで重量は2倍、速度は1.5倍になった。

日本とドイツの兵器の展示

 但し、この博物館は旧敵国の飛行機には冷たい。というか『アーロン収容所』に言われる『底意地の悪さ』を感じさせる。

三菱零式艦上戦闘機

 鹵獲機の機体記号をつけたトルソーという無残な姿である。
 この無残さ故に、コックピット内部、主翼の断面構造がよく見えることで有名な展示機体である。
 零戦は機会こそ少ないが緒戦でスピット・ファイヤーとも交戦し、総合的には勝利している筈である。

ダイムラー・ベンツDB601エンジン。

 スピット・ファイヤーと言えば反射的にメッサーシュミットBf109となるように、 エンジンもマーリンと言ったらDB601である。勿論BMW801も好敵手であるが、エンジンのレイアウト、 第一次世界大戦時からの航空機用エンジンにおけるロールス・ロイスとダイムラー・ベンツのせめぎあいなどから マーリンと対比されるのはDB601であろう。共に単発戦闘機のみならず、双発機、爆撃機にも搭載されて 母国の命運を背負った点も似ている。
 戦争博物館のこのDB601は、ルドルフ・ヘスが亡命時に乗っていたメッサーシュミットBf110双発戦闘機 のエンジンという由緒正しいものであるが、倒立運転のエンジンが正立(?)つまりDB601として逆さまに置いてあるという とんでもない展示である。 戦争博物館の学芸員がDB601は倒立運転である事を知らないわけがなく、これは絶対故意である。
 写真向こう側のシリンダー列のカムシャフトカバーが無い為、動弁機構が良く見える。DB601の弁は通常だとエンジンの底に あるので、簡単には見ることは出来ない。

 右;DB601の動弁機構。マーリンと同じSOHCでコロ付きのバルブタペットを動かす機構でやはり1シリンダー 4バルブである。目的を達して簡素と言う点ではDB601の方が優れており、製作も楽そうである。 しかし、このDB601エンジンは日本がライセンスを得、ハ40エンジンとして量産しようとしたが、長いクランクシャフトや それを支えるベアリング、更には過給機の変速機構などについて 材質、工作機械の精度、冶金処理等々あらゆる分野の基礎からの工業力が不足で結論としてハ40生産は至難の業になった。 このハ40搭載の戦闘機が陸軍三式戦闘機『飛燕』である。


 飛燕は大東亜戦争に参戦した日本戦闘機の中で唯一の液冷エンジン搭載機である。
いわゆる重戦闘機で、生産には材料と人手が沢山必要だったし、武装も重く、対戦闘機用ではなくB-29迎撃という対爆撃機用 として使われた。

 DB601ライセンスのハ40生産の不調で頭が無い三式戦の胴体が並ぶ事になり、 急遽手持ちの空冷エンジンであるハ112に換装した五式戦闘機が予想外の性能/稼働率/戦果を上げたため、 三式戦闘機のハ40搭載は計画の失敗だったという評価もある。

 それはともかく、『飛燕』は文句無く格好良い飛行機で、鹿児島県の知覧にある特攻平和会館で実機を見ることが出来るが 間近に見る『飛燕』の実機の姿は息を飲む美しさである。


戦争博物館の零戦のお口直しに靖国神社遊就館の零式艦上戦闘機52型をご覧下さい。


 遊就館は只の戦争博物館ではなく、ご遺品の展示館という意味が強い為、基本的に撮影禁止であるが、このフロアは撮影自由である。


目次に戻る。





 

飛行機時速700Kmを超える。永遠のレコードホルダー

 英国のS6Bに対するイタリアの最後の切り札マッキ・カストルディMC72は、1931年6月に初飛行したが、 その年開かれた最後の第12回レースに間に合わず、 シュナイダートロフィーレースは永久に終ってしまった。 宙に浮いた形になってしまったMC72の目標は当時の飛行機の絶対速度記録樹立しかない。

マッキ・カストルディMC72

 イタリア空軍博物館/ビーニャ・デ・バッレ/ローマ近郊。

 人類の歴史の中で『最も美しい機械』マッキ・カストルディMC72ハイドロ・プレーン・レーサー

 機体はイタリアンレーシングレッドの元祖となったとされる真紅、金色の部分はラジエターの放熱部で真鍮の色。

 水上競速機というのは飛行機として完全に奇形で、その操縦特性はとてつもなく難しいものであった。
 飛行機の重心から離れた位置に巨大な質量と空気抵抗を持つフロートを着けている。
 このフロートは水上滑走用だけでは無く、空気抵抗減少の為に極端に寸法を切り詰めた機体本体には装備しきれないエンジン冷却用の ラジエター/オイルクーラー/燃料タンクなどを収める重要部品であった。
 しかし、このフロートこそが操縦性には最悪の代物で、特に飛行機の頭下げ・上げ操縦を非常に神経質なものとし、 一歩誤ると飛行機が前のめりになり回復不能なまま連続でんぐり返しに至る、という恐ろしいことになった。
 また、離水までフロートで押さえつけられていたプロペラ反動が、離水と同時に飛行機を横転(ロール)させるように働くので、 これへの素早い対処も必要で、飛行姿勢を崩すと容易にカタストロフィーのでんぐり返しに陥った。
 MC72はフィアットAS6エンジンと二重反転プロペラいう特殊な動力系統で この離水反動を解決していたが、今度はこの複雑怪奇な動力系の故障に泣かされる事になる。

2006年秋、新千歳空港ロビーに展示してあったMC72の模型。

 非常に精巧なもので、エンジンルームのドアを開いての展示と言う凝った趣向である。
 実際、少しでもMC72に興味がある者ならフィアットAS6エンジンにも無関心ではいられないもので、 これを作ったモデラーも同じ気持なのであろう。

 AS6エンジンも丁寧に作られている。私は模型とはいえMC72の動力系の詳細を立体で見たのはこれが初めてである。


同モデルのフィアットAS6エンジンとコントラぺラ詳細。

 フィアットAS6エンジンはフィアットAS5V型12気筒エンジンを2基タンデムにつなぎ、 後ろのエンジンの出力は前のエンジンのクランクシャフト内を通る長い延長軸で取り出されて二重反転の前方のプロペラを回し、 前のエンジンは後方のプロペラを前とは逆方向に回すと言うとてつもない発想=構造であった。
 しかし、このとてつもなさは上手く動きさえすればプロペラ反動を打ち消す絶妙さに変わる。

 この50200CC、24気筒エンジンは最終的に離水時3100馬力を出したが、容易に想像がつくように1930年代の機械工作精度では 期待通り運転できたら奇跡だったし、長い間原因不明の燃料気化系統のトラブルに悩まされた。
 この燃料気化系トラブルは燃料の化学素組成の調整と言うレーシングマシンならではの方法で解決された。

 イタリア国家は北イタリアの保養地ガルダ湖畔に設立した空軍高速飛行学校でパイロット3名の墜死、機体5機中4機全損の犠牲を払いつつも MC72の熟成に勤め、  1933年4月10日 S6Bの記録を破って時速682.078Kmを樹立、さらに同じフランチェスコ・アジェロ准尉の 操縦で1933年10月23日、5機作られたMC72最後の生き残り181号機が時速709.209Kmの速度記録を樹立した。

 これは人類最初の時速700Km超えであり、ピストンエンジン駆動による水上機という分野での速度記録として現在も破られずに残っている。
 こんな進化の袋小路の機種の速度記録は其の後挑戦者がいなかったからだろうと云うかもしれないが、1980年代のアメリカで 戦後の民間飛行機による速度記録の王者ダリル・グリーネマイヤーの機体設計製作スタッフだった二人が組んで時速500マイルの 飛行機を作り、陸上ピストンエンジン機の絶対速度記録と共にこの記録を破る、とするという事を目的とした ツナミ・プロジェクトというのが立ち上げられたことがある。
 2400馬力にチューンナップしたロールス・ロイス・マーリンにF8Fのダウティ製4枚羽根プロペラを使うとしたこの試みは 陸上機としても未完、水上飛行用のフロートを付けるに至らず解散してしまったが、  実際21世紀の現在の材料技術、機械工作技術、機体の制御技術を結集すれば、パイロットの命を危険に晒さずともこの記録を破る事はできるであろうが、 破った所でどうという進展も無い事も確かで、この記録への挑戦が行われるとすれば純粋のロマンだけである。
 ロマンであるならば、永遠のレコードホルダー・マッキカストルディMC72とアジェロ准尉への挑戦者は、機体とエンジン設計 それに動力系の制御へのコンピュータ支援はともかく、操縦はコンピュータ支援なしでないとフェアでない。


ガルダ湖畔のキッチュなリゾートの町、デゼンツァーノにある高速飛行学校の記念碑。


 ご覧の通り巨大かつ感動的なモニュメントで、デゼンツァーノの歓楽街のど真ん中にある。
 一般にモニュメントの類は説明されないと何だか判らない物が多いが、これはその典型であろう。事前知識があるか、説明のイタリア語が判らなければ まず何の碑であるのか見当もつかない。友人のイタリア語使いによるとこの言葉は直訳すると、『高速部隊の航海者たちへ』つまり 『高速飛行学校の操縦者達に捧ぐ』だそうなので、 イタリア語が読めても何の事なのか判らないかもしれない。

 碑文にある1927−1936という期間。
 1927年というのはシュナイダー・トロフィーレースに於いてイタリアがマッキM39で4年振りにトロフィー奪回に成功した翌年であるから、 高速飛行学校はこのトロフィー維持すなわち3連勝しての永久保持を目的として設立されたと考えられる。
 しかし、其の後イタリアは、シュナイダー・トロフィーレースに関しては鳴かず飛ばずになり、1931年、最後のチャンスの年には切り札MC72を S6Bにぶっつけるつもりであったが、レース前に動力系トラブルで墜落、パイロット死亡で万事窮すになってしまった。

 1936年はMC72の永遠の記録の3年後に当る。想像するに700Km超えを達成したあとも高いモチベーションを保つのは不可能であり、 軍用民間問わずこれから発達するであろう飛行機は水上機ではなく陸上機である事は既に明確だった。したがって、1934、5年は火が消えたような年であったの ではあるまいか。

 つまり、高速飛行学校の全てはMC72の世界記録飛行のためにあったのである。その価値は今日振り返ると十分にあったといえよう。

 フラップが発明され、高速の陸上機が短い滑走距離で離着陸できるようになると水上競速機の存在意義はゼロとなり、速度記録機もフロートを棄て、 フラップを備えて陸上にあがった。ここで復興ドイツのメッサーシュミットやハインケルの競速機たちが活躍する事になる。
 戦前のプロペラエンジン機の速度記録は公式にメッサーシュミットMe209V1の時速755.14Km(1939年4月26日)である。
 同じ機体は4月29日に781.97Kmを出したとされるがこれは公認されていない。

 この時代でも速度記録飛行における速度計測というのは厳密なものであったからその数値は現代の水準からみても信用して良い。 飛行機の計器指示速度などは計測手段として勿論相手にされない。
 MC72の場合は氷河湖であるガルダ湖の飛行コースを見通せる崖の上に計測小屋を建て、厳密に距離が判っている二点間の通過時間を計測していた。

 第二次大戦後は速度記録機という機種そのものがなくなり、飛行機の速度記録はピストンエンジン機、ジェットエンジン機とも戦闘機の改良型が 受け持つようになっていった。また、宇宙開発と絡んで極超音速の実験機(X-1やX-15など)もその時々の速度記録を樹立している。

 永遠の速度記録と言う言葉だけで誤解されては困るので最後にもう一度念を押しておく事にする。
MC72の速度記録はあくまでもピストンエンジン駆動の水上機というジャンルにおいてのもので,飛行機の・・・でも、 プロペラ機の・・・でも、ピストンエンジン機の・・・でもない。

 アジェロは世界新記録樹立の功績で大尉に昇進、其の後もテストパイロットを続けたが、1942年にテスト飛行中墜死した。


飛行機の目次ページに戻る